翻訳批評
山岡洋一

翻訳は進歩しているのか
岩波文庫の4種類の『国富論』が物語るもの


 


  読者にとって、既訳がある本の新訳がでれば、少なくとも既訳より良くなっているはずだと期待するのが当然である。まして、出版社が既訳を絶版にして新訳を刊行したのであれば。

 翻訳者にとっては、既訳がある本を翻訳しなおす場合、既訳を調べるのが当然の義務である。既訳より良いものにしなければ読者の期待を裏切ることになるし、そもそも翻訳を行う意味がない。

 アダム・スミスの『国富論』を翻訳する作業をいま進めている。この本では明治以降、少なくとも9種類の翻訳が出版されているので、いってみれば身のほど知らずの暴挙なのだが、小人といえども巨人の肩の上に乗れば、遠くが見える可能性もある。既訳からしっかり学べば、21世紀に相応しい新しい訳ができる可能性がある。そういうわけで、既訳を集め、それぞれの良さがどこにあり、どこを学べばいいのかを考える作業を続けている。

 手元に8種類の既訳がある。明治16〜21年(1883〜88年)に刊行された石川暎作訳は入手できていないが、それ以外の主要な訳が揃っている。そのなかで目立つのは、岩波文庫で以下の4種類の訳が出版されていることだ。

(1) 氣賀勘重訳『國富論(上)』(1927年)
(2) 大内兵衞訳『國富論』(1940〜44年)
(3) 大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』(1959〜66年)
(4) 水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論』(2000〜01年)

 これらの訳はいずれも、それぞれの時代を代表する経済学者が訳したものであり、それぞれに学ぶべき点がたくさんある。だが、個々の語、個々のセンテンス、個々のパラグラフをどう訳すべきかといった具体的な点以外に、大正・昭和の初めから21世紀初めにかけての翻訳の歴史を知るうえでも、この4種類の翻訳は貴重な資料になるように思える。そこで、翻訳の質、スタイル、パラダイムの変遷という観点から、この4種類の翻訳を比較していくことにした。

文体の違い
 まず目につくのは、翻訳に使われている日本語の文体が大きく違っていることだ。

 もっとも古い氣賀訳は、1926年(昭和2年)に発行されており、大河内一男「『国富論』邦訳小史」(大河内一男監訳『国富論III』中公文庫に収録)によれば、前年の大正15年に出版された本を文庫化したものである(第2編までの上巻のみが刊行され、残りは刊行されていない)。以下の引用をみれば明らかなように、旧字旧仮名を使い、文語体、それも漢文読み下しの文体で訳されている。漢文読み下しの文体はいわゆる翻訳調の基礎になっているが、氣賀勘重の訳文は意外なほど翻訳臭が少ない。英語で書かれた原文の意味を、文語体という日本語で読者に伝えようとしたものだといえる。

 大内兵衞訳は、1940〜44年というから、ちょうど第2次世界大戦の時期に刊行されたことになる。当然ながら旧字旧仮名が使われているが、文体は氣賀訳のものより新しい。明治以降に確立した新しい文章体、いわゆる言文一致体で訳されている。氣賀訳と同様に、翻訳臭は少ない。英語で書かれた原文の意味を、言文一致体という日本語で読者に伝えようとしたものだと思える。

 大内・松川訳は1959〜66年というから、ほぼ高度経済成長期に刊行されたものである。戦後のいわゆる国語改革の後に出版されているので、当然ながら新字新仮名が使われている。大内が共訳者のひとりということになっているので、大内兵衞訳を基礎にした改訳のはずだと思えるかもしれないが、「訳者はしがき」によれば、松川七郎の単独訳と考えるのが正しいようだ。文体という点では、言文一致体よりもいわゆる翻訳調に近い。

 最後の水田・杉山訳は2000〜01年に刊行されているし、2002年には第1巻の改訂版(2刷とされている)も出されているので、21世紀の訳だといえるだろう。だが、以下の引用をみればすぐに気づくように、文体は意外に古い。いわゆる翻訳調、つまり英文和訳で教えられる文体にきわめて近い。訳文は1965年に出版された水田洋訳(河出書房)に近く、小幅改訂版ともいえるほどである。

正確さ
 翻訳の質という点で通常、もっとも注目されるのは誤訳の多寡であろう。誤訳が少ないほど質の高い訳だと考えられている。そして、既訳よりも新訳の方が誤訳が少なくなっているはずなので、新訳の方が良いはずだとみられている。新訳の訳者が既訳から学び、既訳に対するさまざまな批判や誤訳の指摘を学んでいれば、新しい訳ほど誤訳は少なくなっているはずである。

 だが、世の中はそう簡単ではない。翻訳にあたって想定する読者が違っていれば、何を誤訳だと考えるかの基準が違ってくる。翻訳の目的が違っていれば、やはり何を誤訳だと考えるかの基準が違ってくる。だから、翻訳者の立場からは誤訳が大幅に減ったはずであっても、翻訳者にとって想定外の読者層、想定外の目的で読む読者にとっては、誤訳が多い(あるいは翻訳の質が低い)と感じられる場合もある。

 つまり、誤訳の多寡にしろ、翻訳の質にしろ、簡単に判断できるものではないのだ。判断にあたって使う基準が違えば、意見が正反対になることもある。このため、訳文の正確さを考える際には、どういう読者を想定し、どういう目的を想定し、どういう基準を使ったときの正確さなのかを明確にしておくべきである。

 4種類の翻訳のうち、氣賀訳には「序」で翻訳の目的が明示されている。訳書5ページから引用する。

 
 然れば斯る名著の飜譯を試みんとするに當り、吾人は一意正確に原文の意味を傳ふるに專念したること勿論なれども、併し原文に忠ならんとするの餘り、動〃もすれば迂曲難解の辭句に陷らんとする譯文の通弊は可及的之を囘避するに苦心し、可及的平易通俗の語句を用ゆるに努めたり。其結果、同一の原語も前後の關係上二樣又は三樣に譯せし場合少なからず、又原文の二三文章を合して一文と爲し、若しくは其一文を二三の文章に區劃せしことも少なからず。畢竟原文の意義を可及的明瞭に邦人に傳へんとする微衷に外ならざるなり。
 
 氣賀勘重のこの姿勢は、拙著『翻訳とは何か--職業としての翻訳』で指摘した長谷川宏や森鴎外の姿勢にきわめて近い。「原語と訳語の一対一対応は求めない」とした長谷川宏と同様に、「同一の原語も前後の關係上二樣又は三樣に譯」したというのだ。氣賀訳の目標は「一意正確に原文の意味を傳ふる」ことにあり、したがって、氣賀訳の評価にあたっては、「原文の意味」をどこまで正確に伝えているかが基準にならなければならない。

 他の3種類の訳では、翻訳の目的が明示されていない。だが、訳文を読むと、少なくとも水田・杉山訳の場合には目的がかなりはっきりしているように思える。水田・杉山訳では「原文の意味」を正確に伝えることは目的になっていない。いうならば、「原文の表面」を伝えることを目標にしている。

「原文の表面」を伝えることが翻訳の目的だというと、不思議に思えるかもしれない。だが、経済学や哲学の古典の翻訳では、これが目的になることが少なくない。『翻訳とは何か--職業としての翻訳』で長谷川宏訳『精神現象学』の対極にあるものとしてとりあげた金子武蔵訳『精神の現象学』がまさにそうだった。

 また、『国富論』のある翻訳について、capitalとstockをどちらも「資本」と訳されたのでは原文にどう書いてあったのかが分からないではないかと非難した人がいる。これと同様の非難は長谷川宏のヘーゲル訳にもだされている。たとえばSubstanzは「実体」と訳してくれないと、Substanzの意味が分からないではないかという。

 こういう非難を聞くたびに、そう非難するのなら、なぜ原文で読まないのかと不思議に思う。翻訳は、「原文の意義を可及的明瞭に邦人に傳へんとする」ものである。「正確に原文の意味を傳ふる」ことが目的である。原文にどういう語が使われていたのかを知りたい人は原文を読めばいい。翻訳は原文が伝える「意味」を日本語で学びたい人のためにあるのであって、原文がどうであったかを示すためにあるのではない。これが少なくとも、氣賀勘重の立場である。

 だが、これはひとつの立場であって、翻訳がこれとは違う立場から行われることもある。そのひとつの典型が水田・杉山訳であり、その特徴は「原文の表面」を伝えることを目標にしている点にあると考えるのだ。

 水田・杉山訳は、訳書だけで『国富論』を読もうとする読者を対象にしていない。「原書」を読む読者に、参考として、要するにアンチョコとして使われることを想定して訳されている。したがって、水田・杉山訳の評価にあたっては、「原文の表面」をどこまで正確に伝えているかが基準になるだろう。

 大内訳と大内・松川訳は、この両極の中間にあると思える。そして、大内訳は氣賀訳にかなり近く、大内・松川訳は水田・杉山訳にかなり近い。

 このように異なる評価基準に基づいて4種類の翻訳の正確さを考えていくと、甲乙つけがたいという結論に達する。つまり、「原文の意味」をどこまで正確に伝えているかを基準にすれば、氣賀訳が圧倒的に優れており、「原文の表面」をどこまで正確に伝えているかを基準にすれば、水田・杉山訳が優れている。大内訳と大内・松川訳は、どちらの基準でも少しおちるようだが、2つの基準での評価を合計すれば、やはり圧倒的に優れている。

分かりやすさと読みやすさ
 翻訳の質を考えるとき、「分かりやすさ」「読みやすさ」が重視されることもある。この場合にも、「正確さ」と同様に、どのような基準で考えるかによって判断が違ってくる。

 使われている言葉や表現、そしてとくに漢字という点では、氣賀訳の難しさが際立っている。ルビを付けてほしい漢字がたくさん使われているし、たとえルビがあっても、意味の分かりにくい語がたくさんある。「可及的平易通俗の語句を用ゆるに努めたり」という言葉が冗談だと思えるほどだ。

 同じく旧字旧仮名でも、大内訳は圧倒的に読みやすい。現代の文章体の基本になっているいわゆる言文一致体が使われているからだ。ときどき読めない漢字にぶつかるが、それでも読書に差し支えるほどではない。

 大内・松川訳と水田・杉山訳になると、使われている言葉や表現、そしてとくに漢字という点では、新聞記事と同等か、それより平易だと思えるほどである。

 だが、視点を少し変えて、たとえば訳文の段落ごと、センテンスごとに、書かれていることの意味を理解しやすいかどうかという基準でみると、評価はがらりと変わる。言葉や漢字の難しさに慣れてしまえば、氣賀訳が圧倒的に分かりやすく読みやすいように思える。つぎに分かりやすく読みやすいのが大内訳であり、大内・松川訳はかなり読みにくく、水田・杉山訳はもう絶望的なほど分かりにくく読みにくいと感じる。

 しかし、視点をもう少し変えて、原文と突き合わせて読むと想定した場合の理解しやすさを考えると、水田・杉山訳がいちばん良いという判断も成り立つ。ただし、原文の意味がよく分からないときには、氣賀訳や大内訳の方が役に立つかもしれない。

「分かりやすさ」「読みやすさ」という観点でみて、ある意味で氣賀訳がもっとも優れているのは意外だともいえる。だが、聖書でも同じように感じることがある。一見難しい言葉や漢字が多用されている文語訳のほうが、一見やさしそうな新共同訳よりも意味を理解しやすい場合が少なくない。だから、翻訳で聖書からの引用があると、文語訳を使いたくなる。文語体はおそらく、きわめて論理的だし、表現力が豊富なのだろう。いわゆる言文一致体にはそこまでの論理性と表現力がなく、翻訳調は論理性と表現力の点で劣っている。

翻訳は進歩しているのか
 以上のように、同じ岩波文庫で刊行された4種類の『国富論』の翻訳を比較していくと、翻訳ははたして進歩しているのかと疑問をもたざるをえなくなる。もちろん、観点を変えれば新しいものほど質が高いといえるのだが、ある意味では、昭和初めに刊行された氣賀訳がもっとも優れていて、時代をおうごとに翻訳の質が下がってきたともいえるからだ。

 氣賀訳は古くて新しい翻訳、水田・杉山訳は新しくて古い翻訳だ。原文の意味を伝えるより原文の表面を伝えようとする翻訳、訳書だけを読む読者を想定せず、原著を読む際の参考として訳書を求める読者を想定した翻訳というのは、もう時代後れだともいえるからだ。たとえば数十年前には大量に出版され、読まれていた対訳本は、いまではまったく流行らないのではないだろうか。要するに、水田・杉山訳で想定されている読者は、数十年前ならともかく、いまではほとんどいないのではないかと思えるのだ。

 読者はおそらく、訳書か原著か、どちらかしか読まない。訳書を脇において原著を読む読者がはたしているのだろうか。そう考えると岩波文庫がなぜ、ある意味ではるかに優れた大内・松川訳を絶版にして、水田・杉山訳を刊行したのか、不思議に思えてくる。いやそれ以前に、なぜ大内訳を絶版にして大内・松川訳を刊行したのかが不思議だ。氣賀訳はある意味で圧倒的に優れているが、旧字旧仮名はともかく、文語体の訳を読む読者がいまそうたくさんいるとは思えない。しかも上巻だけで下巻がない。だからおそらく、大内訳を新字新仮名にしてだすのが、岩波にとってもっとも真っ当な方法のように思える。

 翻訳者の立場からは、現代の文章体を使って氣賀訳を継承するのが、もっとも真っ当な方法のように思える。
 

付録

4種類の訳の比較

 以下では、岩波文庫の4種類の翻訳を比較して、具体的にどのような違いがあるのかをみていく。第1編のなかから、翻訳の質、スタイル、パラダイムの違いを示すと思える部分をいくつか選んで、訳文を新しいものから順にあげ、最後に原文を示す。

『国富論』は経済の専門家に向けて書かれた本ではないので、原文は平易で分かりやすいが、それでも一部分だけを読むのはそう簡単ではない。そこで、とくに注目したい部分に下線を引く方法をとった。下線部分だけをみていただければ、論旨は理解できるはずである。

例 1    代名詞
  代名詞をどのように訳しているかをみれば、翻訳のスタイルがかなりよく分かる。少々長くなるが、第1編第10章第1節から引用しよう。
 

(1-1) 水田・杉山訳第1巻178〜179ページ
 未開状態の社会における人類の、もっとも重要な職業である狩猟と漁撈は、前進した状態の社会では、人類のもっとも快適な娯楽となり、彼らは、かつては必要によって従事したことを、いまは快適のためにやっている。したがって社会の進歩した状態では、他の人びとが気晴らしにやっていることに従事しているのは、みなきわめて貧しい人びとである。……そうした職業にたいする自然の嗜好は、それによって快適に生活できるよりも多くの人びとをそれに従事させることになり、その人たちの労働の生産物は、つねにその量の割にはあまりにも安く市場に出まわることになり、その労働者にたいしてもっとも乏しい生計しか提供しない。

(1-2) 大内・松川訳、岩波文庫(1) 293〜294ページ
 狩猟や漁撈は、未開状態の社会では人類のもっとも重要な職業であったが、進歩した社会では人々のもっとも快適な娯楽になり、人々はかつては必要に迫られてしていたことを、いまでは快楽を求めてするようになる。それゆえ、社会の進歩した状態では、他の人々がなぐさみを求めてしていることを一個の職業にしている者は、みなひどい貧乏人だということになるのである。……こういう職業に趣味をもつのは自然であるから、それに従事する人があまりにも多くなり、この職業では安楽に生活できないということになるのであって、そういう人々の労働の生産物は、つねにその量の割合にはあまりにも安価に市場にもたらされるから、その労働者たちには、もっとも乏しい生活資料のほかなにものをもあたえることができない、ということになるのである。

(1-3) 大内兵衞訳、岩波文庫(1) 198〜199ページ
 社會が野蠻の状態にあったとき、人類の最も重要な職業であった狩獵と漁撈とは、進歩した社會においては最も愉快な娯樂になり、人々は曽つては必要に出たることを今や道樂とするやうになる。そこで、進歩した社會においては、他人が消閑のためにしてゐる事を生業としてゐる者はみな貧民だといふことになる。……これは、かういふ職業に對する自然的の興味は、すべての人を快適に暮させ得べくあまりに澤山の人をこの職業に従事せしめるからであつて、彼等の勞働の生産物は、その勞働量の割合には常に非常に安くて市場に齎される、そのため勞働者には最もみじめな生活以上に何物も與へられないことになるのである。

(1-4) 氣賀勘重訳、岩波文庫上巻133ページ
 狩獵と漁業とは社會未開の状態に在りては、最も重要なる人間の職業たりしも、進歩せる社會状態に於ては、最も快適なる娯樂と化し去りて、世人は今や、先人が嘗て一度必要の為に従事したる其仕事を、快樂の為に遂行するに至れり。故に進歩せる社會状態に在りては、他の人々が逸樂として従事する其仕事に、一個の職業として従事する者は、何れも悉く甚だしき貧民なり。……要するに此等の業務に對する自然の嗜好は、餘りに多數の人々を斯業に誘致して、斯業に依りて快適に生活するを得ざらしめ、而して其勞働の生産物は、勞働の數量に比して常に甚だしく低廉に市場に提供せられ、勞働當事者をして最も窮乏的なる生活費の外、更に何物をも得る能はざらしむるなり。

(1-5) Hunting and fishing, the most important employments of mankind in the rude state of society, become in its advanced state their most agreeable amusements, and they pursue for pleasure what they once followed from necessity. In the advanced state of society, therefore, they are all very poor people who follow as a trade what other people pursue as a pastime. ....  The natural taste for those employments makes more people follow them than can live comfortably by them, and the produce of their labour, in proportion to its quantity, comes always too cheap to market to afford anything but the most scanty subsistence to the labourers.
 

 水田・杉山訳を読んだとき、「その人たちの労働の生産物は、つねにその量の割には」の「その量」は何の量だと考えるだろうか。たぶん、「生産物の量」と考えるはずだ。そう考えながら読んでいくと、「その量の割にはあまりにも安く市場に出まわる」とはどういう意味なのかよく分からなくなる。

 大内・松川訳も水田・杉山訳とほぼ同じで、「つねにその量の割合には」になっている。ところが、大内訳では「その勞働量の割合には」だし、氣賀訳は「勞働の數量に比して」だ。「生産物の量」ではなく、「労働の量」なのだ。

 そこで原文をみると、the produce of labour, in proportion to its quantityだ。原文からはitsが何をさすかは2つの理由でほとんど疑問の余地がない。第1に、itsより前にある単数形の名詞を探していくと、もっとも近くにあるのがlabourだ。英語の代名詞の性格を考えると、意味の上で無理がなければ、itsがlabourをさすと考えてまず間違いない。第2に、itsがlabourをさすと考えれば、このセンテンスの意味をすっきりと理解できる。

 このitsを水田・杉山訳、大内・松川訳はそのまま「その」と訳したわけだ。だから誤訳ではない。原文の表面を正確に伝えるという観点に立てば、完全に正しい訳だといえる。だが、原文から離れて日本語の文章として読むと、水田・杉山訳の「その量の割には」が「労働の量の割には」を意味するとはすぐには考えられない。日本語の代名詞の性格上、「その」はこの部分で主題になっていること、つまり「生産物」をさすと考えるのが自然だからだ。「生産物の量の割には」では奇妙だと感じるが、では何の量の割になのかは、すぐには分からない。

 同様のことは水田・杉山訳の「彼らは、かつては必要によって従事したことを、いまは快適のためにやっている」の部分にもいえる。「彼ら」とは誰なのか。原文を読むと、theyがmankindを指すことに疑問の余地がない(ちなみにこのmankindは複数扱いになっている)。それより近くにある複数形のamusementsでは意味の上で無理があるからだ。このtheyを、水田・杉山訳では「彼らは」としているわけだが、原文から離れて日本語の文章として読むと、「彼ら」が誰なのかがピンとこない。大内・松川訳と大内訳では「人々」、氣賀訳では「世人」になっていて、日本語として意味が通る文章になっている。

例 2   定冠詞の処理
 代名詞の処理に似た問題に、定冠詞の処理がある。第1編第9章の例をみてみよう。
 

(2-1) 水田・杉山訳第1巻167ページ
……さきの戦争が終結してしばらくのあいだ、最良の信用をもつ私人だけでなく、ロンドンの最大の会社のうちいくつかも、それ以前には四パーセントから四・五パーセント以上は支払っていなかったのに、五パーセントで借りるのが通例となった。われわれが北アメリカと西インドで領土を獲得したために領土と事業が大いに増加したということが、この社会の元本の減少をなにも推定しないでも、このことを十分に説明するだろう。既存の貯えで営まれるべき新事業がこのように大幅に増加したことは、競争が減り、そのため利潤が増したにちがいない多数の個別部門に用いられるその量を必然的に減らしたにちがいない。……

(2-2) 大内・松川訳、岩波文庫(1) 279〜280ページ
……最近の戦争の終結後しばらくのあいだというものは、以前にはいつも四分か四分半しか支払わなかったところの、最大の信用を博している私人たちばかりではなく、ロンドンの最大の諸会社のあるものも、ふつう五分で金〔かね〕を借りていたのである。これは、社会の資本的資財(capital stock)が減少したためだと考えるべきことではなくて、わが北アメリカと西インド諸島との獲得によって、領土も事業も大いに増加したということから十分説明されるであろう。在来の資財で経営されるべき新しい仕事がこれほど大増加したということは、多数の特定の部門に使用されている資財の量を必然に減少させたにちがいないし、またこれらの部門では、競争が比較的すくないから、利潤が比較的大きくなったにちがいないのである。……

(2-3) 大内兵衞訳、岩波文庫(1) 185〜186ページ
最近の戰爭終了後、しばらくの間、信用のもっとも厚い個人のみならず、ロンドンの最大の諸會社も、その借入金に對しては五分を拂ふのが普通であった、かれ等は、それ以前は、四分または四分半の利子しか拂ってゐなかつた。これは、社會の資本的資財(capital stock)の減少によるものと考へる必要はないのであつて、吾々が北アメリカと西インドとを獲得し、領土も事業も大いに増加したことに由るものと解して差支へないのである。これだけふえた新しい仕事を、從來の資本で經營して行く結果、多くの特殊の部門において使はれる資本の量は減少したに相違ない、從つてこれ等の部門においては、競爭が減じ、利潤が増加したに相違ない。……

 
(2-4) 氣賀勘重訳、岩波文庫上巻124ページ
……倫敦に於ける信用最良なる私人は勿論、其最大なる會社の或者は、舊來通例四朱乃至四朱五厘以上の利子を支拂ふことなかりしが、最近の戰爭終了後、或期間の間、此等の人々は一般に五朱利にて借入るヽを普通とするに至れり。此事實は社會に於ける資本〔キャピタルストック〕の何等の減少を想像する迄も無く、唯唯單に北米及び西印度に於ける我国の獲得に基づく領土及び商業の大増加を囘想せば、其理由自ら明なる可し。舊來の資本〔ストック〕に依りて遂行せんとする新事業の斯る大増加は、必然的に各種事業の一大部分に於ける使用資本〔ストック〕の數量を減少せざるを得ず。其結果、此等各種の事業に於ける競争を減じて其利潤を増加せざるを得ざりしなり。……

(2-5) For some time after the conclusion of the late war, not only private people of the best credit, but some of the greatest companies in London, commonly borrowed at five per cent, who before that had not been used to pay more than four, and four and a half per cent. The great accession both of territory and trade, by our acquisitions in North America and the West Indies, will sufficiently account for this, without supposing any diminution in the capital stock of the society. So great an accession of new business to be carried on by the old stock must necessarily have diminished the quantity employed in a great number of particular branches, in which the competition being less, the profits must have been greater.
 

 ここで、水田・杉山訳の「その量」が何の量なのかが分かるだろうか。原文をみると、the quantityなので、「その量」という訳は間違っているわけではない。原文の表面を正確に伝えるという観点に立てば、完全に正しい訳だといえる。だが、訳文を読んでも意味は分からない。そこで原文をもう一度みると、the quantity of the stockであることがすぐに分かる。

 この部分は、大内・松川訳では「資財の量」、大内訳では「資本の量」、氣賀訳では「資本〔ストック〕の數量」と訳され、訳文だけで意味が分かるようになっている。「資本の」とか「資財の」とかの言葉は原文にないという意見があるかもしれないが、定冠詞にそう書かれているということもできる。

例 3   原語と訳語の対応
 氣賀勘重が、「同一の原語も前後の關係上二樣又は三樣に譯せし場合少なからず」とわざわざ断っているのは、経済学などの専門分野の翻訳で、原語と訳語の一対一対応を求める場合が少なくないからだ。

 言葉とは本来、いくつもの意味をもっているものなので、そもそも、原語と訳語の一対一対応を求めることには無理がある。にもかかわらず、一対一対応を求めるのは、原著者が言葉をひとつずつ定義し、一語一義の原則にしたがって執筆する場合があるからだ。たとえば法律の分野では、一語一義が最大限に追求される。一語一義の原則にしたがって執筆された文章は、いわば人工的な言語であって、専門分野の教育を受けた人しか理解できないものである。

 では『国富論』の原文はどうかというと、アダム・スミスが一語一義どころか、一語をさまざまな意味で使っていることは常識である。アダム・スミスの時代には経済学は成立していなかったし、アダム・スミスが言葉をひとつずつ定義して新しい専門分野を確立しようとしたわけでもない。したがって、多義的に使われている言葉に一対一対応で訳語をあてはめていくことには、かなりの無理がある。

 このため、『国富論』の翻訳では、原語と訳語の一対一対応を完全に追求することはできない。それでも、訳者によって、多義的な原語の処理の方法に違いがある。大雑把にいうなら、氣賀訳がもっとも自由に訳語を使い分けており、新しい訳ほど、一対一対応に近づいてきているように思える。

 こうした訳者の姿勢を示す例を第1編第1章からあげてみよう。
 

(3-1) 水田・杉山訳第1巻27ページ
……農業に従事する労働のさまざまな部門のすべてを、完全に分離するのがこのように不可能だということは、おそらく、この手仕事における労働の生産力の改良が、かならずしもつねに製造業における改良と歩調をあわせない理由である。

(3-2) 大内・松川訳、岩波文庫(1) 103ページ
……農業に従事する労働のさまざまな部門のすべてを、完全にあますことなく分化してしまうのは不可能だということが、おそらくは農芸の生産における生産諸力の改善が、なぜもろもろの製造業のそれと必ずしもつねに歩調をあわせることができなかったか、ということの根拠であろう。

(3-3) 大内兵衞訳、岩波文庫(1) 26ページ
……農業に使はれる勞働のこれ等あらゆる部門を完全に充分に分離させることが出来ないといふことは、恐らくは、この技術における勞働の生産力の改善が、何故に製造業におけるその改善に及ばないかの理由であらう。

(3-4) 氣賀勘重訳、岩波文庫上巻16ページ
……農業に使用せらるヽ各種部門の勞働の間に完全なる分業を行ふの此不可能こそは、惟ふに正に農業勞働の生産力の改良が常に製造業に於ける其改良と平行して進まざる所以の原因なる可し。

(3-5) This impossibility of making so complete and entire a separation of all the different branches of labour employed in agriculture is perhaps the reason why the improvement of the productive powers of labour in this art does not always keep pace with their improvement in manufactures.


 水田・杉山訳の「この手仕事」が何を意味するか分かるだろうか。正直のところ、この訳文からはよく分からない。よくは分からないが、農業と製造業の違いを論じている箇所だし、「この手仕事」と「製造業」が対比されているので、奇妙な言葉ではあるが、たぶん農業のことなのだろうと感じる。原文をみるとthis artである。大内・松川訳は「農芸」、大内訳は「この技術」だ。そして氣賀訳をみると「農業」になっている。氣賀訳をみて、ようやく安心する。原文のthis artはやはりagricultureの言い替えだったのだ。

 英語では通常、同じ言葉を繰り返し使うのを嫌うので、ひとつの語を使うと、つぎには代名詞や代動詞などを使うが、それができない場合には、同じ事柄や概念などを同義語で表現することが少なくない。日本語にはこういう感覚があまりなく、逆に同じ語の繰り返しを好む傾向があるので、言い換えは日本人が英文を読むときに盲点になりがちな点だ。たとえば、大学の原書講読ではじめて『国富論』を読む学生にとっては。だから、原書講読の際の参考資料として使うとしても、じつは氣賀訳がもっとも親切だともいえる。

 だが、翻訳という観点にたったとき、言い換えをすべて氣賀勘重のように訳さなければならないと断言することはできない。言い換えとして使われた言葉には、もとの言葉と違ったニュアンスがあるのだから、別の訳語を使うべきだとする考え方もありうる。だから、「農芸」「この技術」という訳語が間違いだとはもちろんいえない。

 しかし、「手仕事」には、じつは別の問題がある。第1に、「手仕事」という訳語は、2002年の第2刷で改定されたもので、2000年の第1刷では(おそらく杉山忠平の原稿では)「技芸」になっていた。第2に、「手仕事」は第2刷の「序文および本書の構造」(21ページ)で以下のように使われている。
 

……ローマ帝国の没落以来、ヨーロッパの政策は、農村の産業である農業よりも、町の産業である手仕事、製造業、商業に有利であった。……

Since the downfall of the Roman empire, the policy of Europe has been more favourable to arts, manufactures, and commerce, the industry of towns, than to agriculture, the industry of the country.


 第3に、第2刷21ページの「手仕事」には訳注がついている。原文のartはcraftであり、mechnical artsともいいうるので「手仕事」と訳したと説明し、例外的に「技術」「芸術」と訳した箇所があると断っている。また同455ページに以下の訳注がある。
 

 手仕事職人 mechanickとは前述の手仕事 artを担当する職人(たとえば時計職人)のこと。


 つまり、水田洋はartを時計製造のような手工業を意味すると解釈したうえで「手仕事」と訳している。「手仕事」は「農村の産業である農業」ではなく、「町の産業」である(この「町」について、「農村の対比では『都市』と訳したいところだが、別にcityという言葉がある以上、それと区別しなければならない」と訳注450ページに書かれている)。

 したがって、(3.1)の「この手仕事」は「農業」の言い換えではないとする解釈も可能だ。そう解釈して、この「手仕事」を「町の産業」だと考えると、水田・杉山訳は支離滅裂になる。誤訳だとする見方も成り立つし、少なくとも原文を読まずに訳文と訳注だけを読む読者にとっては、誤解しやすい訳だといえる。

例 4   関係詞節
 関係代名詞なども、言い換えの一種だとみることもできる。関係代名詞などを使った関係詞節をどう訳すかも、翻訳のスタイルをよく示すものである。やはり第1編第1章から例をみてみよう。
 

(4-1) 水田・杉山訳第1巻34ページ
……染色工が使用し、しばしば世界の最遠隔地の所産である、さまざまな薬品を集め合わせるために、特にどれほどの商業と海運が、どれだけ多くの造船工、船員、製帆工、製綱工が、従事しなければならなかったことか。

(4-2) 大内・松川訳、岩波文庫(1) 113〜114ページ
……染色工が使用するところの、しばしば世界の果ての果てからもちきたされる薬剤を集積するために、とりわけどれほど多くの商業と航海業が従事し、またどれだけ多数の造船工・水夫・帆布製造人・ロープ製造人が、従事しなければならなかったことであろうか!

(4-3) 大内兵衞訳、岩波文庫(1) 35ページ
……染色者がそれに使つたいろいろの薬劑は、世界の最も遠い隅々から持ち來されたものであるが、それを持ち來すために如何に多くの商業と航海業が必要とされ、また如何に多くの造船工、水夫、帆布製造者、綱製造者が使用されねばならなかつたか!

(4-4) 氣賀勘重訳、岩波文庫上巻22ページ
……單に其染色人の用ゆる藥材のみに就て之を觀るも、此等の藥材中には世界最遠隔の地方より來れる物少なからざるが故に、其種々なる藥材を集むるが爲には特に幾多の商業と航海業とを要し、幾多の造船匠、水夫、帆布製造工、製綱夫等を要するものあり。

(4-5) How much commerce and navigation in particular, how many ship-builders, sailors, sail-makers, rope-makers, must have been employed in order to bring together the different drugs made use of by the dyer, which often come from the remotest corners of the world!
 

 関係詞節の訳し方について考えるとき、アダム・スミスの時代には現在とカンマの使い方が違っていたことに注意する必要がある。学校英語ではカンマの有無で制限用法と非制限用法があると教えられるが、スミスは関係詞の前にほぼつねにカンマを付けている。だから、カンマがあるから非制限用法だとはいえない。

 この点を前提に4つの訳をみていくと、新しいものいほど学校英語の原則に忠実に訳しており、古いものほど自由に訳していることが分かる。そして、水田・杉山訳をみると、「染色工が使用し」「しばしば世界の最遠隔地の所産である」「さまざまな」がいずれも「薬品」を修飾する形になっていて、日本語の文章としてみたとき、かなりの悪文であることに気づくはずだ。一読しただけでは意味が理解しづらいのだ。これに対して氣賀訳は、見事な日本語になっている。ただし、原文と突き合わせて読む読者にとっては、おそらく氣賀訳はそれほど親切だとはいえない。

 関係詞節の訳し方については、例2の下線部分でも上記と同じことがいえる。

例 5  修飾語の並列
『国富論』の性格を考えれば、語や構文をどう訳すかよりも、原文の論理をどう伝えるかが大切なはずである。そのような例のひとつとして、修飾語の並列をどう訳しているかをみてみよう。第1編第10章から引用する。
 

(5-1) 水田・杉山訳第1巻200ページ
……投機的商人は、一つの、正規で、安定し、よく知られた事業部門では仕事をしない。彼は今年は穀物商、翌年はワイン商、翌々年は砂糖商か、タバコ商か、茶商であったりする。

(5-2) 大内・松川訳、岩波文庫(1) 320ページ
……投機商というものは、けっして正規で基礎のかたい、またはよく知られた事業部門に従事しない。かれは、ことしは穀物商をしているかと思うと、つぎの年にはぶとう酒商になり、そのつぎの年には砂糖・タバコ・または茶の商人になる。

(5-3) 大内兵衞訳、岩波文庫(1) 222ページ
……投機的商人なるものは決して一つの正規な基礎の固い世間によく知られた部門の事業をやらない。彼は今年は穀物の商賣をしてゐるかと思へば、その次の年は砂糖、烟草または茶の商人になつてゐる。

(5-4) 氣賀勘重訳、岩波文庫上巻151ページ
……投機的商人は常に周知せられたる確定せる正規的の一定職業を營むものに非ず。今年穀物商人たるも翌年は葡萄酒商人と為り、又其翌年には更に砂糖、烟草又は茶の商人と為る等、……

(5-5) The speculative merchant exercises no one regular, established, or well-known branch of business. He is a corn merchant this year, and a wine merchant the next, and a sugar, tobacco, or tea merchant the year after.


 水田・杉山訳を読むと、意味がよく分からないと感じる。「一つの、正規で、安定し、よく知られた事業部門では仕事をしない」というが、ワイン商、砂糖商、タバコ商、茶商はどれも、そういう事業ではないかと思えるのだ。

 だが、原文を読むとどうも違う。4つ並列されている修飾語のうち、oneに力点があるように感じる。氣賀訳を読むと、その点がはっきり分かる訳になっている。「一定職業を營むものに非ず」。ワイン、砂糖、タバコ、茶などの売買のうちの「ひとつ」につねにたずさわっているわけではないといっているのだ。氣賀訳では、4つ並列されている修飾語のうち最初にあるものを最後にもってくることで、この点を示している。ある意味で思い切った訳だともいえるが、氣賀勘重なら、そう訳さなければこの部分の論理構造が読み取れなくなるではないかというはずだ。

例 6   論理
 もうひとつ、原文の論理の伝え方に関する例を第1編第2章から紹介する。
 

(6-1) 水田・杉山訳第1巻38ページ
……動物が人あるいは別の動物から何かを得ようと思うとき、それをしてもらうのに必要な相手の好意を手に入れる以外に説得の方法ない。子犬は母犬にじゃれつき、スパニエルは、食事中の主人から食べものをもらおうとするとき、さまざまな芸をして主人の注意をひくことにつとめる。人もときには仲間に同じ技術を用いる。そして自分の意図どおりに仲間を行動させる手段がほかになければ、あらゆる卑屈なへつらいの振舞いで相手の好意を手にいれようとつとめる。しかし、人にはどんなばあいにもそうする時間があるわけではない。文明社会では、人はつねに多数の人びとの協力と援助を必要としているのに、一生をかけても何人かの人びとの友情を得るのにたりない。

(6-2) 大内・松川訳、岩波文庫(1) 117〜118ページ
……動物は、人間または他の動物のいずれかから、なにかを獲得しようとするばあいには、そうしてもらおうとする者の好意をかちえる以外には、どのような説得方法ももちあわせていないのである。子犬は母犬にじゃれついてごきげんをとり、スパニエルは食事中の主人の注意をひくためにありとあらゆる芸をして、主人からのごちそうにありつこうとする。人間も、ときにはその同胞に対してこれと同一の技巧を用い、かれらを自分の好むとおりに動かす方法が他になにもないばあいには、あらゆる卑劣な、こびへつらうようないんぎんぶりを示しながら、その好意を買おうと努力する。とはいえ、人間はあらゆる機会にこういうことをするだけの時間的な余裕をもっていない。文明社会では、どのようなときでも、人間はたいへんな数にのぼる人々の協働や援助を必要としているにもかかわらず、かれは自分の全生涯をかけても、少数の人々の友情をかちえることさえやっとのことなのである。

(6-3) 大内兵衞訳、岩波文庫(1) 39ページ
……動物は、人間または他の動物から何かを得ようとする時には、それをして呉れる人の好意に訴える外には、他に、如何なる説服の方法をももたない。仔犬は母犬に尾を振って甘え、スパニエールは主人に御馳走を貰ほうと思ふ時には、御馳走を食べてゐる主人の注意を引くべくいろいろの藝をして見せる。人間も時々、その同胞に對して同様な技術を用ひる、そして自分の思ふやうに彼等を動かす方法が他に見付からない時には、彼はさまざまの卑劣な媚を呈してその好意を買はうと努めるのである。しかしながら、あらゆる場合にかう云ふことをしてゐることは、時間が許さない。文明社會においては、彼の全生涯を盡してもわづかに數人の友人を得ることは困難であるにかヽはらず、彼は如何なる時といへども非常に多くの人々の共同と援助とを必要とする。

(6-4) 氣賀勘重訳、岩波文庫上巻25ページ
……一動物が或人間又は他の動物より或物を得んことを欲する場合には、該動物は其要求する奉仕の授與者の恩惠を仰ぐの外、復た他に之を勸説するの手段を有することなし。仔犬は母獸に媚を呈し、家犬は其主人の食事に際し、百千の愛嬌を試みて、以て只管其眷顧を買はんと得るに努むるなり。人間も亦時に其同胞に對して同様の方法を用ひ、該同胞をして自己の志望に添ふの行為に出でしむ可き他の適當なる方法無き場合には、あらゆる卑屈なる媚諛的行為に依りて其愛顧を買はんと努むることありと雖も、併し總ての場合に欺る行動を用ゆるが如きは、到底時間の許さヾる不可能事たるを免れず。蓋し他人の親切を買ふは頗る困難のことに属し、終生之に努むるも尚ほ能く僅數の人より之を期待し得るに過ぎざるに、然るに文明國に於ては、人間は常住不斷、大多數の人士の協力と援助とを必要とするものあればなり。

(6-5) When an animal wants to obtain something either of a man or of another animal, it has no other means of persuasion but to gain the favour of those whose service it requires. A puppy fawns upon its dam, and a spaniel endeavours by a thousand attractions to engage the attention of its master who is at dinner, when it wants to be fed by him. Man sometimes uses the same arts with his brethren, and when he has no other means of engaging them to act according to his inclinations, endeavours by every servile and fawning attention to obtain their good will. He has not time, however, to do this upon every occasion. In civilised society he stands at all times in need of the cooperation and assistance of great multitudes, while his whole life is scarce sufficient to gain the friendship of a few persons.
 

 水田・杉山訳を読むと、なぜここで「友情」の話がでてくるのか不思議に思うはずである。アダム・スミスは道徳哲学者だったというから、友情について論じるのは不思議ではない。だが、なぜここで急に友情論を展開するのか、理解に苦しむはずである。この疑問を解消するには氣賀訳を読むしかない。この部分の論理の流れを疑問の余地なく伝える見事な訳だ。

(2003年6月号)