名訳
 須藤朱美

小川高義訳『さゆり』


 「へえ、おかあさん、これから気張らせてもらいます」
「もう初桃さんを怒らせんといてや。ほかの子ぉかて、あんじょうやってますのや。あんたにできひんことあらへんえ」
「へえ、おかあさん……ええと、一つだけ聞いてもよろしおすやろか。うちの姉の行き先を知ってはる人おへんのか、ずっと気になって、あの、手紙でも出した い思うてまして」
(アーサー・ゴールデン著小川高義訳『さゆり』文藝春秋社p71〜72)

 いっさいの前情報なしに上のセリフを読んで、はたしてこの文章に英語の原著があり、それを日本語に翻したものだとピンとくる方がおられるでしょうか。も しいらっしゃるとしたら、おそらくその方は卓抜なる日本語力をお持ちであり、わたくしのごとき若造にはとうてい到達しえない境地にふみこまれている方か、 でなければ、翻訳というものは英語ができればおのずとなしえる生業だと、いささか勘違いされている方だとしか言いようがありません。それほどまでに小川氏 の訳は美しい日本語で訳されています。さっそく例を挙げて検証したいとおもいます。

ほかの科目では、おカボも三味線ほどの体たらくではありませんでしたので、見ているほ うも救われました。たとえば舞のお稽古ですと、全員そろって動きますので、一人だけ目立つということがありません。それにおカボも下の下というわけではな く、ぎこちないながらに、どことなく味のある動きをしていたように思います。
(上巻p82)

It was a relief to me that Pumpkin’s other classes weren’t as painful to watch as the first one had been.  In the dance class, for example, the students practiced the moves in unison, with the result that no one stood out.  Pumpkin wasn’t by any means the worst dancer, and even had a certain awkward grace in the way she moved.
(原文ペーパーバック版p57)

 『さゆり』の訳には特筆すべき特徴が二点あります。一つは、まえから順に訳しながら日本的論理展開で訳されていること。もう一つは日本的情緒を含む言葉 で英語臭を完全に消していること。

 この話の舞台は京都の祇園です。訳書を手にした場合、おおかた日本人が日本語で日本を舞台にした小説を読むのですから、ほんの少しの英語臭さでも鼻につ きます。しかし小川氏の訳は日本人の論理と言葉を軸にして、そこからぶれることなく訳しているために嫌悪感を抱かせる要素が微塵もありません。

 上の訳文からは<It…that〜>や<as…as>の構文・論理展開がまったく透けていません。そのかわりに「体たらく」「見ているほうも」など、言 葉尻で探しても原文には見当たらない単語がならんでいます。また日本語にはない完了形、<the first one had been>の部分は時制ではなく比較のようなかたちで英文の言わんとしている内容を簡潔に伝えています。

 なにより驚くのは「下の下」という言葉です。原文はと言えば<the worst dancer>となっています。最上級は「最も〜」と訳すものだと中学生のころに教わりますし、最上級が出てくれば英文和訳の際にはどこかの宗教かとおも うほどみな意を一つにして「最も…」と書きはじめますが、はたして普段ものを書いたり話したりするときに「最も…」というフレーズがどれほど口を付いて出 てくる機会がありましょうか。英語ではとにかく比較級だの最上級だのがよく出てきますが、必ずしも「〜より上」、「一番〜」と言いたいのではなく、単に強 調しているにすぎないことが往々にしてあります。いちいち比較級、最上級に訳していたら読者は読む気が失せます。それほど比較級、最上級は英文で頻出し、 日本語の文脈に馴染まないものです。それをさらりと訳す小川氏の「下の下」という言葉の発想はただただ感服するばかりです。

 次の例を見てみましょう。

まことに粋をきわめたというべき美しさでしたが、それもそのはず、私が知らなかっただ けのことで、日本でも指折りの格式あるお茶屋さんに来ていたのでした。いいえ、お茶を飲みに行く店ではございません。男の方が芸者をあげてお遊びになると ころがお茶屋なのです。
(上巻p115)

It was exquisitely lovely― as indeed it should have been; because although I didn’t know it, I was seeing for the first time one of the most exclusive teahouses in all of Japan.  And a teahouse isn’t for tea, you see; it’s the place where men go to be entertained by geisha.
(原文ペーパーバック版p81)

 上の英文は私たち日本人に馴染みにくい、つまり直訳をしたのでは作者の言わんとすることがまったく伝わらない文章です。

 まず一つは<as indeed it should have been>。直訳すると「事実、お茶屋は美しかったはずであるように」となりますが、一体なにを言おうとしているのか読むほうには伝わりません。ひっかか るのは<当然を表すshould>です。ここに<強調のindeed>が加わると下手な訳者は決まって「事実、……べきである」と、わかったようなわから ないような、字面だけなんとも偉そうな訳文をつくるものです。原文でこれだけ短いのですから、やはり日本語でもさらりと流したいところなのですが、助動 詞・完了形・強調などの要素を頭でこねくりまわしているうちにいびつで冗漫な訳文以外浮かばなくなります。

 ところが小川氏はこの部分を「それもそのはず」の一言で英語の持つ要素を簡潔に表現しています。こういった訳出の仕方は、まず学校では教わりませんし、 辞書や翻訳指南書にも載っていないでしょう。多読・精読の訓練を積んだ者のもとにミューズが降りてきた、そんな神秘的な力さえ感じられます。こういう文章 の訳で訳者の力量というものが浮き彫りになる気がします。

 次は<one of the most exclusive teahouses>という箇所です。私事になりますが、中学校でこの<one of the 最上級>という構文を「一番○○なもののうちの一つ」と訳すものだと習ったとき、どうしても腑に落ちないことがありました。「一番○○なものって、一つ じゃないの。そのうちの一つということは、一番○○なものというのはそんなにたくさんあるものなの。だとしたら最上級ってなに?」中学生だったわたくしの 頭はパニック寸前でした。おそらく先生に質問しにいったとはおもうのですが、「ああ、なるほど」と感じた記憶が残っていないので適当にあしらわれてしまっ たのでしょう。わたくしの方でも「どういうことかよくはわからないけれど、要は『一番○○なもののうちの一つ』と書いておけばテストで丸をもらえるらし い」と最小限の労力で、この<one of the最上級>問題を一件落着させてしまいました。

 それから十年後、「この<one of the最上級>は物理的な関係を表しているのではない。<very>の強調である」と、とある識者に教わりました。そのときは十年来封印されていた呪縛が 解かれた心持ちでした。なるほど、解釈の仕方は分かりました。しかし翻訳者として訳すのであればこれをどういった言葉で表現すればよいのでしょうか。以 来、<one of the最上級>をひとはどう訳すのかとひそかに気にしていましたが、納得できるものには出会えませんでした。ところが『さゆり』でため息のでるような表現 に出会ったのです。

 <one of the most exclusive teahouses in all of Japan>の部分を直訳すれば、「日本中で一番高級なお茶屋のうちの一つ」となります。<one of the最上級>を<veryの強調として訳しても、せいぜい「日本で非常に高級なお茶屋のうちの一つ」といったところでしょう。ところが小川氏の訳文では <one of the最上級>の部分を、作者が日本人であったらまさにこう書いただろうという言葉で表現しています。「日本でも指折りの(格式あるお茶屋さん)」は、原 文の意味をきちんと伝えた日本語的表現であり、ほのかな日本的情緒さえ漂わせています。わずかな英語臭も感じられないことに驚かずにはいられません。

 この言い回しは<one of the最上級>がでてきたらいつでも使えるというものではなく、この文脈だからこそ輝きを発した表現でしょう。応用性のごく低いものです。ただし<one of the最上級>をこれほどうまく訳している訳本にいまだわたくしは出会ったことがありません。「いや、それはほめすぎだ」と言う方がいらっしゃいました ら、ためしにこちらの原書を一ページ訳してみてください。小川氏のようにするりと繊細な日本語で訳出できる方は、そうはおられないでしょう。

 そして訳の技術とは関係のないところかもしれませんが、小川氏の訳書『さゆり』はどの頁を開いても日本語の活字本として、その見た目が美しいこと。原書 ではなく訳書で読む価値のある本がここにあります。