名翻訳家

弟・仁平和夫

仁平勝
  
  上智大学を中退して(正確にいうと授業料を払わなかったので除籍になって)から、弟は定職につくという志向性がなかった。ひとつの職場が長くても三年は続かなかったと思う。ある程度ひとつのところに勤めると、べつに特別な理由もなく辞めてふらりと旅行に行き、帰ってくるとまた別の仕事を探した。スナックのバーテンダー、洋食屋のコック、ラーメン屋というように飲食業が多かったが、べつにその仕事が好きだったわけではない。肉体的にはきつくても、家まで仕事を引きずることがないから精神的には楽だというのが、そうした仕事の選択理由だった。

 もっとも一時期は、自分の趣味にあわせた職業に就こうと考えたこともあるようだ。学生の頃はわたしといっしょに映画やアングラ演劇に足を運んだが、弟はそういう趣味から少し深入りして、いつのまにかシナリオの作家養成所に通いはじめ、コマーシャル映画の助監督をやったこともあった。またあるときは、状況劇場の団員募集に応募したこともある。これはなぜか唐十郎に気に入られたようで、なんと合格してしまったのだが、稽古づくめでほかに何もできないという説明を聞いて、びびって辞退してしまった。

 ラーメン屋はしばらく続いたようだが、結局また例によって大した理由もなく辞めて、こんどは麻雀屋に勤めた。しかしこの就職は、さすがに不本意だったらしい。そもそも採用の条件というのは、せいぜい三十五歳までであり、三十歳を越えるともうほとんど就職口がない。つまり年齢にあまり関係ない職場が、麻雀屋くらいしかなくなってしまったということだ。ところがここで、老齢の女主人にすっかり信頼されて、店を譲りたいといわれたそうだ。そこでさすがに、麻雀屋で一生を終わりたくないと思ったという。

 そこで弟は、あるとき急に英語を勉強し始めたのである。そして「ニューズウィーク」日本語版のスタッフとして採用されるのだが、調べてみると「ニューズウィーク」日本語版は、1986年に創刊されている。弟はこの情報をあらかじめ手に入れて英語の勉強をはじめたのか、それとも、たまたまその時期に重なったのか、そのへんの前後関係はわからない。ともかく、猛烈に勉強したようだ。一生のうち一年くらい集中して勉強すればなんでもできる。それができないとすれば、たかだか一年間なのにほかのことを諦められないからだ。そんなふうに弟がいったことがある。

 弟はそうした集中力とあわせて、一見正反対のように思えるが、子供の頃から要領がよかった。高校時代は、テストの選択肢の解き方なるものを研究し、問題を読まなくても8割は当たると自慢していた。その要領のよさで、「ニューズウィーク」の採用試験のときも、ひとつヤマをかけたのである。当時(1985年)ソ連でゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカが話題になっていた。そこで弟はそのあたりの関連記事が出題されると予想して、ソ連共産党の組織や役職の名前など、あらかじめ調べておかないと訳せないような言葉をしっかりチェックした。そして試験問題2題のうちの1題が、ずばりペレストロイカに関する記事であった。そのヤマが当たらなければ、たぶん合格しなかっただろう。

 さて「ニューズウィーク」における仕事ぶりは、弟から聞いたことを思い出しながら書いてみる(事実と違うところがあれば、わたしの記憶違いとして勘弁してもらう)。仕事は毎週決まった曜日に出社して、アメリカからファックスで送られてくる英文の記事を一日で訳す。このとき採用されたスタッフは、翻訳者を育てる意図もあったのかどうか、力量にかなり差があった。与えられた記事を一日まるごと使って訳す者もいれば、朝遅く出勤してきてゆっくりコーヒーなんぞを飲み、いとも簡単に片付けて午前中で帰ってしまうツワモノもいた。そこで弟は、ここでも要領のよさを発揮して、そのツワモノ氏に目をつけたのである。

 朝出社するとまず英文にざっと目を通して、訳すのに難しい箇所を拾い出す。そしてツワモノ氏が帰らないうちに彼のところへいって、その箇所をどんどん質問してしまう。ツワモノ氏の正体はわからないが、弟が翻訳家として一本立ちできたのは、彼のおかげといえるかもしれない。なにせレベルの下のほうで採用された弟が、自分よりも下のレベルだと思った者は、次々に脱落してやめていったというから、けっこう厳しいスタートラインだったのである。

 当時そんな話を弟から聞きながら、私は弟がようやく自身の天職を見つけたことを実感した。そして今、いきなり主人を失った仕事場には、きちんと分類された資料のファイルが整然と並んでいる。それを呆然とを眺めながら、弟なりに好きな生き方をしてきたのだと、あらためてそう思いたい。

発行人注 「ツワモノ氏」は付録32ページに紹介されている『よい子連盟』の訳者、酒井邦秀氏だと聞いています。