名訳
須藤朱美

池 央耿訳『南仏プロヴァンスの12か月』

  大学を卒業して3年目のころ、母校の研究室に足を運んでいた時期がありました。ある日、研究室の所長をされる先生がわたしに1本のカセット テープを差し出して、「美しい英語です。ぜひ耳に入れておいたほうがいいものですよ」とおっしゃいました。わたしはお礼を言ってそれをカバンにしまいまし た。

翌朝、7時3分発の通勤電車に乗り、ウォークマンにテープを差し込んで再生ボタンを押しました。なだらかな丘に囲まれた場所を抜けて橋に差しかかると、田 んぼの広がる、晴れた日には富士山を望める場所を電車が走ります。日常の景色を無意識に待ちかまえていたわたしは、その日、不思議な感覚に襲われました。 イヤホンから聞こえるピーター・メイルのA Year in Provenceの朗読に耳を澄ませていると、車窓の向こうの見慣れた景色が、まるで遠い異国の風景のように思えてきたからです。

テープの話に引き込まれたというよりは、むしろ音の響きにくすぐられたとでもいうのでしょうか。メイルの文章は耳に心地よく、朝のすがすがしさと相まって わたしを遠くプロヴァンスの田園地帯へ運びました。こんなこともあるものなのかと、音の持つ力に静かに感動した、小さな事件でした。

 ふと、この本が池央耿氏の訳で刊行されているのを思い出し、どんなふうに訳されているのだろうと文庫を買い求め、表紙をめくって驚きました。散文の活字 とはこれほど美しく並ぶものなのでしょうか。声に出して文章を読みあげると、これがテープの音を聞いたときのように、心地よい空気の振動としてひとつの完 結した雰囲気をつくりあげています。

上田敏訳のヴェルレーヌの詩、「落葉」のような印象。「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。」音の連なりは楽器の奏 でる音色のようで、活字の連なりは一連の風景を描く水彩画のようです。この美しさは同じ活字であっても画面ではけっして味わうことのできない贅沢であり、 紙に落とされたインクの跡だけが伝えうる美しさのような気がします。

 池氏の『南仏プロヴァンスの12か月』は美しい訳文の宝庫です。エッセイでありながら、まろやかな詩集のような雰囲気をまとっています。英語と日本語、 異なる言語が同じように美しい言葉として存在しうるには、言語構造の違いがある以上、訳者の意識が不可欠なはずです。

さて、例を見ていくことにしましょう。

フランスの農民は発明の才に長けている。無駄を嫌い、ものを捨てることを好まない。磨 り減ったトラクターのタイヤ、刃のこぼれた鎌、柄の折れた鋤、一九四九年型のルノーのギアボックスといった廃物がいつの日か何かの役に立ち、ポケットの奥 深くに隠し持った財布に手を付けずに済むかもしれないことを知っているからだ。
(ピーター・メイル著池央耿訳 『南仏プロヴァンスの12か月』河出文庫p303)

The French peasant is an inventive man, and he hates waste.  He is reluctant to discard anything, because he knows that one day the bald tractor tyre, the chipped scythe, the broken hoe and the gearbox salvaged from the 1949 Renault van will serve him well and save him from disturbing the contents of that deep, dark pocket where he keeps his money.
(原文ペーパーバック版p183)

『南仏プロヴァンスの12か月』は1か月の出来事を1章とし、全12章からなる、南仏に移住した英国人のエッセイです。上に挙げた文章は11章の冒頭部分 です。訳文だけを読むと、さらっとした水のように無色透明で、この訳文のどこが美しいのかと疑問に思う方がいるかもしれません。ただ、この無色透明という のが翻訳の場合、ひじょうに難しいのです。原文を見れば、翻訳をしたことのある方なら身に覚えのある難しさを見つけるはずです。

 peasantをジーニアスで引くと、第1義で「小作農、小百姓、農場労働者」、第2義で「いなか者、粗野で無学な人」とあります。この訳語は農業に携 わる人の呼称として、何らかの意味を強く持つ言葉です。池氏はpeasantが含む意味を、かなりニュートラルな言葉に置き換え、透明度の高い「農民」と いう言葉で訳しています。もし冒頭でpeasant    を「小作農民」と訳すと、この後に続くすべての文章が「野良」の文字を思い起こさせ、読者はプロヴァンスの風景を頭のなかで描けなくなりま す。

冒頭で誤った色や臭いをつけてしまうと、翻訳書はその後どうあがいても、読者を本の世界に引き込むことができなくなります。異なる言語間での翻訳では、言 葉の含む背景やニュアンスに対する訳者の鈍感さは、読者にとって大きな足かせとなります。意味が通じたとしても、原文と同じ感覚を伝えられない訳文は往々 にして、たくさんの足かせを読者にはめていることが少なくありません。

池氏の訳文には蒸留に蒸留を重ねた極上の透明美があります。不必要な句読点をなくし、日本語の文章としてもっともシンプルな並びになるよう、カンマやコロ ンはことごとく無視されています。becauseやandといったごく簡単な接続詞であっても、言葉と意識の流れをせき止めるような文字や音はいっさい訳 文に反映されていません。その証拠に上の訳文を声に出して読んでみると、つかえることなくすらすら読むことができ、意味がすんなりと理解できます。書店に 並ぶ翻訳書を無作為に数冊取り出して読みあげても、おそらく池氏の訳文のような美しさを持つものはないでしょう。それどころか一読したくらいでは意味すら 伝わらないものがありふれているはずです。

 かといってまったくの無色透明、無味無臭では美も趣もありません。ここで申し上げた透明とは淡い水彩絵の具を鮮明に発色させる白い画用紙の役割といって よいかもしれません。足かせだらけの下手な訳書が黄ばんだ画用紙だとしたら、池訳『南仏プロヴァンスの12か月』はおろしたてのシーツのようなまっさらな 画用紙です。そして池氏の訳文の本当の美しさはそのまっさらなベースにのせられた淡い絵の具の色彩にあります。

 たとえば上の例のthe contents of that deep, dark pocket where he keeps his moneyという部分です。意味だけを伝えたいのなら、「ポケットの奥にしまわれたお金」と表現するのが簡単ですし、原文の意味する物理的事物もこれに相 違ありません。ただ、原文はあえて、「金銭」を遠回しに表現し、その文章の並びから、プロヴァンスの人々がケチというのではなく、不必要にお金を使わない 生活をしていることを伝えています。この文章の主旨は「廃物を利用して無駄遣いを避けている」ということです。そこに質素で豊かな生活を楽しみ、お金に振 り回されないでいるプロヴァンスの人々のにこやかな表情が重なり、彩りのある英文になっています。一見まどろっこしい物言いのようでいて、一枚の絵を一瞬 にして読者に想像させる、莫大な情報量を持った文章です。

 池氏の訳文では、この美しい英語の言い回しが、じつに日本的な奥ゆかしさと笑いをもって訳されています。「ポケットの奥深くに隠し持った財布に手を付け ずに済む」という表現には生々しい金銭を表す言葉を用いず、「財布」という間接的イメージで表現しています。さらに「隠し持った」、「手を付けず」という 言葉のニュアンスで、プロヴァンスの人々の生活を温かい眼差しでほんのり茶化しています。表面的には原文の構造をまったく無視していながら、結果として読 者に原文と同等のイメージを思い起こさせる訳文です。それでいて言葉自体の音と見目がこのうえなく美しいのです。このような彩りある訳文が活かされるの も、ベースとなる画用紙がまっさらだからといえます。

 何かこう、わけもなく鬱々として晴れない気持ちが続くとき、わたしは池央耿氏の『南仏プロヴァンスの12か月』を持って、通勤電車に乗り込みます。適当 に頁を開き、適当に読み流していると、ささくれだった気持ちがすこしだけ潤うような気がしてきます。それでもやっぱり、気持ちがすっきり晴れる魔法のよう な効果はありませんが、こんな綺麗な言葉をカバンのなかにしまっていられるなら、そう捨てたもんでもないだろうにと、すこしだけ心に余裕ができるのを感じ ます。