名訳
須藤朱美

土屋 政雄訳『日の名残り』

 芥川は『侏儒の言葉』の中で、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ」と書いています。あるひとつの 事柄を言わんとしていたのか、はたまた押し並べてこういうものだというつもりだったのか、実際のところは知るよしもなく、読み手はさまざまに解釈すること が許されています。この言葉を翻訳にあてはめて考えてみると、ここで言う「美しさ」が、翻訳と英文和訳を区別する要素かもしれないと思えてきました。

原語にあたる、辞書を引く、国語で書く。きわめて簡潔に言えば英文和訳とはこれを繰り返すことです。この作業方法に則り、訳出され、その後、印刷され、製 本され、販売された本は星の数ほどあります。つまりおもしろくないと言われる運命を持った本です。悲しいことにたいていの本は増刷されることがありません し、もっと悲しいことにはごくまれに、こういった本の中からベストセラーの生まれることがあります。運命を甘んじて受け入れた数万冊、運命を強靭にはねの けた数冊、どちらも読む人が読めば同じ駄訳書です。たとえ誤訳がなかったとしても、英文和訳の域を脱していません。辞書から抜け出したような単語が目につ き、翻訳の範疇に入るにはいささか欠けている要素があるからです。つまり芥川の言うところの「美しさ」が欠如しているのです。

 私がこんな生意気で憎らしいことを考えるのは、「美しさ」を持つ訳書を目の当たりにしてしまったからです。それが今回ご紹介する土屋政雄訳『日の名残 り』という本。それでは例を挙げて見ていきたいと思います。

As you might expect, I did not take Mr Farraday’s suggestion at all seriously that afternoon, regarding it as just another instance of an American gentleman’s unfamiliarity with what was and what was not commonly done in England.  (原文ペーパーバック版p4)

    ご想像のとおり、あの日、私はファラディ様のお申し出を真剣には受け止めませんでした。なんと申しましてもアメリカの方ですから、イギリスで 普段行われていることと、そうでないことの区別を、まだよくご存知ではありません。不慣れゆえのご発言であろうと、その程度に考えておりました。  (カ ズオ・イシグロ著 土屋政雄訳『日の名残り』ハヤカワepi文庫p11)

原文は様態を表す副詞節と分詞構文を伴った、第4文型の文章です。土屋訳ではそれを3つの文章にしています。文としてはやや長めですが、とりわけ難解な単 語が含まれているわけではないので、訳す気になればできないこともないだろうと思える文章です。ところがいざ取り組む段になると、これが意外や容易ではあ りません。

まずなんとなく嫌な気を起こさせるのが、この分詞構文です。高校の英語の授業ではこの分詞構文を「and、but、when、because、with、 if、as等のどれかに置き換えて考え、文章の流れが最も適切になるように訳す」と教わりました。屁理屈屋の私は思いました。and、but、 although、when、because、with、if、as等の「等」って何なの。そもそもas自体、時や理由を表すことがあるのだから列挙され たwhenやbecauseと意味が重複する。だったらここで言うasは、whenやbecauseでカバーしきれない意味を指しているんだろうか。そも そも「適切になるように訳す」と言うけれど、それは原文が何を言いたいか分かっているから当てはめられるのであって、文章に何が書いてあるかなと読んでい る人間があらかじめ予想できるわけがないじゃないか。前後の文脈から判断することができるかも知れないが、それは読書として文章を読む方法ではない気がす る。もっと根本的なところを考えれば、完全に言い換えられるのなら、なぜわざわざ分かりにくい構文を編み出して、嫌がらせのように文章を難しくする必要が あるのだろうか。言い方を変えているんだから、やっぱり多少の違いがあるのではないだろうか。

 質問はと先生が尋ねました。この屁理屈を投げかけるのはさすがに気が引けたので、少し遠慮して「意味が二通りに取れるときはどうすればいいですか」と、 無難な質問をしました。先生は、「まず『〜しながら』と訳してみてください。確率としてはそれが一番高いので。それで駄目な場合は『〜なとき』、『〜な ら』、『〜だが』と当てはめていって意味が通ればそれが当たりです」と、答えてくださいました。分かったというふうにうなずきましたが内心、それはテスト の解き方であって、英語を読む方法ではないなと思いました。

 後に英文解釈というものを教わり、高校時代に習った分詞構文の説明が必ずしも間違いではなかったことを知りました。「分詞構文はandやifなどのどれ かに当てはまるという規則的なものではなくて、主文と分詞構文を日本語として自然になるようにつなげてやればいい。二通りに解釈できる場合はむしろ、ぼん やりとどうとでも取れるようにつなぐのが分詞構文の効果を反映した訳だと言える。また、andやbutのような接続詞を用いる場合に比べて文語的な表現で ある」という説明を受けました。これで私の屁理屈は解消されたのですが、この「ぼんやりどうとでも取れるようにつなぐ」というのがことのほか難しく、つな ぎめがくっきり浮き出た訳文になるのを避けられないのでした。

 この分詞構文を、土屋氏は解釈をした形跡の見当たらない、なめらかな日本語に訳しています。これほど分詞構文を意識させない訳はめったにお目にかかれる ものではありません。また、前から訳しているふうではなく、原文と訳文では言葉があちこちに飛んで、追いかけて読み比べるのはとても大変です。解釈がバン と前面に打ち出された、有無を言わさぬ日本語には頼もしささえ感じます。副詞、形容詞どちらにも取れる多義語のjustは平易ゆえ余計に訳しにくい単語で すが、「その程度に」と力みを感じさせない表現になっています。

 セリフの訳も印象的です。

‘Miss Kenton, I must ask you to leave me alone.  It is quite impossible that you should persist in pursuing me like this during the very few moments of spare time I have to myself.’   (p166)

「ミス・ケントン。すぐにこの部屋から出ていくようお願いせねばなりません。私が自分のために費やせるわずかな時間まで、あなたにこんなふうにつきまとわ れるとは、じつにけしからぬ話です」  (p235)

 このセリフといい、先ほど例に挙げた例といい、原文はひじょうに客観的なものの言い方をしています。もともと英語自体、日本語に比べ客観的な描写方法を 取る感がありますが、カズオ・イシグロの文章は米国の小説とはまったく異なる、良く言えば慎ましく品があり、悪く言えば奥歯に物のはさまったような、どち らにせよ英国風情たっぷりの文体を採用していす。その文体をそっくり日本語に置き換えると、意味が伝わりにくかったり、きつい印象になったりします。たと えば例に挙げたセリフを直訳するとこうなります。

「ミス・ケントン、私を一人にしてくれるよう、どうしても頼まなければなりません。自分のためのわずかな余暇時間に、このようにあなたが追いかけまわすな どとは不愉快です」

leave me aloneを「一人にして」と訳したのでは発話者の感情が正確に伝わりません。「一人にする」という表現を日本語で使うときは、何か悲しいことや衝撃的な ことがあって、感情をさらけだす姿を見せたくないから、しばらく一人にさせてくれと言うときに使う表現です。それを「どうしても頼む」というのでは、どこ となくしっくりきません。それを土屋訳では「出て行くよう」という表現で拒絶を表し、must askの強さを違和感のないものにしています。また、impossibleという感情を述べる<it is that...should>構文ですが、そのまま訳して判断を下すようなセリフにすると、苛立っている人の言葉とはいえ、ひどく横柄な印象を与えます。 それが土屋訳では「けしからぬ話」という表現に変えられ、感情が抑えられていながら身の引き締まるようなセリフになっています。また、persist in pursuing meというミス・ケントンを主体にした表現は直訳すると「追いかけまわす」となり、相手を正面から非難しているように聞こえます。この言い方では同じ人物 のセリフとは思えない、無骨な印象を与えます。土屋訳のように行為の主体を発話者に変え、「つきまとわれる」とすることで、品がありつつ少し嫌味な雰囲気 がうまく伝わります。土屋訳にはこのように様々な角度で変化が与えられていて、言葉ひとつひとつが単語、単語の意味を越え、文章としてなめらかに結びつい ています。そしてそのなめらかな文章が読む者の心にすっと入り込んでくるのです。