翻訳についての断章
山岡洋一

翻訳 格付けあるいは翻訳ミシュランあるいは翻訳家の値うち

  明治の初期ならともかくいまの時代には、有名な作家はいても、有名な翻訳家などいるはずがないと思っているのだが、読書好きの知り合いと話 しているとそうでもないかもしれないと思えることがある。何人かの翻訳家の名前がでてくることもあるのだ。そして、でてくる名前はだいたい共通している。 話題になることが多い翻訳家、つまり少しは有名な翻訳家も少数だがいるようだ。

 いまの世の中では翻訳家は無名に決まっていると思えるほどなのだから、少数とはいえ、少しは知名度がある翻訳家がいるのは嬉しいことだ。だが、問題もあ る。名前が知られているのは、たいていは訳書がベストセラーになったか話題になって、マスコミにときどき登場する人だ。翻訳の質がとくに高い人ではない。 ところが、有名な翻訳家だから翻訳がうまいはずだと思われている場合が少なくないようだ。名前は知られていないかもしれないが、はるかにうまい翻訳家がい ると話しても、なかなか信じてもらえない。

 翻訳家の知名度は翻訳の質に反比例する……、そう言い切れたら痛快なのだが、事実はそうでもない。だいいち、無名で下手な翻訳者は山ほどいる。それに、 ある程度有名な翻訳家のなかに、たしかに翻訳の質が高い人もいる。

 実力がそれほどない翻訳家がもてはやされているのをみると、同業のひとりとして心穏やかでない場合もあるが、それより問題なのは、ほんとうに素晴らしい 翻訳家がいるのに、それほど知られていなかったりする点だ。そしてもっと一般的に、翻訳の質が判断しにくいことに問題がある。翻訳出版ではとくに、一流の ものも三流のものも区別なく同じ値段で売られているので、質の違いが判断しにくい。

 もちろん、翻訳の質は読者が個々に判断すればいいという意見もなりたつ。だが、他の分野の例をみると、質の違いを判断しにくい場合には、質に関する情報 が提供されていることが多い。

 典型例が債券の格付けである。債券の安全性、つまり発行した企業や機関が倒産せずに元本と利息を支払ってくれる確率に関する情報の提供を専門にする会社 がいくつかある。そうした会社が格付けという分かりやすい記号を使って、安全性についての判断を伝えている。記号には格付け会社によって違いがあるが、一 般的には上から順にA、B、Cの三段階に分かれ、それぞれがAaa、Aa、Aなどの三段階に分かれている(もう一段細かい分類もある)。債券を買うのはよ ほどの金持ちか、銀行や保険会社などの機関投資家だけなので、それぞれが債券の安全性を判断できる力をもつ専門家を抱えているはずだし、言葉の本来の意味 での自己責任で投資しているのだが、それでも安全性に関する情報を第三者が提供する仕組みができている。

 もっと馴染みのあるのはミシュランだろう。ギネスがもともとビール会社がパブでの話のタネとして発行したものであるように、ミシュランはタイヤ会社が旅 行ガイドとして発行している。とくに有名なのはフランス料理店の質(とくに料理の質)を示すもので、星が1つから3つまでに分かれている。三つ星が最高級 であり、1つであっても星がつくのは名誉なことのようだ。ミシュランの「レッド・ガイド」には毎年、4000軒以上が掲載され、そのうち星がつくのは 500軒ほどという。星がつく店で食事をしたことなどないので、くわしくは知らない。だが、料理の質のように判断が主観的になりやすいものにも格付けがあ り、100年近くも続いているのは面白いと思う。

 もうひとつ、読書好きに馴染みがある格付けに、福田和也の『作家の値うち』がある。数年前に話題になった本で、100人の作家の600近い小説を読ん で、100点満点で採点したものである。ワイン評論家のロバート・パーカーの『ボルドー』に範をとったものだという。ワイン・マニアではないので(そもそ もアルコールを受け付けない体質なので)、パーカー・システムといわれてもピンとこないのだが、福田和也は『作家の値うち』で、「作家をシャトーとみな し、個々の作品をヴィンテージ(生産年度)とみなして、作品ごとに点数をつけた」と説明している。債券格付けやミシュランが客観性を大切にし、何人かの合 議制で格付けを決めているのに対して、『作家の値うち』は福田和也がひとりでつけたものだ。こう書けば福田和也は怒るかもしれないが、主観的な判断を表に 出しているように思える。だから、笑える部分もある。だが、大量に出版される小説のなかから、読むに値するものとそうでないものを見分けて読者に知らせる のは、文芸評論家にとって本来の仕事だ。文芸評論家なら全員で取り組んでもおかしくない仕事をひとりで行ったわけで、感嘆するしかない。

 以上のように、質の違いを判断しにくいものについて、質の違いに関する情報を何らかの記号で示す仕組みや試みがいくつもある。たいていのスポーツのよう に成績が数字であらわせるものの場合には、格付けはそれほど使われない。質の違いが判断しにくいからこそ、格付けが意味をもつ。出版翻訳の場合には、部数 という形で結果が数字になってでてくるし、だからこそ、ベストセラーの訳者がマスコミに登場することもあるのだが、部数と翻訳の質の間にはそれほどの関係 はないといえる。翻訳の質の判断に使える数字はない。何を基準に、どこに注目して判断すればいいのかすら、はっきりしていない。その意味で、翻訳はまさに 格付けに適した分野である。

 これまで、翻訳格付けが発表された例はないようだが、それはおそらく、手間がかかりすぎるからだろう。たとえば、1か月に100冊読むと豪語する福田和 也でも、『翻訳家の値うち』を書くのは容易ではないはずだ。訳書だけでなく、原著も読まなければ書けないのだから、翻訳家100人の格付けには何年もかか るだろう。だが、人数を絞り込めば、翻訳の格付けも不可能ではないはずと思う。

 では、翻訳の格付けを行うとすれば、具体的にどのようなものになるのかを少し考えてみよう。

翻訳格付けは何でないのか
 翻訳の格付けがどういうものになるのかを考えるとき、それが何でないのかをみていく方が、おそらくは分かりやすい。

 まず、翻訳格付けは翻訳書の書評ではないし、翻訳書の価値を示すものでもない。翻訳書の価値のうちかなりの部分は、原著の価値によるものである。原著の 質が高ければ、翻訳書の価値も基本的に高くなる。原著の価値が低ければ、通常は翻訳書の価値も低い。翻訳の質は、翻訳書の価値を限界部分で左右するが、基 本的な価値まで左右することは稀だ。このため、翻訳書の価値が高いか低いかに注目していると、翻訳の質を事実上、無視することになりかねない。翻訳書の全 体的な価値については判断せず、翻訳の質だけに的を絞るのが翻訳格付けである。

 第2に、翻訳格付けは網羅的なものにはならない。債券格付けもミシュランも、対象の数がきわめて多いし、『作家の値うち』も100人の作家の600近い 小説を対象にしているので、主要な作家は網羅しているといえる。だが、翻訳の格付けは少なくとも当初、網羅的にはなりえないだろう。何よりも時間がかかり すぎるし、共同作業になりにくいからだ。当初は、すぐれた翻訳家に対象を絞るしかない。ミシュランでいえば、星がつく翻訳家だけを対象にし、星がつかない 翻訳家は対象外にするしかない。債券格付けでいえば、投資適格と呼ばれるBaa/BBB格以上に絞り込むしかない。福田和也の100点満点での採点でいえ ば、「再読に値する作品」とされる60点以上に絞り込むしかない。

 第3に、これが肝心の点だが、翻訳格付けは誤訳の少なさを示すものであってはならない。また、「読みやすく、分かりやすい」かどうかを示すものであって はならない。この点については、2002年に書いた文章があるので、この号の最後に再録する。

日本語としての質
 翻訳格付けは誤訳の少なさを示すものであってはならないというと、では誤訳が多くてもいいのかと質問されるかもしれない。だが、翻訳は面白い性質をもっ ていて、原文を忠実に訳すことを金科玉条にしていれば、誤訳や悪訳が避けがたくなり、訳すのではなく書くことを心掛けていれば、つまり「原著者が日本語で 書くとすればこう書くだろうと思える」文章を目指していれば、誤訳や悪訳が自然に少なくなる。

 理由は簡単で、訳そうとするのではなく書こうとしていれば、文脈にあわない文章は書けなくなるからだ。翻訳は人がやることだから、原文を読み違える場合 もある。だが、読み違えればたいていの場合、文脈にあわなくなるので、文章が書けなくなり、原文を読みなおすしかなくなる。原文の読みが間違えていても、 間違いに気づいて再検討するフィードバックの機構がはたらくのだ。原文を忠実に訳そうとしていると、このフィードバック機構がはたらきにくくなる。読みを 間違えていても、原文にはこう書かれているのだからと、文脈にあわない訳文を書く場合が多くなる。

 もちろん、なかには思い込みがはげしくて、原文とは似て非なる文章を書く翻訳者もいる。いわゆる豪傑訳である。だが、豪傑訳は「原著者が日本語で書くと すればこう書くだろう」とはいえない訳である。豪傑訳は例外だが、それ以外の場合には日本語としての質が高ければ、翻訳の質が高いといえるはずである。

 翻訳は日本語としての質が高くなければならないというと、当たり前ではないかという意見もあるだろう。たしかに、ある意味では当たり前である。日本語と しての質を考えず、「原文に忠実」と称して英文和訳調の訳文を書く翻訳者はずいぶん少なくなった。だが、当たり前のことが当たり前にできるとはかぎらない のが世の中のつねだ。たとえば債券格付けは、決められた利息と元本を決められたときに支払う能力と意思がどれだけあるかを示すものだ。元利をきちっと支払 う。当たり前ではないか。だが、この当たり前のことができるとはかぎらないから、債券格付けがある。それと同様に、日本語としての質が高い文章を書くとい う当たり前のことができるとはかぎらないから、翻訳格付けが意味をもつのである。

 では翻訳の日本語としての質を、どのように判断するのか。例をあげて考えていきたい。本来なら日本語としての質の高い翻訳を紹介して、その一般的な特徴 を考えていくべきなのだろうが、ここではあえて逆の方法をとる。日本語としての質が低いのではないかと疑われる例を紹介する。その理由は2つある。

 第1に、名訳についてはこれまでいくつも紹介してきたし、今後も紹介するので、繰り返しを避けたい。第2に、日本語としての質が高い翻訳はそれぞれ独特 の個性をもっているが、日本語としての質が低い翻訳はどれも似通っている。だから、日本語としての質が低い翻訳の方が、典型例を指摘しやすい。

 公開の場で個人を批判することには慎重になるべきだと思うので、固有名詞など、誰が訳したどの本なのかを示す手掛かりになる言葉は省略する。そして以下 の例はどちらも、全体としては質が高い翻訳の一部であることをお断りしておく。質が高い翻訳にも、日本語としての質が低いのではないかと疑われる文章があ る。そういう例として読んでいただきたい。もうひとつ、翻訳の質を考えるときにかならずしも原文を読む必要があるわけではないことを示すために、以下では 原文を無視して、訳文だけで話を進めていく。では例を2つ紹介しよう。

(1) ○○、さいごに決まった下の娘の名はべつに愛称ではない。これは、わたしと彼女の父親との妥協の産物だった。
(2) 彼の三十六歳の誕生日である五月十八日、○○は朝の五時に起き出した。

 (1)は、「わたしと彼女の父親」はどういう関係にあるのだろうと考えてしまう文章だ。この直後に「夫」の意見がこうで、「わたし」の意見がこうだった と書かれている。ということは、「彼女の父親」は「わたし」の夫で、「彼女」は娘なのだろう。「原著者が日本語で書くとすればこう書くだろうか」と考えて みると、原著者ならよほどの理由がないかぎり、こうは書かないと思えるはずだ。

 この点を確認するには、自分の家族にあてはめてみるといい。家族構成が違っているのなら、「彼女の父親」を「彼の父親」「彼女の母親」などに変えてみ る。そう考えると、これがいかに奇妙な日本語なのかが実感できるはずだ。「夫」ではなく、「父親」というからには、何か複雑な関係があったのだろうと思え る。それに、自分の娘、それも生まれる前かその直後の娘を「彼女」と呼ぶことはまずない。だから、「彼女の父親」は二重に奇妙なのだ。

 (2)は「彼」と○○が別人であれば、ごく普通の日本語だ。だが、読み進んでいくと、別人ではないことが分かる。「彼」は主人公の○○なのだ。○○にた とえば「太郎」を入れて読んでみるといい。「彼の三十六歳の誕生日である五月十八日、太郎は朝の五時に起き出した」。奇妙な日本語ではないだろうか。「太 郎は、彼の三十六歳の誕生日である五月十八日、朝の五時に起き出した」ならまだいい。だが、「彼の」はよほどの理由がないかぎり余分である。「彼の三十六 歳の誕生日」と書く必然性があったのかどうか。

 以上の例を取り上げたのは、どちらも、翻訳の質が高い小説の一節だからだ。どの本からの引用なのかに気づいた方ならおそらく、「翻訳の質が高い」という 評価に賛成のはずだ。そしてこれは冒頭部分である。翻訳者ならだれでもいちばん慎重になるはずの冒頭部分なのだ。どちらも、原文に引きずられた悪訳である 可能性が高い。

 原文に引きずられないようにすれば、もっと違和感のない訳文になったはずである。もっとも、違和感なく読める文章がいいとはかぎらない。たとえば「わた しと夫との妥協の産物だった」と書けば違和感がない自然な文章になるが、半面、印象に残らない文章にもなる。どこかぎくしゃくし、違和感がある文章は、印 象に残る文章でもある。だから、伏線にしたいとき、自然ではない何かを伝えたいときには、違和感がある文章を意識して使う場合もある。(1)はそういう効 果を狙った文章である可能性もないわけではない。だから、結論を急がず、じっくりと考えてみる必要がある。

 もうひとつ、「わたしならこうは書かない」とか「普通はこういう言い方をしない」というのは、日本語としての質が高いかどうかを判断する基準になりにく いことも確認しておくべきだ。文章家なら、「わたしにはこうは書けない」と感嘆する文章を書く。「普通なら思いつかない」表現を考える。だからこそ新鮮で 力強い文章になる。これは当たり前の話だ。

 こうした点を確認したうえで、もう一度、2つの例をみてみる。翻訳者が何かを伝えるために意識的にこういう表現を使ったといえるのだろうか。そういえる として、この訳は成功だといえるのだろうか。

 おそらく、どちらの問いに対しても、そうはいえないと答えるべきだろう。前述のように、日本語としての質が低い翻訳はどれも似通っている。似通っている のは、英文和訳で「正解」とされる訳し方があるからだ。たとえばhisは「彼の」と訳せば正解、所有格のherは「彼女の」と訳せば正解である。この「正 解」通りに訳すと、日本語としての質が低い訳文になる。これがいまの時代の翻訳の常識だ。だが、ひとつ前の時代には逆の常識があった。原文にhisがある のに、「彼の」と訳さないのは間違い、「彼の」は不要だと判断すると、すかさず「訳抜けがあります」などと親切に指摘してくれる人がでてくる。「彼の」と 訳しておけば安全、というのが一昔前の常識だった。

 だから、「彼女の父親」「彼の誕生日」という表現は一昔前には正解だったが、いまの常識では下手のように見えるし、下手のように読めるものなのだ。下手 のように見えるし、下手のように読めるから下手だといえるかどうかは分からない。世の中には下手とされる方法をうまく使う名手もいる。だが、「彼女の父 親」「彼の誕生日」という表現がそこまで考え抜かれたものである可能性はきわめて低いと思うし、万一そうであっても、成功しているとは思わない。

 ニューヨーク・タイムズ紙2004年5月25日号の読書欄に、「翻訳家の長い旅」という記事がある。ガルシア・マルケスらのスペイン語・ポルトガル語の 小説を英語に訳したグレゴリー・ラバッサという翻訳家を紹介した記事である。この記事にラバッサの発言が引用されている。「すぐれた翻訳はこうだ。ガルシ ア・マルケスの母語が英語だったらどう書いたかを考える。翻訳はそういうものでなければならない」。翻訳はそういうものでなければならないのだ。原著者が 日本語で書くとすればどう書いただろうか。そう考えていれば、「彼の三十六歳の誕生日である五月十八日」なんぞという訳文にはならなかったと思う。

 日本語としての質が低い翻訳はどれも似通っているが、日本語としての質が高い翻訳はそれぞれ独特の個性をもっている。日本語としての質が低い翻訳がどれ も似通っているのは、英文和訳で「正解」とされる訳し方があるからだが、日本語としての質が高い翻訳がそれぞれ独特の個性をもっているのは、英文和訳の 「正解」が翻訳では正解と限らないことを認識したとき、日本語の無限の可能性を活かせるようになるからだ。だから、「正解」を超えたところから、本当の勝 負がはじまる。だが、いまの時代の翻訳に求められるのはまず、英文和訳の「正解」を超える姿勢である。この姿勢がどこまで強いかをみれば、翻訳の日本語と しての質を判断する第一歩になる。

翻訳格付けはどういう形になるか
 おそらく、『作家の値うち』の100点満点、債券格付けのAaaからCまでの大きく9段階の評価は、翻訳には適していないように思える。そこまで細かい 評価をくだすのは困難だからだ。ミシュランの星なしから三つ星までの4段階評価が適切だと思える。そして少なくとも当初は、星なしは公表せず、星がつくも のだけを対象にすることになるだろう。

 債券格付けは基本的には債券の一つずつの銘柄に付けられるものだが、そこから、債券を発行する企業や国などの格付けも決まってくる。『作家の値うち』で は、点数は個々の作品につけられており、作家の評価は示されていない。ひとりの作家でも、作品ごとの評価には極端な違いがある場合もある。たとえば高橋源 一郎の場合、最高が91点、最低が21点である。

 翻訳格付けでも、評価の対象は基本的に個々の作品になる。だが、ひとりの翻訳家の多数の作品をみていったとき、翻訳の質のばらつきはそれほど大きくな い。三つ星の翻訳もあれば星なしの翻訳もあるという翻訳家はおそらくあまりいない。このため、少なくとも当初は、星は翻訳家に対して付けることになるだろ う。たとえば5点以上の作品が三つ星に値するものであれば、その翻訳家の格付けを三つ星とする。

 できれば、以上のような形で翻訳格付けを近くはじめたいと考えている。時間がある程度とれれば、という条件がつくのだが。