書評
山岡洋一

永遠の良書
― J.S.ミル著村井章子訳『ミル自伝』(みすず書房)

 
 たぶん、ある年齢以上の人にとって、『ミル自伝』といえば、高校生か大学生のときに当然読んでおくべき本のひとつだったはずだ。たいていは岩波文庫で読 んでいると思う。岩波文庫で発行された2種類の翻訳のうち、昭和初めの1928年に発行された西本正美訳で読んだのであれば幸いだが、1960年に発行さ れた朱牟田夏雄訳で読んでいれば、かなり苦労したのではないだろうか。

 朱牟田夏雄といえば、東京大学文学部英文科の主任教授だった英文学者だ。この種の翻訳では最高権威といってもいい学者なのだが、少なくともこの本に関す るかぎり、権威にふさわしい実力を発揮していなかったのではないかと思える。その点については、「翻訳通信」の2006年5月号(第2期48号)から同9 月号(第2期52号)にかけて、「ミル自伝を訳す」と題した連載である程度指摘したので、今回は繰り返さない。

 また、以下の「古典翻訳塾の報告」に記すように、今回の村井章子訳はこの「翻訳通信」から生まれたという事情があるので、翻訳の質を批評するのも若干気 が引ける。そこで、以下では『ミル自伝』という本について、いくつかの点を書いていきたい。

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 19世紀のイギリスを代表する思想家というと、真っ先にあげられるのがおそらく、ジョン・スチュアート・ミルだろう。ミルに対抗できる人がいるとすれ ば、チャールズ・ダーウィンらごく少数しか思い浮かばない。それほどの思想家だし、哲学の『論理学体系』や『功利主義論』、経済学の『経済学原理』、政治 学の『自由論』や『代議政治論』など、幅広い分野で優れた著作を残しているのだが、それにしては、少なくとも現在の日本で、それほど人気があるわけではな いように思える。

 なぜなのかを考えるとき、翻訳という立場でまず思い浮かぶのが、ミルが代表しているとされる思想につけられた訳語だ。ミルは、「イギリス経験論」を代表 する「功利主義」の思想家だとされている。「経験論」はempiricismの訳語、「功利主義」はutilitarianismの訳語だが、どちらも原 語ではともかく、日本語で読むと、何とも冴えない印象を受ける。「経験」とはそもそも狭くて、底が浅く、普遍性をもたないものだし、「功利」にいたっては 打算を連想させる非難の言葉ではないか。「経験」や「功利」に魅力を感じる人がいれば、よほど言語感覚が鈍いに違いない。

 いまとなっては、「経験論」「功利主義」という訳語を変えるのは極端に難しくなっているが、少なくとも、この訳語から連想されるものとはまったく違った 考え方であることは認識しておくべきだと思う。そして、経験論も功利主義もはるか昔の変わった理論などではなく、いまでは意識もされないほどの常識になっ ていることを認識しておくべきだと思う。

 たとえばいま、J.S.ミルの『経済学原理』を読みたいという人はそう多くないだろうが(「定常状態」、つまり経済の成長と人口の増加が止まったときに 社会がどうなるかを扱った第4編第6章のためだけでも全体を読む価値はあると思うが)、この本はスミスとリカードを受け継いで、19世紀後半に主流のなか の主流になっていた。経験論と功利主義に基づくミルの経済理論を継承して、20世紀初めの主流になったのがマーシャルの経済学だ。マーシャルの弟子のひと りがケインズであり、ミルとマーシャルの経済理論を批判的に継承して、新たな経済理論を築きあげた。ケインズ経済学を批判したシカゴ学派も、ミルとマー シャルの理論を継承している。したがっていまでは、経験論と功利主義に基づくミルの経済学を肯定的にしろ批判的にしろ継承していない経済理論はそれほど多 くないといえるほどである。どのような思想にも影響されることなく、現実の経済問題に取り組んでいると自負する実務家も、150年近く前に死んだミルの影 響を受けているといえるはずだ。優れた思想の力は、それほど強いのである。

 経済学だけではない。政治学や倫理学でも、ミルの功利主義の理論は影響力をもちつづけている。たとえば、現代のアメリカで強い影響力をもつ自由意思論 (リバタリアニズム)はミルの『自由論』を源流のひとつとしているし、現代の倫理学の古典といえるロールズの『正義論』は功利主義批判を出発点としてい る。19世紀イギリスで、ここまでの影響力をもっている思想家は、それほどいないはずである。

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 そのミルが残した自伝だから、本書が長く読みつがれてきたのは不思議でも何でもない。

『ミル自伝』でとくに有名な部分はおそらく、第1章の早期教育の部分だろう。ミルは功利主義思想家として有名なジェームズ・ミルの長男として、1806年 に生まれた。父親は自らの思想に基づいて理想的な教育を施そうとしたという。

 なにしろ、3歳になるとすぐにギリシャ語を学びはじめ、7歳のときにはプラトンの『対話編』を読み、英語で書かれた歴史書も次々に読んだというのだ。8 歳になるとラテン語を学び、12歳からはアリストテレスの『オルガノン』をはじめとする論理学を学んだ。さらに父親に経済学の手ほどきを受けた後、リカー ドの『経済学と課税の原理』、アダム・スミスの『国富論』を読んでいる。そのうえ、父親の親友だったリカードの自宅に招かれ、散歩しながらたくさんのこと を教えてもらったというのだから、何とも贅沢だ。

 この早期教育の話だけでも、『ミル自伝』は読む価値があるが、それだけではない。訳書で300ページ足らずのなかに、読みごたえのある話がいくつもつ まっている。

 まず驚くのは、父親のジェームズ・ミルという人物だ。いまではたぶん、J.S.ミルの父親、ベンサムの盟友という点以外で話題になることはあまりないだ ろうし、著書が話題になることもまずない。だが、『ミル自伝』を読むと、とてつもない人物であったことが分かる。ベンサムの思想を認め、イギリス国内で広 めたのはジェームズ・ミルだし、リカードに『経済学と課税の原理』を書くように説得したのも、ジェームズ・ミルだ。『ミル自伝』の記述には身びいきという 面があるという見方もあったが、たとえばリカードに関しては後に2人の間で交わされた書簡が発見され、リカード全集に収められている(リバティ・ファンド のサイトで全文が読める)。それを読むと、リカードが実はジェームズ・ミルの弟子のような関係にあったことが分かる。ジェームズ・ミルがリカードに与えた 影響はかなり大きかったはずだと思える。

 要するに、ジェームズ・ミルは19世紀初めから半ばにかけてのイギリスの巨人、3人の神輿をかついだ人物だったようなのだ。神輿に乗ったのは、まずはベ ンサムであり、つぎにリカードであり、もうひとりはいうまでもなく、長男のJ.S.ミルだ。この3人がいまでも名前を知られているのはかなりの部分、 ジェームズ・ミルのお陰だといってもいい。神輿に乗った人ももちろん、偉かったのだが、この3人の神輿をかついだジェームズ・ミルはとてつもない人物だっ たようなのだ。『ミル自伝』を読むと、ジェームズ・ミルがどのような人物だったか、その一端がみえてくる。

 このような父親に幼少のころから一対一で教育を受けたJ.S.ミルが、青春期に父親をどうみるようになったのかは興味深い点だろう。『ミル自伝』の第5 章「精神の一大危機」はまさに、父親の教えとの葛藤の物語だ。誰でも経過する反抗期の記録なのだが、反抗する相手が相手だけに、苦しい戦いになったよう だ。この危機を経て、J.S.ミルは自立した思想家に育っていくわけで、父親は意外に温かい目で息子の苦闘を見守っていたのではないだろうか。この部分は 『ミル自伝』のハイライトのひとつであり、青春の記録として興味深い。

 青春といえば、恋愛がつきものだが、『ミル自伝』にはメロドラマの原作になりそうな物語がある。25歳のときに友人の家に招かれ、その人の妻で23歳の ハリエット・テイラーに出会う。その後、2人は長く苦しい恋を続けることになる。社会道徳上、許されない関係だったので、ミルは家族からも友人からも孤立 したという。20年近くたって、ハリエットの夫が死亡し、その2年ほど後に2人は結婚する。だが、結婚生活は長くは続かず、妻は旅行先のフランスで急死す る。

 この『ミル自伝』は最愛の妻の記録を残したいという動機もあって書かれたようだ。知り合った後にミルが書いた著作はどれも、2人の協力の成果であり、妻 から教えられた部分が多いとミルはいう。あまりに手放しの賛辞に鼻白むとする見方が一般的だったが、その後にミルとハリエットの往復書簡が発見され(残念 ながら読んでいないが)、『ミル自伝』の記述が意外にもかなり正確であることが明らかになったという。

 本書に一貫しているのは、私利私欲を離れて公共の利益を追求する精神である。功利主義といえば誰でも思い浮かぶのは、「最大多数の最大幸福」という言葉 だ。「自分自身の最大幸福」ではない。「最大多数の最大幸福」なのだ。この点を少し考えてみるだけで、功利主義者のミルが個人の利益ではなく、公共の利益 を追求していたことが分かるはずだ。万人の幸福を何よりも重視する精神、そうした精神が失われてきた現在、『ミル自伝』はとくに若者に読まれるべき本だと 思う。

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 最後に、本書を手に取ったとき、凛とした美しさがとても印象的であることを是非とも指摘しておきたい。一切の無駄を省いた美しい本なのだ。表紙も美しい が、中も美しい。行間と字間、空白、フォントなどが見事だ。それに、解説がなく、訳者後書きもなく、凡例や年表といったあらずもがなもない。ミルが書いた 本文を、本文だけを、この訳で読んでほしいという訳者と編集者の自信があらわれている。

 出版物は美しくなければならない。美術本はもちろんだが、この『ミル自伝』のように文章だけの本であってもそういえる。美しくなければ、読んでみようと いう意欲が続かない。美しくなければ、愛読書にはならない。そして美しくなければ、電子媒体など、他のメディアとの競争に勝てるはずがない。

 そしてもちろん、中身が大切だ。安直に作られた本ばかりがもてはやされ、著者や編集者には品格も矜持も邪魔なのかとすら思える昨今、ほんとうの意味で書 かれた本は貴重だと思う。

 J.S.ミルが自伝を書いていたころ、同じイギリスの思想家、ジョン・ラスキンが「ごま−王侯の宝庫について」と題する講演を行い、書物という隠れた宝 庫を探究するよう勧めている(中央公論社『世界の名著41』の木村正身訳「ごまとゆり」に収録されている)。ラスキンによれば、書物には一時の書物と永遠 の書物がある。一時の書物とは、愉快な談話、有益な談話を印刷し、一度に何千人もの人に話しかけられるように、著者の声を増幅したものにすぎない。だが、 書物とは本来、こういうものではない。生涯をかけて見つけ出した真実の知識を永久に書き残すために、可能なら岩に刻んで残しておくために書かれたものだ。 そうラスキンは語っている。

 声をそのまま記録し増幅する方法がいくらでもある現在、一時の書物に貴重な時間を使う必要があるのだろうか。読むのであれば、永遠の書物、とくに永遠の 良書にしたい。『ミル自伝』はそういう本のひとつだと思う。

『ミル自伝』の詳しい情報は以下を参照ください。

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(2008年2月号)