辞書について
山本康一(三省堂 辞書出版部)
辞書出版はどこに向かうか
 
 「電子書籍元年」と言われている。従来も電子デバイスにおける書籍ビューワーの開発や、ケータイでの電子コミックなど、漫画を主とした電子書籍の流通は 伸張を見せてきていたが、ここにきて直接にはiPhone、iPad のヒットと、AppStore でのアプリケーションのダウンロード販売、およびそれを追いかけるAndroid携帯の動きなど、通信キャリア、電気メーカー、印刷会社、新聞社、そして 出版社と、広く業界をあげて乗り遅れまいと名乗りを上げ、合従連衡の動きを見せるのを、連日のニュースや報道で頻繁に目にするようになった。
 一昨年からの Google による書籍の電子データ化と著作権を巡る一連の騒動による衝撃とほぼ同時に、iPhone が電子書籍を含むアプリケーションの流通も含めたシステムとして立ち上がり、ある熱狂をもってユーザーに受け入れられたことで、電子書籍ビジネスとその周 辺は、その動きを一気に加速させたように見える。これまでも、ケータイ、スマートフォンやPDA、PCへのコンテンツのダウンロード販売がなかったわけで はない。しかし、iPhoneとAppStoreの成功により、これまでの出版メディアの側からは今ひとつ具体的に意識されていなかった、電子コンテンツ を求めるマスとしてのユーザーと、それへの供給チャネルとなる新たな流通システムが、明確な輪郭をもった実体としてイメージされはじめたということではな いか、と思われる。この事態は、約10年前に、爆発的な広がりを見せると言われ、結局それにはいたらずにしぼんでしまったPDAのPalm用辞書アプリ *1を制作した者として、実に感慨深く思われところである。しかしながら、やはりこの業界をあげての関心の高まりの背景に、長きにわたる出版業界の低迷と 閉塞感が横たわるのを看過することはできない。約15年にわたり売上の落ち続ける紙の書籍の先行きの暗さに比して、新たな電子書籍の可能性を希求すること は当然のことでもある。辞書とても例外ではない。もっとも早く電子化が進み、成功したと言われる辞書であるが、ヒット商品としての、いわゆる電子辞書の普 及という時期を経て、あらゆる書籍が電子化の次のステージに向かうかのように見える現時点にあって、辞書がどういう状況にあり、どういう可能性が考えられ るのかについて、出版社の中で、辞書編集に関わる者としての管見を述べてみたい。

辞書の電子化と電子辞書
 辞書の電子化は、およそ20年前にEPWINGなどCD-ROM用の電子出版規格ができた時点にさかのぼる。CD-ROMの部数じたいは大きなものでは なかったが、この時期にはメーカーPCへのバンドルが行われ、そのロイヤルティ収入が相当にあった。しかし、CD-ROMによる辞書はそれ以上の広がりを 見せずに、縮小して行く。原因としては、辞書を切り替える際にいちいちCD-ROMを入れ替えることの不便さがあったかと思われるが、ハードディスクイン ストールタイプや、仮想CD-ROMなどの手段があってもそれ以上の広がりを見せず、また辞書以外のCD-ROMアプリケーションも消えていったことか ら、むしろ原因は、同時期普及し始めたインターネットにあるのではないかとも思われる。つまり、CD-ROMドライブという固定した環境よりは、オンライ ンで開放された環境のほうに、ユーザーの関心領域がシフトして行った。
 ちょうどこの時期から、IC型電子辞書、いわゆる電機メーカーが開発し、専用筐体で販売する「電子辞書」が家電店や通販を中心にヒットしはじめた。周知 のように、その操作の分かりやすさ、軽さ、電子的な検索方法によって、急激に普及しはじめ、辞書の市場に大きな影響を与えることになった。
 電子辞書は業界団体の調査(2009年)では、1996年には台数で約1万台、金額で約1億円ていどだったものが、2007年には約290万台、約 480億円と約10年で急激な成長を遂げている(ちなみに、2008年は、約250万台、約420億円と落ち込んでいる)。一方、紙の辞書はといえば、 1996年頃の1200万冊から2008年には650万冊ていど、とおおよそ半減しており、販売金額も約300億円から約160億円と落ち込んでいる。
 われわれにとって由々しき紙の辞書の落ち込みには、もちろんいくつかの原因が考えられる。現在のジャンル別販売金額を10年前を100%としたときの比 率でみると、以下のようになる。
国語・漢和・古語 約 60%
その他国語 約 40%
実用大型国語 約 15%
学習一般英語 約 40%
実用英語 約 6%
第二外国語 約 36%
中学生用 約 97%
小学生用 約350%*2
全体 約 55%

 この数字をもとに推測してみると、紙の辞書の落ち込みには以下の要因が考えられる。

1. 教育課程の変化
2. インターネットの影響
3. 電子辞書の影響

 まず、教育課程の変化であるが、国語のうち、特に漢和・古語の減少については、高等学校および入試における古典の比重が減ってきたことがひとつの理由と して考えられる。
 次に、実用英語および大型国語辞典も含む一般実用辞典の極端な落ち込みが認められる。これに対して考えられるのはインターネットの普及である。従来は百 科的な知識も含めてこれらの辞書が引かれていた一般向けの幅広い知識は、まさにインターネットの中にあふれている情報によって代替されうるものである。
 また、インターネットの情報とは直接競合しにくい学習要素の高い辞書、特に学習英和および第二外国語系辞書が減少している点は、やはり電子辞書の影響が 考えられる。電子辞書メーカーは、ある時期から高等学校への営業を行っており、学校によっては推薦辞書として電子辞書を推すところもある。実際に見聞きし たことであるが、ある教室の生徒のうち、紙の辞書を使っている生徒は数人にすぎず、あとは全部電子辞書、という状況が珍しくない。高等学校でこの状況であ るので、大学生になっても電子辞書を使い続けるわけである。大学課程における第二外国語の比重の低下もそこに加わっている。
 私はここで電子辞書を非難するものではない。むしろ、辞書に新しい可能性をきり開いた画期的なツールとして評価しているし、また、それによって、先に見 たように、台数・販売金額ともに大幅に増やしてきたこと、すなわち、紙の辞書の落ち込みの一方で、総体としての「辞書」の市場を拡大し、かつその結果、辞 書データへのロイヤルティとして、出版社と著者にある利益をもたらしてくれていることも大きい。しかしながら、それを前提に、やはり以下の問題をあえて指 摘しておきたい。誤解のないように言うと、メーカーは、あくまでユーザーの利益に立って、ぎりぎりのコスト抑制に努めている結果であり、それを理解した上 でである。
 まず、辞書の多様性の問題がある。現状はどのジャンルでも、相当数の版元がそれぞれの特長をもった辞書を刊行している。対象別、難易度別に必要な辞書、 自分の目的に合った辞書を広く選ぶことができる。たとえば、ある一定の売上部数以上のものにしぼっても、学習英和では10の版元から28種類のものが出さ れているが、電子辞書ではメーカー側が採用している辞書は1〜3ていどである。
 たしかにいかに電機メーカーと言えども、28種類もの辞書を1ジャンルで開発し、そろえることは難しいだろうし、それをすれば開発コストがたいへんにか かり、商品としての競争力を低減させ、ユーザーを困らせることになるだろう。
 同様に、ジャンルごとに辞書を選択することが難しい、という問題がある。つまり、電子辞書の場合は、多い場合は150もの辞書およびその他コンテンツが 搭載されていて、各ジャンル(たとえば、国語辞典や英和辞典)で複数の辞書が入っている場合もあるが、たいていはひとつしかなく、紙の辞書で、英和はこ れ、国語はこれ、というように辞書ごとに組み合わせることができない。ある機種を買えば、その機種での組み合わせしか選択できない。場合によっては、たま たまその辞書が入っていたから使っているということになる。が、カードによる辞書の追加もできるものがあるので、上述のように辞書の数が増えれば、そうい う方向での解決もできるようである。
 最後に、ロイヤルティの問題がある。これは電機メーカー側の努力のあらわれでもあると思われるのだが、市場で競争力を保ち、より多機能・多コンテンツに していくためには、全体的にコストを下げる必要があり、辞書データへのロイヤルティもその対象になりうる。かくて、年々下がって行く傾向が続いている。上 述のように、いったん採用されれば、他の辞書はほとんど入らないので、単価は少額であっても、グロスで利益を得ることができる。したがって、出版社側でも 採用されるために単価を下げて行くことになる。採用になった場合は、そこで得られる利益で、紙の辞書の落ち幅を補い、改訂用の資金とすることも可能だが、 不採用になったり、そもそも電子辞書に向かない辞書の場合は、非常に苦しい状況になる。不採用になった側はダンピングを訴える訳にもいかないが、そもそも 公正な値段というものがいくらなのか、はっきりしないこともひとつの問題ではないだろうか。
 紙の辞書の場合は、出版社のシステムのなかで、プロダクトとして生み出され、管理されており、編集費、組版費、印税、印刷や製本、資材などの調製費、間 接費等々すべてを入れ込んだ原価計算のなかで、計画どおりの部数を売れなかった場合を除いては、利益が出るようになっている。出ない企画は、そもそも成り 立ち得ない。
 ところが、コンテンツ・データ提供の場合は、たいていの場合、紙の辞書で損益計算が終わっている段階で、そのデータを提供することになるので、損益分岐 点が存在しない。辞書制作にかかる費用の構造は会社が違ってもそれほど変わるはずはない。であれば、業界の問題として、データ提供の値段の最下限を、その 計算の仕方を検討してもよいのではないかと思う。

媒体転換
 このように述べてきたが、とはいえ、紙の辞書の販売部数が減り、より寡占化の激しい(競争の厳しい)電子辞書へのコンテンツ採用とロイヤルティの問題の なかで、再生産ができなくなる辞書が出てくることを、市場の変化に伴う当然の結果だと考えることもできえよう。商品にもその時々の波があり、たとえば百科 事典や文学全集など教養や教育が中心を占めた「エデュケーション」の時代が、やがてマンガや雑誌を中心とする「エンターテーメント」の時代に移ったよう に、市場の摂理として、辞書の需要が縮減しており、それに合わせて収まりきれないものについての淘汰が起きているのだということかもしれない。
 しかし、すでに数字を見たように、紙と電子辞書を合わせた冊数(台数)および金額は、それ以前の紙のみの時代よりもけっしてしぼんでいるとは言えない。 電子辞書は単価が高く、さらに1台に複数の辞書が含まれるために、単純に合算で比較はできないし、また複数の辞書が入っていることから、ユーザーが必ずし もそのなかの特定の辞書を目的として購入しているとも言えないが、しかし、新しいツールと使い方、利便性が提供されることで、辞書の新たな需要が掘り起こ された、と言えるのではないか。あるいは、辞書はいつの時代でも一定必要とされており、その需要は極端に縮減はしない、と。
 であれば、ここで起きていることは、辞書への需要を基盤として、それの乗る媒体が転換している、つまり紙から電子への媒体転換の問題であると言える。
 よく「出版社はコンテンツを持っているので強いですよね」と言われるが、先に述べたようにデータもしくはコンテンツと言われる、いかようにでも値段のつ くものは、逆に言えばそのものじたいには値段がつけられない、もっと言えばそのものだけでは売ることのできないものではないか。著作権者が印税を得るのは まさにコンテンツに値段を付けているのであるが、出版社が印税をもらってはいけない。出版社は、従来、紙の本に値段を付けて売ってきたのである。当たり前 のことだが、要は、紙の束に付加価値を付けて紙を売るビジネスモデルであった、といえるのではないか。紙の束というのがあまりに乱暴ということであれば、 その媒体を作り、売るシステムによって利益を得てきたと言い直せるか。つまり、著作権者からアイデアをもらい、それを整え(編集)、紙の束を仕入れ、墨を つけ、綴じて、配送し、問屋におさめる、印税の計算をして先生にお払いする、などなど、これが辞書だとさらに大掛かりになるので、辞書用のフォントを開発 したり、薄紙を開発したり、自社工場を持ったり、ということによって、付加価値を高めてきた。
 グーテンベルク以来約550年、紙の印刷術があまりに完成された技術として、ほぼ唯一の情報媒体として当たり前になっていたことから、われわれは紙の本 もまた情報媒体の一形態である、という事実をほとんど意識してこなかった。「紙もまた情報媒体のひとつにすぎない」と意識するところから、「もうひとつ の」情報媒体である電子媒体への、出版社としての取り組みがはじまるのではないか、と思っている。よりよい「辞書」を考える際に、最初から「紙の辞書」を 前提に考えるのではなく、これまでは、「たまたま紙」だったと考えてみる。すると、では「紙の表現」から離れた「辞書」とは何か。そもそも「辞書」とは何 か。という命題が立ち上がってくる。もうひとつの媒体での「辞書」を考える際にはそこまで掘り下げて考えないといけないのではないかと考えている。

辞書の電子化対応とは
 では、電子化が辞書にもたらすものは何であろうか。まず、電子的な手段との関わりが特長となっている辞書について見てみたい。

『ウィズダム英和辞典第2版』(三省堂 2006)
 コーパス言語学の方法を全面的に使って作られた初版(2002)をさらにブラッシュアップした。初版編集時に構築した「三省堂コーパス」を利用。すでに 英米の辞書はコーパスを使っての編纂が当たり前になっており、日本でも、ほかにも『ジーニアス英和辞典第4版』(大修館書店 2006)、『ロングマン英和辞典』(桐原書店 2007)があいついで独自のコーパスをもとに編纂されている。「三省堂コーパス」は日本ではもっとも早く構築された辞書作成のためのコーパスであり、英 米のコーパスと異なって、日本人英語学習者が必要とする英語を配慮したバランスのとれたコーパスとなっている。『ウィズダム英和辞典第2版』では、これを もとに、主要な語に対して頻度の高い共起語の掲示、詳しい語法解説、訳語の同じ語の類義解説など、大量の解説を付けている。また、辞典中の用例をコーパス として活用できる「Dual WISDOM 用例コーパス」がウェブ上で利用できる。
 コーパスは大量のテキストデータをコンピューターで解析できるようにしたもので、これによって提示される語の共起情報やそれらの頻度情報などにより、こ れまで内省で処理していたものが客観的な言語事実として、その法則性も含めて確認できるようになった。イギリスのBNC (British National Corpus)などが知られ、広く活用されている。また、Sketch Engine のように、自分でテキスト収集をしてコーパス構築のできるツールも開発されている。日本でも、日本語コーパスとして、国立国語研究所が中心となって、特定 領域研究『代表制を有する大規模日本語書き言葉コーパス』(BCCWJ)が構築中である。
 また、『小学館コーパスネットワーク』では、BNC、WordbanksOnline が独自のインターフェースで利用できるほか、世界最大の科学技術英語コーパス『PERC Corpus』、日本の中学・高校生英語学習者による自由英作文コーパス『JEFLL』が利用できるようになっている。

『デジタル大辞泉』(小学館)
 国語+百科語の国語中辞典。約24万語。紙(増補新装版1998 約22万語)の改訂は行わずに、データ上での更新作業を行い、年3回コンテンツ更新。ネット上での辞書検索サイト JapanKnowledge のほか、iPhoneアプリ、yahoo!などのポータルサイトの辞書としても広く使われている。

『大辞林 第三版』(三省堂 2006)
 国語+百科語の国語中辞典。約25万語(書籍約23.8万 語 +ネット上で2.2万 語 )。書籍購入者に対してデータ更新のあるウェブ辞書が使える「Dual大辞林」のサービスがある。
 iPhone版「大辞林」は iPhone版辞書アプリのなかで最大のヒット。

『日本国語大辞典 第二版』全13巻(小学館 2000)
 総項目数50万語、用例100万の日本最大の国語大辞典。JapanKnowledge でオンラインサービスがあり、書籍で買うと20万円超が、月額1575円で使える。

 電子化が辞書にもたらすものとしては、編集製作手段のデジタル化もあげられよう。タグ付きの電子データとして編集を行うことで、電子的な検索によって用 字用語や内容の統一的なチェックが可能であるし、またプログラムによる処理も可能である。その一環として、組版じたいもプログラムを介して、自動的に組版 処理を行う。『大辞林 第三版』はデータ形式として XML を採用し、ウェブの検索システムや外部へのデータ提供も基本的に同一のデータで行った。なによりも、意味と構造を厳密に定義する XML への落とし込み時に、論理的な整合性をもったデータに整備できたことが有用であった。
 電子媒体の辞書が、検索仕様において紙の辞書には実現し得ない検索を実行できることはすでに周知のことだが、これまでの電子媒体にあまり見られずに残念 に思っていることとして、表示の改善がある。
 紙の辞書の紙面は、(きちんと考え抜かれたという前提付きであるが)版面の特性と伝統的な辞書組版の技術を活かして、約物や記号等スペース節約のために 省略表現を多用しながらも、意味内容を理解しやすい作りにするように努力がなされている。これは1200dpi超の解像度をもつ紙と、3ポイントのルビで も明瞭に印刷する技術、そしてそれをおさめる版面サイズのバランスによる。ところが、現状ほとんどのデジタル系の辞書では、紙の紙面に似せようとして似せ きれずの表示にとどまっているものが大半である。デジタル媒体と紙の媒体とでは、その特性が異なるので、同じことを伝えるにも、おのずから別の表現が必要 になる。あるいはデジタルにしかできない技術を使うことによって、紙以上の表現をなし得る可能性もあるだろう。iPad など、従来以上の高解像度をもったデバイスなどもでてきている。今後、辞書の内容の充実とともに、表現のしかたについても追求を重ねて行ければと思う。
 現在の辞書を取り巻く状況として、電子媒体にどう取り組んで行くかという課題が、大げさではあるが辞書の存続にも関わる問題であるという問題意識から、 今回は電子媒体にずいぶんと偏った話題になってしまったことをお詫び申し上げたい。
 翻訳に少しでも資する辞書作りができるように心がけたい。ご要望や注文があればぜひお知らせ願いたい。
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*1 http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/ep/mc_palm.html
*2 小学生辞書の大きな伸びは、小学1年生から辞書引きは可能だとする深谷圭助氏の辞書指導の影響が大きい。