名訳
津森優子

大島 かおり訳『モモ』

  好きな本を一冊だけ挙げろと言われたら、私はたぶん『モモ』を選ぶ。ドイツの生んだファンタジーの天才ミヒャエル・エンデによる心躍る物 語、豊かな詩情と哲学のにじむ表現、現代社会に警鐘を鳴らす深いテーマ。児童書として扱われ、子供にも無理なく読めるが、大人になって読むといっそう心に 響く。嬉しいことにこの本の日本語訳は、自信を持って名訳と言える。翻訳くささを感じさせず、どこまでも自然に物語の世界を描き出し、心地よく読ませてく れる。いったいどんな原文をどう訳しているのか、調べてみる価値はある、そう思わせる文章だ。
 原書はもちろんドイツ語。私の専門は英語なので英語版も参照してみたが、残念ながら英語訳はあまりよくなかった。英語の文章としてきちんと成立している という点では、下手な邦訳本よりよっぽどましなのだが、ずいぶん素っ気なく訳されているし、ところどころに改悪としか思えないような飛躍がある。それに対 し、日本語版は原書に勝るとも劣らない表現で、原書の雰囲気を忠実に伝えている。

 まず冒頭から見てみよう。

 むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばで話していたころにも、 あたたかな国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。そこには王さまや皇帝の宮殿がそびえたち、ひろびろとした大通りや、せまい裏通りや、ごちゃ ごちゃした露路があり、黄金や大理石の神々の像のある壮麗な寺院が立ち、世界じゅうの品ものがあきなわれるにぎやかな市がひらかれ、人々があつまってはお しゃべりをし、演説をぶち、話に耳をかたむける、うつくしい広場がありました。なかんずく大きな劇場もそういうところにはあったものです。(『モモ』ミ ヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波書店 p.11 注:振り仮名は省略)

 語句の並べ方に無理がなく、いくつもの抑揚が折り重なり、音楽のようによどみなく流れている。このリズムのよさは、五七調だとか七五調だとか、単純に分 析できるものではない。ともかく読んでいてつっかえない文章なのだ。
 それに、描写されている情景がありありと目に浮かぶ。古代ローマを思わせる大都市のさまざまな場面が、選びつくされた言葉で語られている。特にうならせ るのが「ひろびろとした大通りや、せまい裏通りや、ごちゃごちゃした露路」の部分。原文はbreite Strassen, enge Gassen und winkelige Gaesschenとなっている。Strassenは英語のstreets、Gassenはalleysにあたり、GaesschenはGassenに縮 小語尾chenがついて、little alleysといったところ。少しずつ道幅が狭くなっていくわけだ。独和辞典を引くと、Gasseは「路地、横丁」などと出ているが、それをそのまま使う と、Gaesschenの訳に困る。大島かおりは、そこを「大通り、裏通り、露路」と、あざやかに訳し分けている。「路地」ではなくて「露路」。辞書には ない漢字だが、この方が「道」であることが一目でわかる。
 winkeligeも訳しにくい言葉だ。「角の多い」という意味で、「曲がりくねった」とでも訳したくなる。英語版もwindingと訳している。だが 都会の露路は、あまり「くねって」はいない。それより、曲がり角だらけで、ところどころ建物が飛び出てきたりしていて、迷路のような感じ。「ごちゃごちゃ した露路」が、まさにぴったりではないか。また、breiteはbroadの意味なので、なにも考えずに「広い大通り」と訳してしまいそうだ。だが「大通 り」が「広い」のはあたりまえなので、「ひろびろとした大通り」。
「世界じゅうの品ものがあきなわれるにぎやかな市がひらかれ」も、日本語として実に自然だ。ここはda gab es bunte Maerkte, wo Waren aus aller Herren Laender feilgeboten wurdenで、英語に直訳するとthere were busy markets where goods from all countries were soldとなる。「世界じゅうの品ものが売られるにぎやかな市場があり」でも悪くはないが、「あきなわれる」「市がひらかれ」の持つ語感にはとてもかなわ ない。
 翻訳には、原文の表す内容を適確にイメージする力と、それを適切な日本語で表現する力が必要だが、この部分を見ただけでも、大島かおりはどちらもずば抜 けていることがわかる。日本語としての語句のつながりに細心の注意が払われているからこそ、すらすらと読める文章になっているのだ。
 表記のしかたにも感心してしまう。ひらがなが多く、振り仮名がたくさん振ってあるのは、児童書ならではの特徴だが、漢字と仮名が、実にバランスよく使い 分けられている。ざっと文章を眺めると、各場面の核となる言葉だけが漢字で浮かび上がり、視覚的な効果を上げている。一般書ではここまで仮名を多くするこ とはできないだろうが、学ぶべきところはあるだろう。

 こうして物語の導入として、劇場の話がはじまる。導入部をしめくくる次のパラグラフには、演劇の好きな人なら、思わずうなずくことだろう。

 そして、舞台のうえで演じられる悲痛なできごとや、こっけいな事件に聞き入っている と、ふしぎなことに、ただの芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかと思えてくるのです。みんなは、 このもうひとつの現実に耳をかたむけることを、こよなく愛していました。(p.12)

   Und wenn sie den ergreifenden oder auch den komischen Begebenheiten lauschten, die auf der Buehne dargestellt wurden, dann war es ihnen, als ob jenes nur gespielte Leben auf geheimnisvolle Weise wirklicher waere, als ihr eigenes, alltaegliches. Und sie liebten es, auf diese andere Wirklichkeit hinzuhorchen.(原書ハードカバー版p.8)

この原文を英語に直訳すると、次のようになる。
   And when they listened to the gripping or comic incidents which were expressed on the stage, it seemed to them as if those lives which were only played on the stage were in a mysterious way more real than their own everyday lives. And they loved to listen in to this other reality.

 虚構のなかにこそ真実がある。舞台のみならず、小説や物語にも通じる真理だ。この部分の日本語訳にも、並々ならぬ心づかいが見て取れる。
 ergreifendは、動詞ergreifen「つかむ」から派生した形容詞で、「心を打つ、感動的な」という意味だ。これがなぜ「悲痛な」と訳され ているのか。それはおそらく、komisch(comic, funnyの意味)との対比を意識してのことだろう。悲劇と喜劇に分かれる古典演劇の伝統までも踏まえて、訳語を選んでいるにちがいない。さらに、原文で は二つの形容詞がBegebenheiten(incident)を修飾しているが、それを二つの名詞句に分けて「悲痛なできごとや、こっけいな事件」と 訳している。このさりげない構造の変換によって、日本語として自然な流れが生まれている。
 jenes nur gespielte Leben(逐語訳:those lives only played)は、直訳すれば「演じられているだけの人生」だが、日本の役者が好んで使う「芝居」という言葉があてられている。「ただの芝居にすぎない舞 台上の人生」とは、まるで名優の台詞のようではないか。sie liebten(they loved)は、この文脈で「愛する」と訳してはすわりが悪いし、「大好き」では軽々しい。「こよなく愛する」とすることで、文章にすんなり溶けこんでい る。
 実に洗練された日本語訳だが、そのよさは英語版と比較すれば、さらにはっきりする。

   Whenever they saw exciting or amusing incidents acted out on stage, they felt as if these makebelieve happenings were more real, in some mysterious way, than their own humdrum lives, and they loved to feast their eyes and ears on this kind of reality. (英語ペーパーバック版 J. Maxwell Brownjohn訳 Puffin Books p.12)

 exciting or amusingは誤訳とは言えないまでも、類義語を並べただけで、劇の一面しか伝えていない。makebelieveも「虚構」という意味では悪くないの だが、「偽り」という意味もあるので、嘘くささがつきまとう。
 sawとfeast their eyes and ears on は、原文からかなり飛躍している。lauschtenとhinzuhorchenは、どちらも「よく聞く」といった意味で、日本語訳の「聞き入る」「耳を かたむける」がぴったりだ。ここには、「心の耳で真実を聞きとる」というニュアンスがある。それがfeast their eyes and ears onでは、うわべだけで楽しんでいる印象になってしまう。日本語訳のほうが、はるかに原文の本質にせまっていると言えるだろう。

 物語の導入が終わると、それから「いく世紀もの時が流れ」た近代都市で、廃墟となった小さな円形劇場に、主人公の少女モモが登場する。浮浪児らしきモモ を気づかって、町の人びとがいろいろと尋ねる。

「モモという名前だって言ったね?」
「うん。」
「いい名前だね。だがそういう名前は聞いたことがないな。だれにつけてもらったのかい?」
「しぶんでつけたの。」
「じぶんで?」
「うん。」
「じゃ、生まれたのはいつ?」
 モモはしばらく考えてから、やっと返事をしました。
「わかんない。いくらまえのことを考えても、もうちゃんと生まれたあとのあたししか、思い出せないわ。」(p.16)

 どんなに文章が上手でも、会話の訳が不自然だと興ざめするものだが、この本にかぎっては、そんな心配はない。どの台詞も、それぞれの人物の性格を反映し ており、つくりこみすぎることもなく、ちょうどいい口調が用いられている。この場面でも、モモに目線を合わせてしゃべる親切な大人と、すなおに答えるモモ の姿が目に浮かぶようだ。
 最後のモモの台詞の原文は、とても訳しにくい。Soweit ich mich erinnern kann, war ich immer schon da.(英語直訳:As far as I can remember, I was always already there.)「おぼえているかぎりでは、わたしはずっとそこにいた」では意味をなさない。sein da(be there)は、「この世に存在していた」というニュアンス。これを小さな女の子がしゃべっておかしくない台詞に直すのは難しい。
 大島かおりは大胆に構文を変えて、「おぼえているかぎりでは」という堅苦しい表現を「いくらまえのことを考えても〜しか思い出せない」としている。I was already thereは「もうちゃんと生まれたあとのあたし」。できあがった訳文は、原文と表現のしかたこそ異なるが、表している内容は驚くほど正確に写しとってい る。
「わかんない」は原文にない言葉だ。原文では、Soweit…の文で、「(いつ生まれたのか)わからない」ということを遠まわしに答えているだけだ。必ず しも補う必要はないかもしれないが、まず相手の質問に「わかんない」と答え、その理由として「いくらまえのことを〜」と言わせているのはわかりやすいし、 好感が持てる。

 モモの率直な口調にはじまり、無口なおじいさんの素朴な口調、おしゃべりな若者の勢いづいた口調などが、生き生きと訳し出されていく。時間泥棒たちが大 会議でそれぞれの主張を訴える場面での、堅い演説調も面白い。

 「諸君、わが時間貯蓄銀行の繁栄は、われわれのすべてがひとしく心からねがうところ であります。しかしながら、今回のできごとで動揺したり、ましてこれが破滅につながるのではないかと心配したりなどすることは、わたしにはまったく不必要 なことと思われます。これはぜんぜんそのような事件ではありません。われわれすべてが知ってのとおり、わが時間金庫にはすでに厖大なたくわえがあり、今回 こうむった損失のなん倍もの時間が失われたとしても、けっして深刻な危機とはならないのであります。たかがひとりぶんの人生の時間なぞ、われわれにとって なにほどでありましょうか! まったく、とるに足りないではありませんか!(p.180)

 日本の国会演説を思わせる口調だ。しかも国会演説よりずっと明快でリズムがよい。「〜であります」「〜ではありませんか」といった語尾の工夫によって、 たたみかけるような調子が出ている。さらに、Meine Herren(英語直訳:My gentlemen)を「みなさん」ではなく「諸君」、unser(our)を「私たちの」「われわれの」ではなく「わが」と訳すことで、しかつめらしい 場の雰囲気を演出している。

 最後に、この物語でもっとも美しい、モモが時間のみなもとを見る場面から。

 この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近づいてきました。するとそこのくらい水面 から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくにつれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかり開いた花が水のおもてにう かびました。(p.215)
   Als das Sternenpendel sich nun langsam immer mehr dem Rande des Teiches naeherte, tauchte dort aus dem dunklen Wasser eine grosse Bluetenknospe auf. Je naeher das Pendel kam, desto weiter oeffnete sie sich, bis sie schliesslich voll erblueht auf dem Wasserspiegel lag.(p.161)
   As the star-pendulum now slowly approached the edge of the pond more and more, there rose up out of the dark water a large blossom bud. The nearer the pendulum came, the further it opened itself, until it finally lay on the surface in full bloom.(英語直訳)

 幻想的な場面にふさわしく、原文の詩的な文章が美しい日本語で再現されている。lag(lay)は意外と訳しにくい言葉だが、この文脈では「うかぶ」が いかにも合っている。auftauchen は「浮かび上がる」という意味だが、最後の「うかびました」との重複を避け、「すうっとのびて出てきました」と、視覚イメージをさらに鮮明にする表現をあ てている。「水面」の重複を避け、「水のおもて」とひらがなで表現する奥ゆかしさも実にいい。
 ちなみに英語版では、eine grosse Bluetenknospe(a large blossom bud)がan enormous waterlily budと訳されている。水から出てきたから睡蓮とは、短絡的な発想だ。おかげで読者の想像はひどく狭められてしまう。おまけにTeiche(pond)が lakeと訳されている。lakeのほうが語感が美しいと思ったのかもしれないが、そんな広い水面の中心に浮かぶ花では、遠くて見えにくい。そこでバラン スを取るためかgrosse(large)がenormousになっていて、どうも情緒に欠ける。
結局どんな言語に訳すのでも、読み手である訳者のセンスにかかっているのが、よくわかる。

 日本語の訳書だけを読んで名訳と思ったのは、間違いではなかった。『モモ』はエンデの豊かな世界と美しい日本語が同時に味わえる、ぜいたくな本なのだ。

(ドイツ語の表記は文字化けを防ぐため、ウムラウトをae, oe, ue、エスツェットをssで代用した。)

(2004年10月号)