辞書について
酒井邦秀
英和辞典の問題点と理想の辞書  そして 翻訳を志すみなさん へ

 
 山岡さんからいただいた「お題」は表題の通りです。この話題でしたら、言いたいことは山ほどあります。その中から、わたしが将来へ向けて、今関心を持っ ている範囲に限って、書いてみます。
 わたしは1993年に『どうして英語が使えない? 学校英語につける薬』(ちくま学芸文庫)という本を書き、英和辞典と学校英語を批判しました。その後 2002年に『快読100万語! ペーパーバックへの道』(同)という本を出版して「多読」を広めようとしてきました。言ってみれば、英和辞典と学校英語 の批判から、その両方をなしで済ませる方法の提案へと発展したわけです。
 幸い『快読100万語!』で提案した多読という方法は、(いわゆる自社比で)たくさんの人に支持されたようです。辞書も文法も(多読前に知っている以上 には)利用しない多読でペーパーバックを読めるようになった人はこれまでに数千人に上ると思われます。その結果数多くの報告がわたしの元に寄せられ、次第 に(山岡さんのお嫌いな)「ダイレクト・メソッド」による外国語獲得が明らかになってきました。
 日本にいてダイレクト・メソッド風というのもおかしなことに聞こえるでしょうが、それは不可能ではないようです。不可能などころか、従来の英語学習とは 180度異なる方向に歩き出すことでとんでもない世界が見えてくるらしいのです。そこで、どんな世界が見えてくるかについて、一点だけお話しします。そこ から理想の辞書も垣間見えてくるし、その先に翻訳の未来も描けるように思うのです。

 その一点とは「ことばの最小単位は語ではない。文である」ということです。そこから理想的な辞書のあり方も見えてくるはずですが、理想的な辞書について はあとで書くことにして、まずはどうしてそんな結論に達したか、を先に書きしょう。
 わたしは「どうして?」で英和辞典の問題点をいろいろ書きましたが、それを一言でまとめるなら、「英和辞典は辞典にあらず、単語帳なり」になると思われ ます。そう断ずる理由は、英和辞典には定義がなく、見出し語の訳語を羅列しているに過ぎないからでした。「どうして?」に書いたことですが、「head= 頭」ではないし、「lip=くちびる」ではないし、「a few=二、三の」ではなく、要するに英和辞典の見出し語すべてについて、訳語と元の英単語の間にはずれがあるわけです。(したがって、まだ英語獲得途中 の人(学習者とも言います)には、ただ混乱させられるだけなので、決して英和辞典は薦められないことになります。)
 このずれについては『どうして?』に書いたのでここでは繰り返しませんが、英和辞典はそれ故単語帳に過ぎないという指摘は今でも変更する必要はないと考 えています。ところが、英和辞典のいちばん大きな問題をわたしはわかっていなかったことを、多読が普及するにつれて思い知らされました。それが先ほど予告 した「ことばの最小単位は語ではない」ということだったのです。
 多読を試みる社会人が少しずつ増えていくと、奇妙な例がわたしの眼を引くようになりました。典型的には中学入学直後に大病をして長い期間学校に通えな かったおとなが数人いて、ほとんどゼロから多読をはじめて見事にペーパーバックを読むようになったのです。そしてこの人たちはおとなでありながら(?)今 でも前置詞とか関係代名詞とか主語動詞といったことばさえわかっていないのです。
 わたしは辞書を引かずに英語がわかるようになる人たちには、一体何が起きているのかを考えざるをえませんでした。そいて実に単純な類似に思い当たったの ですが、そんなことにすぐ気がつかないとはなんという鈍い人だと言われるかもしれません。You guessed it. おとなが多読で外国語を獲得する様子は、こどもが母語を獲得するときと同じなのです。
 こどもは母語でも知らないことばを親にたずねるではないか、という反論をよく聞きます。けれどもそれはほとんどの場合「内容語」についてでしょうね。し かも「意味」を聞く語の数は最終的にこどもが獲得する語彙のごくごくわずかな一部でしょう。
 途中を省いて話を進めると、こどもはおそらく語という単位を知らないでしょう。親が話しかけて耳に入ってくることばはすべて語ではなくて文であって、何 か状況を認識するため、あるいは動かすためのメッセージを伝えていると考えられます。そうした文を日常の状況の中でいくつもいくつも聞くうちに、いくつか の文の共通部分として「語」が析出されてくるのではないでしょうか?
 さてまた少し飛びますが、英和辞典に限らず、あらゆる辞書・辞典は共通の土台がありました。You guessed it again! 「見出し語」順に並べられていることです。それは2言語辞書である英和辞典でも、英英辞典でも、類義語辞典でも同じです。「言葉の最小単位」を語であると 考えるからこそ、そうした基本構成が成り立つのは当然のことです。
 ところが言語学的興味から(あるいはあとで書く「翻訳的興味」から)「語」を基本単位と考えることはあり得るとして、言葉の獲得はまちがいなく文からだ と思われます。

 したがって、学習用の辞書は文を単位にしなければいけない・・・

 これがわたしの理想の辞書です。これまでのようにいわゆる単語から引く辞書は今の時代にはすでに時代遅れです。コンピュータとインターネットを利用し て、「文で引く辞書」がこれからの辞書となるはずです。それこそことばの本旨に沿った辞書なのです。
 一体そんな辞書は作れるのだろうか? 作れます。作れるはずです。作れてほしい・・・ そして、その原理はかつて山岡さんが語っていた機械翻訳について の意見と同じです。つまり「文構造を分析するより、似た英文を探してその和訳を提示するがいいのではないか」という意見だったと覚えています。それはわた しの考えていたこととまったく同じでした。これからの辞書は、コンピュータの速度とインターネットの広がりを利用して、分析ではなく、類似をこととしま す。
 具体的には一語を打ち込んで訳語や定義や例文を眺め回すのではなく、文全体を打ち込むと、それと似た語や文構造の文とその日本語訳がどっと出てきて、そ こから翻訳にうまく当てはまる日本語を探すのです。具体的にどうやってソフトウェアを設計するかは、山岡さんと相談しながらIT関係の人にやってもらいま しょう。

 ではそうした「文の辞書」と翻訳の関係はどういうことになるのでしょうか。管見ながら私見を一応お話ししておきます。これもまた多読を通じて得たことで すが、ごく簡単です。やさしいことばをたっぷり吸収することです。
 若い人、そして young-at-translationの人たちは、翻訳と辞書の関係をどう考えたらいいのか? わたしは多読普及以前にはこんな風に言ってきました。 (自分で言うのも何ですが)いわく

 1ページに3つも辞書を引かなきゃいけない語があるようなら、その翻訳は辞めた方が いい。内容について知識が足りなすぎるか、英語について知らなすぎるのだから。

 これを聞いたある教え子は「それは厳しすぎます。せめて1ページに10語と言ってください!」と訴えました。しかし多読普及後の今は、1ページに1語辞 書を引くのでも少々危なっかしい気がします。
 そこで若い人たちへの具体的な提案ですが、

* 内容については日本語の本をたっぷり読むこと、
* 英語についてはやさしい素材をたっぷり聞き、読み、観ること

を勧めます。(その際、多読三原則を使い、辞書は引かないこと! そして、日本語に訳さずにダイレクトに楽しむこと!!)
「内容について」の部分はほとんど自明でしょう。翻訳する分野のことを自家薬籠中の物にしておかなければ、英語で書かれたものを読んで内容を理解すること などありえません。まして文芸翻訳で微妙な陰翳までくみ取ることはむずかしいでしょう。
「英語について」の部分には、少し説得が必要だと思われます。わたしは翻訳を志すある人に

 プロになるならやさしい本をたくさん読むといいですよ

と助言したことがあります。以下はその一つの例証です。(なお、以下はtadoku.orgというわたしのウェブサイトの「町の名前をひとつ」というブロ グにすでに書いた記事から大部分引用しています。)

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 まずは、次の英文を読んでください。この文はわずか13語ですが、「やさしい」語の大事さをこんなに見事に物語る文章はないのではないかとわたしは考え ます。

   Catherine walked into Wim's office. "Wim, do you dance?"
   He stared at her.

 これはあるよく知られた作家のおとな向けの小説の一節ですが、ここにはいわゆる「精読」で話題になりそうな要素はまったくありません。一文が長いわけで もなく、むずかしいことばが使われているわけでもありません。こんな簡単なことばだけでできた短い文を「精読」だなんて、いったいどういうこと?と思われ るかもしれませんね。
 けれども、この文で描かれている瞬間がこの二人にとって大きな意味を持つ劇的な瞬間なのだということがわかること、それが「多読的精読」だろうと思いま す。
 どういう風に劇的なのか?

 ここでわたしの「ことばの最小単位は語ではなく、文である」という仮説を使って説明します。そう考える理由は

「語から物語は再生できないが、文からは物語を再生することができる」

と思われるからです。

 しかもこの13語は3文ですから、十分に物語を再生することが可能です。
 わたしが再生した物語はこういうものです・・・

 KatherineとWimは互いに惹かれ合っている。
 けれども二人はこれまでなかなか接近できなかった。
 ひとつの原因はWimは自分がKatherineに惹かれていることを認められなかったからだ。
 それでじりじりしていたKatherineはあるパーティーがあることを聞いて、この時とばかりにWimを誘うことにした。
 Wimは突然の、しかも不躾な誘い方にびっくりするが、渋々OKして、ふたりの仲は急速に進む・・・

 本当にそういう展開かどうかは知りません。細部が当たっているかどうかはたいした問題ではありません。問題はこの場面がそういった「劇的な転換点」だと いうことが「さらっとわかるかどうか」だと言えます。
 わたしは「多読的精読とはさらっと読んで深くわかること」だと言って来ました。もしさらっとわからなかったら、従来の「精読」をどんなに詳しく適用して もわからないでしょう。上の文はそもそも「精読」すべき文章とは見えないでしょうし。

 では、この13語のどこにそんな劇的な内容が潜んでいるのか?
 この13語の表現している場面が劇的であることを読み取るには、いわゆる「語彙力」や「文法」ではわからないことがいくつもあります。

    * walk into
    * office
    * Do you dance?
    * stared at

 こうしたことについて、明確なイメージを持っていないと劇的であることはわかりにくいと思われます。どれもこれまでの[精読」では問題にならない箇所ば かりです。
 一つ一つ説明しましょう。

* walk into
 他人の部屋にwalk into するということは普通はやりません。たくさんの本を読み、聞き、映画を見ていると、部屋に入るときはかならず(たとえドアが開いていても)ノックをしま す。
 walked into Wim's office ということは、Katherine がノックもせずにWimの部屋に入ってきたということです。「ある人」はこの文を読んで、「乗り込んだ」ということばを使いましたが、その通りだと思いま す。

* office
 もっとも、英和辞典にあるように、office を「事務所」とイメージしたら、乗り込む感じは出てきません。「office=事務所」という一対一対応がいちばん悪さをしているとも言えます。

(調べた英和辞典はどれも「事務所」を最初に挙げています。
 「語彙力増強」を唱える人たちは office をいったいどう覚えるのしょう?
 officeなども、多読するうちに訳語がわからなくなる語ですね。
 もちろん日本語の訳語ひとつで済ませることなど無茶です。
 すると、語彙力増強を考える人は訳語を全部覚えるのでしょうか?
 他方、たっぷり読んだり聞いたり観たりしている人の場合はofficeの訳語は浮かびませんが、walked into Wim's office の表していることは受け取れるし、その奥にある物語は再生できる・・・ 不思議ですね。)

ついでに言うと、

Katherine walked into Wim's 事務所.

という文は意味をなさないという気がしますね。
 乗り込むもなにもない、無意味な文とわたしには受け取れます。

「(車で行かずに)歩いて行った」というなら、intoではなくて walked to Wim's office でしょうね、たとえ「事務所」と受け取ったとしても。

* Do you dance?
 部屋に入ったら普通なんらかの挨拶をするものですが、Katherine はいきなり「ダンスできる?」と聞いています。
 入ってすぐ、しかもI wonder if you dance.でも、I hope you love dancing.でも、You don't look like a dancing person, but...でもない切り出し方はかなり異常です。
 この文を読んだ「ある人たち」は口々に「[Katherineは]酔っぱらってるんじゃないの?」とか「水着着ていたとか?」と言って、この場面の異常 さを不思議がっていました。この13語を「不思議だ、異常だ」と感じないで読んだとしたら、「やさしい英語」の吸収量が足りないと言えるでしょう。

* stared
 そんな不躾なKatherineですから、Wimがstareするのは無理もありませんね。(『どうして英語が使えない? ペーパーバックへの道』を参 照!)
 さて、たった13語ですが、この場面の異常さはわかってもらえましたか?

 ここでもう一度強調したいのは
「やさしい語が使われた短い文がやさしいというわけではない」
ということです。
 そして、into や office や Do you dance? や stare といった、
むずかしいやさしい語の奥行きや色合いや広がりや勢いや味や匂い
を吸収するにはそういう「やさしい文」にたくさん触れなければいけないということ
です。
「精読」などというものはないのですが(あるとすれば「注意深く読む」くらい?)、日本英語でいう「精読」に使われる「むずかしい文」ではなく、「やさし い」語だけで文になっているような絵本や本や、映画や、毎日の会話にたっぷり触れること、
それだけが「やさしくてむずかしい語」を会得する道のように思われます。
 なお、そういう多読的精読ができるのは酒井さんだけではないか、という突っ込みがあるやもしれませんが、上に出てきた「ある人」たちは1000万語前後 多読している人たちです。4ヶ月ほど前に上の13語の文を読んで、鋭い(というか、多読的にはごく当たり前の)感想を述べてくれました。

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 さて、これからどんな分野の翻訳をめざすにしても、おそらくいちばん大事なのは、英語の「機能語」を何気なく、しっかりとわかることだろうと思います。 そのためには絵本や児童書の多読、音声を聞きながら本を読む聞き読み(できれば聞き読みしながらシャドーイング)、そして映画や海外ドラマの大量吸収を勧 めます。お勉強ではありません。こうした素材を心ゆくまで楽しむことでいちばん大事な目に見えない力を豊かにつけることができるはずです。

Good luck. We all need it.