翻訳格付けの方法

山岡洋一

飛躍 と密着の間

  先月号で触れたように、翻訳格付けを近くはじめようと考えている。時間がとれない状況が続いているので、格付けを発表するまでにはなってい ないが、準備はある程度進めている。そのひとつとして、今回は翻訳格付けの方法について考えていくことにしたい。

 本来なら、翻訳格付けの基準やその根拠を確立したうえで、個々の作品や翻訳家に格付けをつけていくべきなのかもしれない。だが、翻訳の質はおそらく、客 観的な判断基準にしたがって判断できるようなものではない。たとえば、数量的な分析で客観的な点数がつくようなものではない。というよりも、客観的な判断 がむずかしいからこそ、格付けが必要になるのだ。だから、翻訳の質を判断する論理的で体系的な方法が確立できるとは思えない。

 そうはいっても、「わたしが好きな翻訳」を紹介しようというわけではない。そんなものに興味をもってくれる読者がいるとは思えない。翻訳の質の判断とい うものはそもそも主観的なものだとはいっても、ある程度までは普遍性のある判断をしなければならない。つまり、判断の基準をある程度まで示して、同じ基準 で判断すればかなり多くの読者が同じ判断をくだすはずだといえるようにしておかなければならない。

 断片的なものにしかならないが、いくつかの基準を示しておこう。なお、翻訳格付けは当面、英語で書かれた原著の和訳だけを対象にするので、以下の議論も 原則として、英和の翻訳を前提にすることをお断りしておく。

基本的な基準
 翻訳の質を判断する際の基本的な基準は、これまでも何度か書いてきたが、「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」かどうかである。

「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳でなければならない」というと、当たり前ではないかと思う人もいるだろう。たしかに当たり前である。 だが、この当たり前のことを当たり前に実行するのは、そう簡単ではない。その理由は英文和訳の呪縛があるからだ。英文和訳では「原文に忠実な訳文」かどう かが基本的な基準だとされている。そして翻訳でも長年にわたって「原文に忠実な翻訳」が金科玉条とされてきた。いまでも「原文に忠実な翻訳」を求める圧力 はきわめて強い。原著が英語で書かれている場合には原著を読める人が多いので、原文の表面から少し離れると、「原文に忠実でない」という非難を受けること が少なくない。

 だが、少し考えてみればすぐに分かることだが、英語と日本語のように文法構造が違い、語彙の構造が違う言語の間の翻訳で、「原文に忠実」とはどういうこ となのかは大いに疑問のはずである。たとえば、Good morning.を「おはよう」と訳すと「原文に忠実」になるのかどうか。こんな簡単なことすら、本気で議論をはじめれば夜が明けてしまうだろう。だか ら、「原文に忠実な翻訳」とは、ほんとうの意味で原文に忠実な翻訳なのではない。忠実だとされている翻訳なのだ。ではどういう訳であれば、原文に忠実だと されるのか。答えは簡単だ。英文和訳で正解とされている公式を使い、英和辞典に書かれている訳語を使って訳せば原文に忠実な訳とされて、花丸がもらえる。

 だが、花丸付きの「原文に忠実な翻訳」がどういうものかは、誰でも知っている。いわゆる翻訳調の「かたい」訳文、「原著者が日本語で書くとすれば、いく らなんでもこんな馬鹿げた文章は書くまい」と思える悪文になる。

 したがって、「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」とは、「原文に忠実な翻訳」を求める圧力をはねかえして、「必要に応じて原文の表面 から離れる翻訳」なのである。「原文に忠実でない」という非難をはねかえす力がないと、「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」はできな い。

 だから、「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」とは、「必要に応じて、英文和訳で決められた公式や、英和辞典に書かれている訳語から巧 みに飛躍する翻訳」である。英文和訳で決められた訳し方、英和辞書に書かれている訳語を使った場合、原著者が日本語で書くとすればそんな文章を書くはずが ないと判断するのであれば、思い切って飛躍する。この飛躍がうまくできているかどうかが、翻訳の質を決める基本的な基準である。

 ここで重要な点が2つある。第1に、「必要に応じて」飛躍すること、第2に「巧みに」飛躍することだ。飛躍するのは「原著者が日本語で書くとすればこう 書くと思える文章」にするためであって、技を見せるためではない。不必要なところで飛躍するのは、幼稚な証拠である。また、飛躍した結果、原著者がこんな ことを書くはずがないと思える訳文になれば、翻訳の質が低い証拠になる。「必要に応じて」「巧みに」飛躍できているかどうかが、翻訳の質を判断するときの 基準になる。

全体的な評価と個別の評価
 以上の基本的な基準に基づいて個々の翻訳作品の質を評価するとき、大きく分けて2つの観点から作品をみていくことになる。第1は全体的な観点、第2は個 別の観点である。

 全体的な観点とは、翻訳作品全体の印象である。フィクションでもノンフィクションでも、すぐれた著作はひとつの世界を作りだし、その世界に読者を誘う。 すぐれた翻訳とは、原著者が作りだす世界に見事に招待してくれるものだ。強引に引きずり込まれるという場合もあるだろう。一歩入ったら抜け出せなくなる。 最後まで読むしかない。これに対して質の低い翻訳は、原著者が作った世界にどうしても入り込めないという印象を与える。下手な文章で白ける場合もあるし、 そもそも世界の像がはっきりしないために戸惑うだけになる場合もある。

 ある意味で、勝負は冒頭の第1段落で決まるといってもいい。いや、第1行で決まるとすらいえる。世界に入り込めるか白けるかは、読者の観点からは30秒 で決まる。30秒1本勝負……、これが翻訳だ。たとえば村上博基や芝山幹郎の翻訳を読むといい。冒頭の1行で読者を引きつけて放さない魅力をもっている。 翻訳の質を決めるのはもちろんだけではない。だが、これが翻訳のひとつの側面、それもかなり重要な側面であるのはたしかだ。

 だが、この観点を強調すると、おそらく翻訳格付けにはならない。「わたしの好きな翻訳」になる。だから、全体的な観点がきわめて重要であることは確かだ としても、翻訳格付けにあたってはもっと個別的で分析的な観点を同時に考えていかなければならない。

個別の注目点
 では、個別的な観点ではどのような点に注目するのか。「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」のためには、「必要に応じて、英文和訳で決 められた公式や、英和辞典に書かれている訳語から巧みに飛躍する」ことが必要になる。問題はどのような点で飛躍が必要になるのかだ。おそらく「あらゆる点 で」が正解なのだろう。だが、これでは翻訳の質を判断する際の指針にならない。飛躍が必要になることが多いのはどういう場合かを考えておくべきだろう。

 どういうときに「英文和訳で決められた公式」からの飛躍が必要なのかは、比較的わかりやすい。原著の言語と日本語とで性格が大きく違う部分で飛躍が必要 になることが多いはずである。原著が英文で書かれている場合、英文和訳で正解とされている訳文が通常の日本語と違っている部分で、とくに飛躍が必要にな る。

 そういう部分はじつは、はてしなく多いのだが、まずは誰でも知っている簡単な部分から話をはじめよう。たとえば、人称代名詞がある。

注目点(1) 人称代名詞
 日本語には人称代名詞はないともいえるし、あるとしても、英語のものと性格が大きく違うのはたしかだ。だから、人称代名詞を英文和訳のように訳していく と、原文の表面に忠実な訳文になるのだが、その結果、「原著者が日本語で書くとすればこう書くはずがない」と思える文章になる。有名な具体例をあげておこ う。

(1) おなじようにしてわれわれが、かれの衣服と家庭用具のさまざまな部分のすべてを、点検することになれば、すなわち、かれが膚につける粗い亜麻のシャツ、か れの足をおおう靴、かれがねるベッドとそれを形づくるさまざまな部品のすべて、かれが食物を調理する台所の金網、そのためにかれがつかう石炭……(アダ ム・スミス著水田洋訳『国富論』河出書房新社、世界の大思想14、上巻14ページ)

 これは23行も続く文のうち、はじめの5行ほどである。英語の人称代名詞をそのまま訳していくと、いかにみっともない文章になるかを示す点で、見事な例 だといえるはずである。

 いまではこれほど極端な翻訳はまずない。もちろん、先月号で例を示したように、「彼」や「彼女」を不用意に使ったために奇妙な文章になっている場合はあ る。だが、翻訳の世界ではいうならば、人称代名詞についてのノウハウが確立しているので、この(1)の場合ならば、たいていの翻訳者が「かれ」の大部分を 削除する方法をとっている。それでも人称代名詞の処理を誤るケースは少なくない。だから、翻訳の質を判断する際に注目点のひとつになる。具体例をあげよ う。今回も前回と同様に、成功例ではなく失敗例をあげるが、間違いなくすぐれた翻訳のなかにもみられる問題点を指摘するので、出典を示すことにする。

(2) 暴漢がこちらにやってくるとか、車が吹っ飛んでくるとかいう情景をなかば覚悟して、マーティはふりむいた。だが、いつもの静かな住宅街にいるのはマーティ ただひとりだ。(ディーン・クーンツ著田中一江訳『汚辱のゲーム』講談社文庫、上巻14〜15ページ)
  Turning, she half expected to see an approaching assailant or a hurtling car.  Instead, she was alone on this quiet residential street. (Dean Koontz, False Memory, Headline Publishing, p. 3)

 翻訳の世界には、人称代名詞は固有名詞に戻して訳せという公式がある。この公式にいってみれば忠実にしたがったのが、この訳だ。2回でてくるsheをい ずれも「マーティ」に戻している。たぶん、前半はこれで正解だ。だが後半には疑問がある。「マーティただひとりだ」の部分をよむと、目眩がする。

 なぜなのかを説明しだすと1冊の本が書けるほどなのだが、手短に説明しよう。「なかば覚悟して」の部分で、読者はマーティに感情移入する。だから、マー ティの視点でふりむく。ところが、「マーティただひとりだ」の部分で突然、視点が変わる。映画でいえばキャメラの位置が突然、上に、あるいは10メートル ほど離れたところに変わるのだ。だから目眩がする。「マーティ」ではなく「彼女」であれば、感情移入が少しむずかしくなるので、目眩が少し弱くなる。でも その差はごく小さい。「なかば覚悟して」と書いた以上、読者に感情移入を求めたのだから、「いつもの静かな住宅街にいるのはマーティただひとりだ」とは書 けないはずなのだ。原著者が日本語で書くとすれば、おそらく「いつもの静かな住宅街には誰もいなかった」といった表現を使うはずだ。

 訳者はこの部分で英文和訳の公式からは飛躍したのだが、翻訳の公式に頼ったために飛躍に失敗している。別の例をみてみよう。

(3) ジョシュアは莫大な富をわたしたちに譲りわたすことを望んでいなかった。自分の殺害がもたらした結果を知れば、激昂したかもしれない。(ロバート・ゴダー ド著越前敏弥訳『惜別の賦』創元推理文庫、21ページ)
  He hadn't wanted to shower his wealth on us.  He'd probably have been outraged that his murder should have such a consequence. (Robert Goddard, Beyond Recall, Corgi Books, p. 19-20)

 ここでは人称代名詞を無視する方法と人称代名詞を固有名詞に戻す方法が使われているが、もうひとつ、「自分」と訳す方法も使われている。これがいかに便 利な方法かは、(2)の例で考えてみるとすぐにわかる。「マーティただひとりだ」が「自分だけだ」になって、目眩がしない文章になる。読者に感情移入を求 める文章では人称代名詞を「自分」と訳せ……、そう書いてある翻訳マニュアルがあっても不思議ではない。だがこの例は、「自分」と訳すのがいかに危険かを 示している。

 もちろん想像の域をでないが、訳者はおそらく、頭のなかでまず「彼は彼の殺害がもたらした結果を知れば」と訳し、つぎに「彼は」を削除し、「彼の」を 「自分の」に修正している。これで日本語らしい日本語になったと考えたのだろうが、その結果、ジョシュアという人物は殺人犯だったのだろうかと読者は首を ひねる結果になった。もちろん、訳者にとってはありえない解釈だ。前のページの冒頭に、ジョシュアが殺害されたと書かれているのだから。だが、読者は物語 の全体像を知らない。だから、首をひねるのだ。たしか殺されたと書いてあったはずだが、その前に誰かを殺したのだろうかと考える。原著者が日本語で書くと すれば、こうは書かない。おそらく「自分が殺されたことの結果」といった表現を使うはずだ。

 この部分でも、訳者は英文和訳の公式からは飛躍したのだが、翻訳の公式に頼ったために飛躍に失敗している。

注目点(2) 関係詞
 日本語でも英語でも、長い長い文を書こうとすれば、つまり何ページ読んでも日本語なら句点が、英語ならピリオッドがでてこない文を書こうとすれば、それ ほどの困難もなく書けるし、文が長いからというだけでは読者にとってとくに理解しづらい文章になるとは限らないものだが、日本語と英語ではその際の文章構 造に随分違いがあるのが一般的であり、日本語の場合には読点で区切って単文を並べていくのが普通なのに対して、英語の場合にはカンマを使って並列する方法 も使われるが、それよりも関係代名詞や関係副詞を区切りとして使ったり、分詞構文を使ったりして、情報をつぎつぎに付加していく方法をとることが多いよう で、このうち翻訳にあたってとくに問題になるのは、関係代名詞の限定用法と呼ばれているもの、つまりカンマが前にない関係代名詞であり、この場合、後ろか ら前に訳していくのが正解とされているために、意味が明快で読みやすい原文から、意味不明で何とも読みにくい訳文ができあがることが少なくないのだが、遊 びはこれぐらいにして、具体例をあげよう。

(4) 内側のオフィスでは法廷付きの保安官補、アニー・チャンが、ソニーが毎週火曜の午前中にルーティン的に処理できる件に限っておこなう、関係者一斉呼び出し 〔コール〕の結果である、色さまざまの書類の整理にあたっている。(スコット・トゥロー著二宮磬訳『われらが父たちの掟』文春文庫、上巻31ページ)
  In the interior office of the chambers, the deputy sheriff assigned to the courtroom, Annie Chung, is arranging the array of multicolored paperwork that resulted from the tumultuous status call which Sonny holds each Tuesday morning. (Scott Turow, The Laws of Our Fathers, Warner Books, p. 20)

(5) ダスティは縁石のところに車を停めた。すぐ前方の警備車には、専用ゲートで外部の者を閉めだしているこの超高級住宅地の警備を請け負っている民間企業の名 前がでかでかと書かれている。(ディーン・クーンツ著田中一江訳『汚辱のゲーム』講談社文庫、上巻18ページ)
  Dusty parked his van at the curb, behind a patrol car emblazoned with the name of the private-security company that served this pricey, gated residential community. (Dean Koontz, False Memory, Headline Publishing, p. 6)

 (4)では、英文和訳の公式通りに、後ろから前に訳していく方法がとられている。翻訳にあたっては前から後ろに訳していくべきだとされることが多く、た しかにその方が「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」になることが多いのだが、そうしなければならないわけではない。後ろから前に訳して いく方法が英文和訳の公式になっているのは、日本語の性格という観点ではその方が自然な場合が多いからだ。だが、(4)の場合に自然といえるかどうかはお おいに疑問だ。ここで、「連体形+読点」が2回でてくることに注意したい。この形になるのはたいてい、悪文だからだ。すわりが悪く読みにくい文章を書いた ために、読点が必要になったのだ。「連体形+読点」を避けるようにすれば、もっといい文章になるのだが、と思う。

 (5)では、こういう文章をよく書いてしまうので人さまのことはいえないのだが、「ている」の3連発がなんともみっともない。訳文をみると、たぶん、当 初は4連発になっていたのだろう。それを避けるために、behind a patrol carを「すぐ前方の警備車には」と、前から訳す方法をとった。だが、素直に考えれば、原著者が日本語で書くとすれば、たとえば「警備車が停まっていた。 ダスティはそのすぐ後ろの縁石のところに車を停めた。警備車には……」などと書くのではないだろうか。

 この2つの例では、飛躍すべきところで飛躍しなかったために「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」になっていないように思える。

注目点(3) その他の文法事項
 英語と日本語では文法構造が大きく違うので、翻訳の質を判断するにあたって注目すべき点はかなり多い。そのすべてを網羅するには紙面が足りないので、い くつかの点を指摘するに止めることにする。

 英文和訳の公式では、名詞は名詞で、形容詞は形容詞で、副詞は副詞で訳すのが常識になっている。だが、例(3)の「自分の殺害がもたらした結果」の場 合、この公式から飛躍しなければ「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」にはならない。いいかえれば、his murderのhisにどのような訳語を使い、murderにどのような訳語を使うのがいいかを考えていては、まともな答えはでてこない。名詞を名詞で訳 さなければならないという規則は、少なくとも翻訳にはない。品詞の転換という飛躍をどこまでうまく使っているかは、翻訳の質を判断するときの注目点のひと つである。

 英語では主語、あるいは主部がきわめて重要な位置を占めているが、日本語は違う。日本語に主語はないという見方が有力なほどなのだから。このため、主語 をどう扱っているかも、翻訳の質を判断するときの注目点のひとつである。例(3)をもう一度とりあげるなら、that以下のhis murder should have such a consequence.で、his murderが主部である。これを「自分の殺害が」か「自分の殺害は」とするのがいいかどうかが大きな問題だ。

 翻訳で主語の問題というと、いわゆる無生物主語の問題が真っ先に取り上げられるのが普通だが、無生物主語に近い構文は日本語の文章でいくらでも使われて いる。だから、問題は無生物主語だけではない。英語の主語の部分を機械的に「〜が」「〜は」と訳すことに問題があるのだ。もちろん、そう訳して何の問題も ない場合が多いのだが、それでは「原著者が日本語で書くとすればこう書くと思える翻訳」にならない場合も少なくない。

常識的な訳語からの飛躍−和洋皮膜の間
 以上では「英文和訳で決められた公式からの飛躍」の問題のうち、比較的分かりやすい部分を紹介したが、もうひとつの「英和辞典に書かれている訳語からの 飛躍」についても簡単に触れておこう。まずは具体例から。

(6) パイロットはうなずいた。「高空病です。高度六万フィートにいましたからね。その高度だと体重が三十パーセント軽くなります。ほんのひとっ飛びで幸運でし たよ。行き先が東京なら、百マイル浮上することになります。いまごろ胃がひっくり返っているところだ」(ダン・ブラウン著越前敏弥訳『天使と悪魔』角川書 店、上巻27ページ)
  The pilot nodded.  "Altitude sickness.  We were at sixty thousand feet.  You're thirty percent lighter up there.  Lucky we only did a puddle jump.  If we'd gone to Tokyo I'd have taken her all the way up -- a hundred miles.  Now that'll get your insides rolling." (Dan Brown, Angels & Demons, Pocket Star Books, p. 15)

 小説というのは法螺話なので、160キロの高度を飛ぶのはパイロットではなく、宇宙飛行士だろうなどと突っ込みを入れるのは控えておこう。だが、「百マ イル浮上する」はいただけない。これはコロケーションの問題であり、柴田耕太郎の今月号の記事にでてくるので、詳しくはそちらを参照いただきたい。なぜこ のような奇妙な表現を使ったのかを考えると、おそらく、「高度六万フィート」とか「百マイル」とかの意味を考えなかったからだ。これをメートル法に換算 し、普通の民間航空機が飛ぶ高度(7000メートルほど)や、大気圏外の高度(通常80〜100キロ以上)などと比較する手間をかけていれば、「百マイ ル」の意味が分かり、「浮上する」とは書かなかったはずだ。

(7) わたしの向かい側には三人の人間たちがすわっていた。(アガサ・クリスティー著石田義彦訳『メソポタミアの殺人』ハヤカワ文庫、56ページ)
  Opposite me were the other three.  (Agatha Christie, Murder in Mesopotamia, Berkley Books, p. 29)

 クリスティーの小説だから、超人も猿もでてこない。「人間たち」というのは文脈にまったく相応しくない言葉だ。なぜこの言葉が使われたのかは疑問であ る。だが、こういう例はじつは翻訳にはめずらしくない。外国語の原文が目の前にあるので、日本語の感覚が微妙に狂ってくるのだ。この「人間たち」もたぶ ん、そのためなのだろう。

(8) ジョシュアは莫大な富をわたしたちに譲りわたすことを望んでいなかった。自分の殺害がもたらした結果を知れば、激昂したかもしれない。それを思うと、一族 が彼の思い出を疎んじるのも無理からぬことだった。まったくの無関心で通すか、さもなくば墓の上で踊るかのどちらかだったろう。(ロバート・ゴダード著越 前敏弥訳『惜別の賦』創元推理文庫、21ページ)
  He hadn't wanted to shower his wealth on us.  He'd probably have been outraged that his murder should have such a consequence.  To that extent, perhaps our neglect of his memory was justified.  Perhaps anything beyond collective indifference would have been like dancing on his grave.  (Robert Goddard, Beyond Recall, Corgi Books, p. 19-20)

 これは(3)の続きの部分だ。英語のcast pearls before swineという決まり文句を「猫に小判」と訳さなければいけないということはない。「豚に真珠」ではいけないとはいえない。では、ここにでてくる dance on sb's graveの場合はどうか。この表現自体がそれほど使われるものではない。「墓の上で踊る」で「他人の死を喜ぶ」といった意味なのだと読者が読み取れるの だろうか。それに、「さもなくば墓の上で踊るかのどちらか」という訳だと、原文との差がかなり大きいので、誤訳だと判断する人もいるだろう。翻訳の芸とい うものは和と洋との皮膜の間にあるものだと思うが、これはおそらく行き過ぎ、または安易すぎだといえるだろう。

 最後に間違いなく名訳だと思える作品からの例を紹介しよう。

(9) 北を見れば、断続的にきらめく稲光と、沼地を青くおおう仄かな鬼火を除き、ただ惣闇〔つつやみ〕だけが地上を支配している。(ダン・シモンズ著酒井昭伸訳 『ハイペリオン』ハヤカワ文庫、上巻15ページ)
  The darkness would have been absolute except for the intermittent flash of lightning to the north and a soft phosphorescence rising from the marshes. (Dan Simmons, Hyperion, Bantam Books, p. 6)

(10) たちまちあたりは、あやめもわかぬ頻闇〔しきやみ〕につつまれた。(ダン・シモンズ著酒井昭伸訳『ハイペリオン』ハヤカワ文庫、上巻142ページ)
  It was very dark. (Dan Simmons, Hyperion, Bantam Books, p. 78)

 この「惣闇」という言葉は、調べたかぎりでは平安初期の『落窪物語』にしか用例がないし、「頻闇」という言葉は広辞苑に「人丸集」と書かれた用例がある だけだ(もうひとつ、小説のタイトルに使われた例はあるが)。『ハイペリオン』は名作だし、酒井昭伸の翻訳はすぐれていると思うが、この2つの言葉はいた だけない。

 翻訳出版の世界では、古い言葉を使ってはいけないという意見が強い。読者が知らない言葉を使ってはいけないという意見も強い。古い言葉やあまり知られて いない言葉を使うと、編集者から修正を求められることが多い。だが、古いか新しいか、知られているか知られていないかは、言葉を選択するときの基準にして はならないと思う。そんな基準はありえない。正しい言葉、美しい言葉、文脈にぴったりの言葉であれば、いくら古い言葉でも、いくら知られていない言葉でも 使っていいし、使うべきだ。古い言葉でも使う人が増えれば普通の言葉になる。知られていない言葉でも使う人が増えれば知られるようになる。使わなければ死 語になる。物書きには正しい言葉、美しい言葉、含蓄のある言葉を使って活かしていく責任がある。

 だが、物書きであればやってはいけないこともある。そのひとつは、辞書に書いてあったという理由で知らない言葉を使うことである。辞書でみただけでは、 その言葉を知ったことにはならない。辞書に並んでいる言葉はいわば標本であって、生きていない。文章のなかで、会話のなかで、生きた形で使われているのに 何回もぶつかってはじめて、言葉を知ることができる。翻訳でこの点が問題になるのはたいてい、英和辞典に書かれている訳語を意味も分からず使うときだ。だ が、国語辞典でも同じことがいえる。

 この「惣闇」と「頻闇」は、原文にあるdarkness、darkで「英和辞典に書かれている訳語から飛躍した」例だが、飛躍した結果、「原著者が日本 語で書くとすればこう書くと思える表現」に近づくのではなく、逆に遠ざかったといえる。技をみせようとして、転落したようにも思える。「頻闇」とは広辞苑 によれば「まっくらやみ」の意味だから、「あやめもわかぬ頻闇」では馬から落ちて落馬したというようなものではないか。

 翻訳者は何を書くかを自分では決められない。決めるのは原著者だからだ。何を訳すかすら決められない場合が多い。決めるのは編集者の役割だからだ。その ためだろうが、訳文に凝って技をみせようとする誘惑にかられることが少なくない。たとえばこの「惣闇」や「頻闇」のように、他人が知らない言葉を使って自 分の力をみせようとする。その結果どうなるかというと、自己陶酔に浸っているかのような訳文になることが少なくない。酒井昭伸はさすがに名手だからそうは なっていないが。

 芸人は笑ってはいけないといわれる。芸人はお客様に笑っていただくのが仕事なのだから。たぶん、訳者にも同じことがいえる。訳者は酔ってはいけない。読 者に酔っていただける文章を書くのが仕事なのだから。訳者が酔っていては、読者は白けるばかりだ。名人は読者を酔わせる。下手な訳者は自分が酔う。これ も、翻訳の質を考えるときに重要な判断基準になる点である。

 最後に、繰り返しになるが誤解を招かないように強調しておこう。今回(2)から(10)までの例で取り上げた翻訳はすべて、すぐれた翻訳家によるもので ある。そうでなければ訳書と原著を比較してみようとは考えない。「必要に応じて、英文和訳で決められた公式や、英和辞典に書かれている訳語から巧みに飛躍 する翻訳」かどうかを判断する際に注目する点を説明するための材料として、すぐれた翻訳作品のなかから失敗例を示す方法をとった。この方法をとったのは、 飛躍が成功した例はどれも個性的だが、飛躍に失敗した例や、飛躍すべきところで飛躍しなかった例は、どれもかなり似通っているからである。

(2004年7月号)