名訳
津森優子

村上 春樹/小川高義訳 R・シャパード/J・トーマス編『Sudden Fiction 超短編小説70』

 『Sudden Fiction 超短編小説70』(文春文庫、1994)はアメリカ作家70人の作品が一編ずつ収められたショートショート集だ。生活の断片を切り取ったような作品もあれ ば寓話的な作品・冒険的な作品もあり、さまざまな作風が味わえる。さらにはショートショートというジャンルに対する作家たちの考えをまとめた覚え書も添え られていて興味深い。
 本書はご存じ村上春樹と、本誌でも『さゆり』の訳で取り上げられた小川高義が分担で訳している。全体的に日本語の短編集として楽しめる内容になっている が、中でも名訳の冴えが感じられる部分を紹介していこう。

まずは村上春樹訳「ジャズの王様」(ドナルド・バーセルミ作)。この作品は、ジャズの王様(ジャズ界一の名プレイヤー)になったトロンボーン奏者の愉快な 一日を、底抜けにゴキゲンな調子で描き出している。村上訳はそのゴキゲンさ加減を、あますところなく再現している。

 ホーキー・モーキーはトロンボーンをケースにしまって、演奏に出かけた。ステージで はみんながお辞儀をして、彼に道を開けた。
「ようバッキー、ようビート、ようフレディー、ようジョージ、ようサッド、ようロイ、ようデクスター、ようジョー、ようウィリー、ようグリーンズ」
「俺たち何を演奏すればいいかな、ホーキー? あんたがジャズの王様だから、あんたが曲を決めるんだよ」
「『スモーク』でどうだい?」
「わお!」とみんなが言った。「おい、聞いたかよ? ホーキー・モーキーはひと言口を開くだけで人をノックアウトすることができるんだぜ。なんてすげえイ ントネーションなんだ。ええい、まいったぜ」(p.40〜41)

Hokie Mokie put his trombone in its trombone case and went to a gig. At the gig everyone fell back before him, bowing.
“Hi, Bucky! Hi Zoot! Hi Freddie! Hi George! Hi Thad! Hi Roy! Hi Dexter! Hi Jo! Hi Willie! Hi Greens!”
“What we gonna play, Hokie? You the king of jazz now, you gotta decide.”
“How about ‘Smoke’?”
“Wow!” everybody said. “Did you hear that? Hokie Mokie can just knock a fella out, just the way he pronounces a word. What a intonation on that boy! God Almighty!”
(原書ペーパーバック版 p.10)

 常々日本語として自然な言いまわしを心がける翻訳者にはちょっと衝撃的な訳だが、この場面ではそれが見事にはまっている。まず“Hi”の連発は「よう」 「やあ」「おう」「元気か」などと訳し分けることを考えそうなものだが、単純に“Hi”を繰り返すだけで許されるホーキーの存在を際立たせるには、日本語 でも訳を統一してシンプルにいったほうが効果的だ。「やあ」で統一してしまったらダサイが、「よう」なら大人の男の気安さが伝わってくる。
 “Wow!”の「わお!」にはノックアウトされてしまった。「すげえ」などのほうが日本語としては自然に決まっているが、この登場人物は日本語をしゃ べっているわけではない。村上訳は英語でしゃべっているニュアンスを忠実に日本語で伝えているのだ。このようにアメリカ文化丸出しのテクストでは、こんな 訳し方も読んでいて楽しい。“God Almighty!”の「ええい、まいったぜ」も大げさな雰囲気がよく出ている。

 この作品には、ジャズファンによくいるタイプの、やたらと薀蓄を語る客が登場する。この客がわけのわからない比喩を駆使してホーキーの演奏を褒め上げ、 読者を笑わせてくれる。

「ああこれが世に名高いホーキーの『英国の日の出』風演奏だ。いろんな光線がそこから 射してくるんだよ。赤い光線とか、緑の光線とか、紫の中心から生じる緑とか、タン革色の中心から生じるオリーブ色とか……」(p.42)

   “Yes, that’s Hokie’s famous ‘English sunrise’ way of playing. Playing with lots of rays coming out of it, some red rays, some blue rays, some green rays, some green stemming form a violet center, some olive stemming from a tan center -- ” (p.11)

 some…some…の繰り返しには「〜とか、〜とか」がぴったりだ。村上春樹の訳を読む楽しみは、この心地よいリズムにある。音楽が主題の作品では、 その持ち味が存分に発揮されている。

 次は小川高義訳「ピグマリオン」(ジョン・アプダイク作)の冒頭部分を見てみよう。Memoirs of a Geishaを流暢な京言葉で訳してみせた小川高義は、簡潔な文体もうまい。

 最初の妻は、物真似のうまいところが楽しかった。自宅のパーティでも他所のでも、お 開きのあとには、さっきまで一緒だった顔や声色を、妻がありありと甦らせてくれた。かわいい口元を小刻みにねじ曲げると、もう姿を消した知り合いが、また 姿を現わしたようで、一瞬、はっと惑わされた。「うーんと、もし、ほんとに――グウェンて、どんなしゃべり方だっけ?――もし、ほーんとに自然ほごが大事 ならぁ……」と聞かされたら、夫たるもの、そのグウェンを密かに愛人としていて、いずれグウェンが次の妻になるのだとしても、おおいに笑えるのだった。 (p.91)

   What he liked about his first wife was her gift of mimicry;after a party, theirs or another couple’s, she would vivify for him what they had seen, the faces, the voices, twisting her pretty mouth into small contortions that brought back, for a dazzling instant, the presence of an absent acquaintance. “Well, if I reawy – how does Gwen talk? if I re-awwy cared about conserwation -- ” And he, the husband, would laugh and laugh, even though Gwen was secretly his mistress and would become his second wife. (p.33)

 for a dazzling instantは訳しにくいフレーズだが、「一瞬、はっと惑わされた」はそのニュアンスをよく伝えている。原文の構造にこだわらず述部に持ってくること で、日本語として自然に流れる文章になっている。
 妻がグウェンのしゃべり方を真似るところでは、reawy (really)やconserwation (conservation)から、舌足らずな口調がうかがえる。小川訳ではひらがなを上手に使って、その雰囲気を適確に表現している。
 注目すべきは、heがまったく訳されず、モノローグ風に綴られていることだ。これは翻訳上の一種の仕掛けで、2ページ目の終わりに「ピグマリオン」とい う主人公の名前が出てくるまで、「彼」は一度も使われていない。こんな仕掛けをつくってみるのも、翻訳の楽しみではないだろうか。それにしても、代名詞な しでうまく処理している。he, the husbandを「夫である彼/自分」ではなく「夫たるもの」とは、なかなか訳せないものだ。

 丸谷才一も指摘しているように、あまり人称代名詞を多用すると日本語として不自然になりやすい。だが村上春樹の訳では(訳だけでなく自作の小説でも)、 「彼」「彼女」が多用されている。それでもあまり気にならないのは、リズムがよく、論理的で明快な文章になっているからだろう。それに、人称代名詞を直訳 してばかりいるわけではない。「鶉」(ロルフ・イングヴィ作)を例に見ていこう。

 彼らが結婚した最初の年の春だった。まばゆい緑の中にライラックの花が開くほんの少 し前に、鶉[うずら]がやってきた。その年の最初のあたたかな朝だった。霜も降りず、朝露が目につくだけだった。ベッドの上で太陽の光を感じて、彼女はい つもより早く起きた。そして裏庭に鶉の姿を見かけると、夫を起こした。見ると、八羽の鳥が家主の庭で地面をひっかいてはくちばしでつついていた。
 あれはカリフォルニア・ウズラだよ、と夫は妻に教えた。雌鳥は威厳のある貴婦人のように見えた。ぽちゃっとして、非の打ちどころなくみごとに茶色と灰色 を着こなしていた。彼女たちは三羽のでっぷりとした雄にエスコートされていた。彼らは胸に灰色のヴェストを着こみ、喉には黒い羽毛のアスコット・タイをあ しらっていた。それぞれの鳥の額からは黒く長い羽がぴょんと跳ねるように飛び出していた。(p.455)

  The quail came just before the lilacs bloomed in the green time of their first spring married. The morning was the first warm morning with no frost, only dew. Feeling sun on the bed she rose earlier than usual; when she saw the quail in the back yard she woke him. He saw eight birds scratching earth and pecking in the landlord’s garden.
   He told her they were California Quail. The hens were like dowager women, plump and impeccably arrayed in brown and gray. They were escorted by three portly males with gray-vested chests and an ascot of black plumage at their throats. Each bird had one black plume feather bobbing on the forehead. (p.209)

 「彼ら」「彼女」と始まっているが、she woke himは「夫を起こした」となり、He sawは「見ると」となり、主語が省かれている。he told herのheとherは「夫」と「妻」に置き換えられている。ここで「彼」「彼女」を連発すると、鶉を「彼女たち」「彼ら」と訳したときに、読者が混乱し かねない。鶉を「雌鳥たちは」「雄鶏たちは」と訳す手もあるが、擬人法のおかげで鶉を「彼女たち」「彼ら」と呼んでも違和感がないのが面白いところだ。
 英語ではher husband, his wifeと書いたら長たらしくなるのでhe, sheですませてあるが、日本語では「彼」「彼女」「妻」「夫」の字数はほぼ同じで、リズムを損なわない。村上はそのあたりの感覚を心得ている。

 このような名訳がずっと続けば言うことなしなのだが、残念ながらところどころに、読んでいて戸惑ってしまうような訳も見られる。そうした訳を詳しく見て いくと、原文がすっかり頭に入った翻訳者なら誰しも陥りかねない問題に気づく。

まず村上訳「生活の中の力学」(レイモンド・カーヴァー作)の最後の部分。別れる男女が赤ん坊を奪い合っている場面だ。女の抱いている赤ん坊を男が力ずく で奪った後で、次の一節が続く。

 この子は放すもんか、と彼女は思った。彼女は赤ん坊の一方の手を掴んだ。彼女は赤ん 坊の手首を握ってうしろに身を反らせた。
でも彼は赤ん坊を放そうとはしなかった。彼は赤ん坊が自分の手からするりと抜け出ていくのを感じて、力まかせに引っ張り返した。
このようにして、問題は解決された。(p.164)

 「彼女は赤ん坊の手首を握ってうしろに身を反らせた」は「赤ん坊の身を反らせた」と読める。彼女が赤ん坊の手を握って身を反らせ、彼が力まかせに引っ張 り返す。その結果は、両者の一歩も譲らぬ引っ張り合いなのか、彼の勝利なのか、この訳でははっきりしない。
 だが原文を見るとShe caught the baby around the wrist and leaned back. (p.69)とある。彼女がlean backしたのだ。lean backは足を踏ん張って体重を後ろにかける、綱引きのような姿勢。これで強烈な引っ張り合いであることは、原文読者には一目でわかる。だから最後の行が 生きてくる。
「彼女は赤ん坊の手首を握り、うしろに身を反らした」とすれば、赤ん坊の身を反らせたのでは、という誤解は避けられる。だが「身を反らす」のは背中をうし ろに湾曲させる感じで、lean backの語感とずれる。訳しにくいところだが、「体重をかけて思いきり引っ張った」くらいが妥当だろう。

 次は、小川訳の「ごく短い話」(アーネスト・ヘミングウェイ作)から。ここに出てくる「彼」はアメリカに戻って仕事を見つけ、恋人の「ルーズ」をイタリ アから呼び寄せて結婚する予定でいる。

 彼はジェノヴァから船でアメリカへ行った。ルーズは病院を新設するポルデノーネへ引 き上げた。さびしい雨がちな町で、精鋭の一個大隊が駐屯していた。ぬかるんだ雨の町で冬を過ごすうちに、大隊の少佐がルーズに言いよった。彼女には初めて のイタリア人だった。そのうち彼女は、あれは恋愛ごっこだったとアメリカへ手紙を書いた。申し訳ないし、わかってもらえないかもしれないが、いつかは許す 気になって、むしろ恩にきたくなるだろう。思ってもみなかったが、春には結婚しそうだ。好きなことは好きだけれど、やっぱり恋愛ごっこだったと思う。立派 になってほしい。そうなる人だと信じてる。これがいちばんいいことだ。(p.290〜291)

 人称代名詞が省略されすぎて、人間関係がよくわからなくなくなっている。「あれは恋愛ごっこだった」のはイタリア人の少佐とのことなのか、アメリカにい る彼とのことなのか。原文を見てみよう。

…the major of the battalion made love to Luz, and she had never known Italians before, and finally wrote to the States that theirs had been only a boy and girl affair. She was sorry, and she knew he would probably not be able to understand, but might someday forgive her, and be grateful to her, and she expected, absolutely unexpectedly, to be married in the spring. She loved him as always, but she realized now it was only a boy and girl love. She hoped he would have a great career and believed in him absolutely. She knew it was for the best. (p.127)

 wrote to the Statesの直後に過去完了形でthat theirs had been only a boy and girl affairとあることから、アメリカにいる「彼」(いまやかつての恋人)とのことを言っているのだとわかる。だが、訳文では「初めてのイタリア人だっ た」の後で「あれは恋愛ごっこだった」とあるので、イタリア人とのことを言っているのかと思ってしまう。その後の手紙の内容も代名詞が徹底的に省略されて いるので、どちらの相手のことを言っているのかはっきりしない。
 ここはやはり、ある程度代名詞を入れたほうが親切だ。少し足せば、状況がずっと飲みこみやすくなる。「あれは恋愛ごっこだった」は「あなたとは恋愛ごっ こにすぎなかった」、「好きなことは好きだけれど」は「あなたのことは変わらず好きだけれど」、「立派になってほしい」は「あなたには立派になってほし い」としてはどうか。
 最後の「これがいちばんいいことだ」は、「立派になる人だと信じてる」ことが「いちばんいいことだ」と読めてしまうが、She knew it was for the best.のitは「アメリカ人の彼と別れてイタリア人の少佐と結婚すること」を指す。これを誤解のないように訳すなら「こうするのがいちばんなのよ」、 もう少し踏み込んで訳すなら「おたがい、このほうがいいのよ」といったところだ。

 こういう箇所を見ると痛感する。翻訳者は原文から頭を切り離し、訳文だけを読む読者の視点に立って、誤解を与えないかどうかチェックしなければならない と。時には村上・小川のような名訳者でも陥る問題なのだから、よほど気をつけないといけない。

翻訳通信2005年2月号