翻訳の道具

山岡洋一

辞書をめぐる3つの話


  翻訳の世界には辞書に関する面白い言葉がいくつかある。以前にも紹介したことがあるが、そのひとつはこうだ。「たかが辞書、信じるは馬鹿、 引かぬは大馬鹿」

 まずは辞書を信じた話から。

信じるは馬鹿
 翻訳をやっていて知らない言葉や見慣れない表現にぶつかると、まずは辞書を引く。簡単に解決がつけばいいが、いくつかの辞書で納得できる答えがでてこな い場合だってある。焦ってつぎつぎに辞書を引き、インターネットの検索サイトで用例を探し、あっという間に1時間ほどがすぎる。困り果てたあげく、訳し終 わってから調べようと考え、つぎの部分を翻訳しようと原文を読んだとたんに、思わず悲鳴をあげる。つぎの部分に、分からなかった語や表現の意味が解説して あるではないか。いくら事前に原文を読んでいても、細かな疑問点にまでは神経が行き届かないので、こういう失敗をする。

 こういう経験はたぶん、翻訳者ならだれでももっている。どんな辞書よりも、どんな資料よりも頼りになるのは原文なのだ。原文を深く読めば、分からなかっ た点のうちかなりの部分が分かるようになる。もちろん、分からなかった語や表現の意味がつぎの行に書いてあるとは限らない。100ページも後ろに書いてあ るかもしれない。

 水田洋監訳、杉山忠平訳『国富論』(岩波文庫)の第1編第11章(第1巻287〜288ページ)に以下の文章があり、訳注がついている。

 しかし土地の改良と耕作によって一家族の労働が二家族に食料を用意しうるようになる と、社会の半分の労働が全体に食料を用意するにたりるようになる。したがって他の半分、あるいは少なくともその大部分は、他のものを用意することに、つま り人類の他の欲望や好みを満足させることに使用されうる。衣服、住居、家具、およびいわゆる身のまわりの品物(1)がそうした欲望や好みの主な対象であ る。……
(1) 身のまわりの品物equipageとは陶磁器やグラスなど家庭用具の小物のこと。ティー・セットをティー・エキページともいう。OEDは、スミスのこの文 章を用例としてあげる。

 たぶん、なんで訳注をつけたのか不思議に思えるだろうが、つけなければならない理由があった。もう40年近くも前の話になるが、竹内謙二が『誤訳−大学 教授の頭の程』(潮文社)で水田洋訳『国富論』(河出書房新社)のこの部分の訳を誤訳だと指摘した経緯がある。竹内は自分の訳(有斐閣、後に改造文庫、東 大出版会などで改訂版)の「馬車」「馬車供廻り」が正訳であり、水田訳の「身のまわりの道具」は誤訳だと断じた。そこで水田が、OED(オックスフォード 英語辞典)にこう書かれていると反論したのだ。

 OEDといえば英語辞書の最高権威だ。OEDにこう書いてあるといわれれば、たいていの学者は納得するのだろうか。だが、翻訳者はそうは考えない。 OEDといえどもたかが辞書、人間が書いたものだから間違いもある。「信じるのは馬鹿」なのだ。

 じつをいうと、引用した部分でequipageは食料以外に欲望の対象になるものの例として書かれているにすぎないので、「馬車」と解釈しても「身のま わりの品物」と解釈しても、たいした違いはない。この語にはどちらの意味もあるのだから、OEDにもそう書いてあるのだから、それに、「馬車」も「身のま わりの品物」も欲望の対象になるものだから、どちらと解釈しても原著者の意図を誤解する結果にはならない。

 だが、『国富論』でこの語は何回か使われていて、なかにはどちらと解釈してもいいとはいえない箇所もある。ひとつは竹内謙二が指摘した第2編第3章の終 わり近くで、もうひとつは第5編第3章の最後の段落、つまりこの長い長い本の最後の段落でこの語が使われている。たぶん第1編第11章の訳注で equipageの意味は明らかになったと水田洋は考えたのだろう(OEDにそう書いてあるのだから)。この2つの部分でも「身のまわりの品」(第2巻 140ページ)「道具一式」(第4巻358ページ)と訳している。

 第2編第3章の用例については、竹内謙二が「身のまわりの品」では誤訳になる理由を説明しているのだが、じつはこの説明があまりよくない。感情的になり すぎて、説得力に欠けるのだ。だが、この部分を数ページ前からよく読んでみると、竹内が論じた通り、「身のまわりの品」ではまずいことが分かる。スミス は、金持ちの収入の使い道を「その場で消費されて、何も残らないもの」と「耐久性があって後に残るもの」とに分け、「何も残らないもの」の例として equipageをあげているのだ。「身のまわりの品」には耐久性があり、「馬車供廻り」(馬車のお供をする家来)を雇うのに金を使えば「何も残らな い」。この文脈では「身のまわりの品」が誤訳であるのは明らかだ。OEDに何と書かれていようと、たかが辞書であり、信じるは馬鹿なのだ。

引かぬは大馬鹿
 同じ『国富論』第2編第5章の最後の段落につぎの文がある。大河内一男監訳(中公文庫)第1巻585ページから引用しよう。

……たしかにこの数年間、投機的企業家たちは、ヨーロッパのいたるところで、土地の耕 作と改良によってあげられる利潤について大げさな説明をして、大衆を喜ばせてきた。……

「投機的企業家」は原文ではprojectorであり、いまの言葉でいえば「起業家」だろうが、原著者が蛇蝎〔だかつ〕のごとくに嫌った人たちだ。訳文の 「土地の耕作と改良」とは、たとえば未開の原野を開拓する事業などを意味しており、出資を募ってそうした事業を進めていたのがprojectorだ。

 だが、projectorがなぜ「大衆を喜ばせてきた」のだろう。噺家でも講演屋でもないのに。答えは簡単に見つかる。原文はamused the publicである。このamuseを「喜ばせる」と常識通りに解釈したのだ。辞書を引けばamuseには違った意味もでている。普通の英和辞典でも、も ともとは「だます」という意味だったことが分かる。そして、少し大きな辞書を引くと、この語がもともとdivertの意味だったことが分かる。真実から気 をそらせると「だます」になるし、憂世から気をそらせると「楽しませる」になる。辞書を引けば、解釈を間違えることはなかったはずだ。引かぬは大馬鹿なの だ。
 
すぐれた辞書は大馬鹿が作る
− 山口翼編『日本語大シソーラス』(大修館)


  ついでにといっては何だが、大馬鹿の例をもうひとつ。ただし、ここでいう「大馬鹿」の意味は少し違う。素晴らしい仕事ができるのは賢い人で はない。世間では大馬鹿といわれる人だけである。そういう例として山口翼編『日本語大シソーラス』を紹介したい。

 辞書を買うと、まず「前書き」など、編者の文章を読む。この辞書では「跋語」と題された後書きが秀逸だ。編者は1970年頃に小説を書いていたが、「お 話にならない代物」しか書けなかった。語彙が不足していると考えて、日本語シソーラスを作ろうと考えたのだという。そうして30年かかってできたのが、 1500ページもの大シソーラスなのだという。

 世の中には馬鹿がいるものだと嬉しくなった。頭が切れて、才気溢れ、機を見るに敏、そういう人なら、これほど労多くして功少ない仕事に取り組もうとは思 わないだろう。馬鹿に徹することができる人、みずからの愚を知る人、ほんとうに役立つ仕事ができるのはそういう人だけだ。

 おそらく、日本人は辞書が大好きなのだと思う。大きな書店に行って辞書の棚に行くと、よくこんなものまでと思えるような辞書が大量に並んでいる。国語辞 典や各種の外国語辞典はもちろん、新語の辞典、諺の辞典、俗語の辞典、多種多様な専門用語辞典などがある。だが、大きな穴があると以前から思っていた。大 きな穴は類語辞典だ。つい1年ほど前まで、本格的な類語辞典はひとつもなかった。芳賀矢一校閲・志田義秀・佐伯常麿編『類語の辞典』(講談社学術文庫)が 唯一、面白い類語辞典だったが、何しろ明治42年初版発行だから、古い言葉しかでていない。

 たぶん、語彙不足という問題は、自分で何かを書くときよりも、翻訳するときの方がはるかに深刻である。自分で文章を書くのであれば、自分が考えた範囲で 書くしかなく、考えた範囲は自分の語彙で表現できる範囲でもある。だから通常なら、語彙が不足していてうまく書けないと感じることはそれほど多くはないは ずだ(小説を書いて自分の語彙不足に気づいたというのは、じつは大変なことだと思う)。ところが翻訳の場合には、原著者が考えたことを日本語で表現する。 自分なら考えないことを日本語で表現する。語彙が不足する場面が出てくるのは避けられない。だから、語彙不足は翻訳者に共通の悩みだ。英和辞典がある程度 まで、類語辞典の役割を果たしてくれることがあるが、それにも限度がある。

 そういうわけで、以前から類語辞典には興味があった。世の中にないのだったら作ってみようかと考えたことも一度や二度ではない。だが、とんでもない作業 になることが目に見えているので踏み切れなかった。ほんとうに役立つ辞書を作る人は、たぶん、とんでもない作業になることを予想できないか、予想しながら 知らないふりができるか、どちらかなのだろう。

 昨年秋に、講談社から『類語大辞典』が刊行された。この辞書は柴田武という大御所が編者のひとりになっており、50人以上が執筆や調査に参加していると いうのだから、ある程度のものができて当たり前だともいえる。『日本語大シソーラス』は個人の力で作られたものであり、性格がまったく違う。個人辞書には 限界もあるが、編者の主張が強くあらわれた面白い辞書になる可能性もある。

 まず限界について。個人の力によるものだから、類語を集めるだけで精一杯であり、語義、つまり類語の意味の違いを書いていくことまではできない。『類語 大辞典』の特徴が語義を示したことにあるとするなら、『日本語大シソーラス』はひたすら類語を集めたことに特徴がある。語義がないから使いにくいという印 象をもつ人もいるだろう。この点で、『日本語大シソーラス』は一般向けの辞書ではない。プロ向けの辞書になった。

 つぎに面白さについて。たとえば「0385賢い」の項を引くと、横書き2段組みで2ページ半にわたって、「01知的」「02有識」「03見識」から 「16愚者も一得」まで、16に分けてさまざまな語や表現が並んでいる。たとえば「07賢い」だけでも、「賢い 賢しい 賢賢し 才才し スマート」以 下、100を超える語や表現が並んでいる。「0385賢い」の全体ではなんと、1000に近い語や表現が並んでいるのだ。もちろん、古い言葉や知らない言 葉も多いので、実際に使えるのは半分以下だが、それでも選択肢がこれほど示されているのはありがたい。

 なかでもとくに目につくのは、「賢は愚にかえる」「大賢は愚なるがごとし」「愚も愚を守れば愚ならず」などの名句がたくさん並んでいる点だ。数は少ない が、「対語」「関連語」なども示されている。文章を書くときに欲しい表現が並んでいるのだ。欲をいえば、名句は古代中国や聖書のものに偏っているようで、 近代、現代のものが少ない。それでも、単語だけを集めた類語辞典にはない良さがある。

 この1年ほどで大きな類語辞典が2点も出版されたのだから、類語辞典を作りたいという衝動もなくなるかもしれない。だが、大きな不満がひとつ残ってい る。『類語大辞典』も『日本語大シソーラス』もロジェズに範をとった分類型の類語辞典だ。語を意味によって分類し、類語を並べていく方式である。

 類語辞典にはこれ以外に非分類型のものがある。英語のシソーラスは非分類型の方が多いようだが、手元にある日本語の類語時点のうち、非分類型は前述の 『類語の辞典』だけだ。『類語の辞典』では、国語辞典と同じ順番に並んだ語にひとつずつ、類語が紹介されている。それも若干の語義がついて大量の類語が並 んでいる。この方式の類語辞典で、反対語、関連語、連想される表現、諺、決まり文句などが入っているのもがあればと思う。インターネットにはそれに近いサ イトがあるが、まだまだ不十分だ。

(2003年11月号)