名訳

仁平和夫訳『大逆転!』

山岡洋一

  仁平和夫が1998年に訳したゴードン・ベスーン、スコット・ヒューラー著『大逆転!コンチネンタル航空?奇跡の復活』(日経BP社)は倒産寸前の航空会社の経営を引き受け、業界トップ・クラスの好業績企業に変身させた経営者の物語である。

 いまの日本には奇跡の復活を必要とする企業がいくらでもころがっているのだから、まさにぴったりの本だといえる。それに、著者であり復活劇の立役者であるゴードン・ベスーンが使った手段は、複雑な点も分かりにくい点もほとんどない。単純明快であり、常識的である。基本に返る。これに尽きるのだ。まさにいまの日本に必要な考え方だといえる。

 単純明快な方法をとった経営者だから、語り口も単純明快だ。ジャーナリストが共著者になっているためもあるだろうが、すっきりと理解できる文章になっている。スピードのある軽い文体だ。

 だが、軽い文体を軽い文体で訳すのはそう簡単ではない。思い切った飛躍ができなければ、重苦しい文章になってしまう。軽い文体の原文を軽く訳す。その点で仁平和夫にまさる翻訳家はそうはいない。この本が読者に歓迎されたのは、仁平和夫の名訳があったからでもあると思う。

 軽い文体で訳すために、仁平は必要があれば原文の表面から思い切って飛躍し、自由に訳文を作っていく。例をいくつかみてみよう。訳文と原文を挙げていくが、原文の方は、気になったら見るという程度でいい。なによりも訳文を読んでいただきたい(原文はGordon Bethune with Scott Huler, From Worst to First, John Wiley & Sons, 1998 による)。
 

 まさか、いくらなんでも言い過ぎじゃないかって? 何を隠そう、それは本当だった。(9ページ)
  You think I'm exaggerating.  I've got to tell you that I'm not. (p. 3)


 まさか、いくらなんでも原文から離れすぎじゃないかって? そうじゃない。原文にこう書いてある。前後を読み、原文の文体を考え、著者の主張や人柄を考えれば、これしかないとも思えるほどぴったりの訳だ。
 

……財務やマーケティングについて、どんなに立派なプランをつくっても、誇りをもって販売できる商品がないかぎり、プランは画に描いた餅におわる。そこで、恥ずかしい商品をどうすれば誇りをもてる商品に変えられるかを考えた。 (39ページ)
... All the financial plans and marketing plans in the world weren't going to be successful until we had a product we were proud of. (p. 24)


 これも、原文の表面から思い切って飛躍し、著者の主張を日本語でみごとに再現した訳だ。たとえばuntil以下をどう訳したかをじっくりと味わってみるといい。これが翻訳なのだ。
 

 脳味噌がどかーんと爆発しないのが不思議なくらいだった。頭蓋骨というのは、ずいぶん丈夫に出来ている。 (43ページ)
  I consider it a great testimonial to skull design that my head did not at that moment explode. (p. 27)


 原文にこう書かれていないと思う人は翻訳に向かない。こう訳さないと原文の意図が伝わらないのだ。訳書を読めばこれしかないことがわかるだろう。
 

  くどいようだが、これらはすべて「お客さんが買いたいものを売る」という一点に集約できる。 (95ページ)
  Again, it all come down to making something that people want to buy. (p. 64)


 文頭のAgainを「くどいようだが」と訳していいとは、どの辞書にも書かれていない。だが、この文脈ではこれが最高の訳だと思える。この文脈では。語句の意味はつねに文脈に依存する。したがって訳語も文脈に依存する。文脈を離れて訳語について云々することはできない。仁平和夫はそうしていない。だからこういう訳語がでてくる。

 もうひとつ、「お客さん」にも注目したい。原文をみるとpeopleだが、意味上customersと言い換えられる。だから、「顧客」でも「お客さま」でもよかった。だが、仁平和夫が選んだのは「お客さん」だ。慇懃無礼にならず、堅苦しくもならず、原文の雰囲気を伝える訳語だ。
 

……従業員はもちろん腸〔はらわた〕が煮えくり返る思いがしただろうが、それでも嘘で塗り固めた悪いニュースよりも、掛け値なしの悪いニュースの方がましであることは理解できた。(136ページ)
... Even the employees, as angry as they were, could see that bad financial news along with the truth was better than bad news along with a lie. (p. 93)


 それこそくどいようだが、原文の表面から飛躍して原文の意図を日本語で表現している。たとえば、along with the truthが「掛け値なしの」になっている。うーとうなってしまう。
 

……何度も言うように、従業員は経営陣を信じていなかった。それまでの経緯を考えれば、信じてくれというほうが無理である。 (150ページ)
... Remember, these employees didn't trust us, and after the previous decade it was hard to blame them for that.  (p. 103)


 Rememberが「何度も言うように」とは……。そうだよね、そういう意味なのだからと思う。後半の訳も秀逸だ。
 

……生活が楽でない人たちにとって(その後、生活はだいぶ楽になったが、当時のコンチネンタルの従業員は、生活をぎりぎりまで切り詰めていた)、六十五ドルというのは、はした金ではなかった。 (151ページ)
... For people on tight budgets--and Continental employees were definitely among them, though they've certainly made strides since then--$65 was something. (p. 104)


「生活が楽でない」と「生活をぎりぎりまで切り詰めていた」に注目。翻訳はこうでなければいけない。
 

……約五百万ドルの無駄な経費をなくせるなら、その半分を従業員に還元しようと考えた。商品を改善すると同時に、従業員の努力に報い、改善を続けるインセンティブを従業員に与えたのだ。会社が笑い、顧客も笑い、従業員も笑う。こんないいことがあるだろうか。 (174ページ)
... Funnel half of that $5 million or so to your empoyees, and you improve your product and at the same time take better care of your empoyees, while giving them the incentive to continue to improve. You win; the customer wins; the employees win. Pretty simple, right?  (p. 120-121)


 翻訳者泣かせの定型表現にwin-win situationがある。ここのwinはこの表現の変形だが、「笑う」というみごとな訳語が使われている。「勝つ」を使うといかにみっともない文章になるか、試してみるといい。

 もうひとつ、脱帽するしかない訳文を紹介しておこう。よくある表現だが、厭味にならないように訳すのはそう簡単ではない。仁平和夫の冴えをみてほしい。
 

 できるだけ手前味噌になることは避けたいが、これを説明するとなると、自慢話めいてきてしまうかもしれない。 (208ページ)
  It's hard to explain this without sounding self-congratulatory or I'm saying I told you so, which I don't want to do. (p. 144)


 仁平訳を読んでいくと、原文の表面からの飛躍と発想の転換におどろくと同時に、このような大胆な訳を裏で支えたチームの力を考えないではいられない。出版翻訳は翻訳家ひとりで成り立つものではない。編集者がおり、校正者や校閲者がおり、場合によっては翻訳チェッカーがくわわり、さらに出版社の営業担当者、装丁家など多数の人たちがくわわってチームができる。どんな訳書も、チームの力でできあがるものなのだ。チームのなかにひとりでも、英文和訳の採点者のような観点で訳文にケチをつけようとする人がいれば、仁平訳のような翻訳はできない。仁平訳がすばらしいのは、訳者を支えたチームがすばらしいからでもある。

(2002年11月号)