古典翻訳
 山岡洋一

『国 富論』の書名の翻訳をめぐる問題


  アダム・スミスの主著は通常、The Wealth of Nationsと呼ばれ、日本語では『国富論』と呼ばれている。だがこれは略称であって、正式な原題はA Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsである。

 経済学の源流となった名著なので、明治以降、何度も翻訳されている。ここまで有名な本になると実売部数が多く、希少価値がないためだろうが、古い訳本が 古本屋で新刊本より安く売られている。目につくと買うようにしていたので、いまでは10種類を超える訳書が本棚に並んでいる。それを眺めていると、いろい ろな点に気づく。ここではそのうち、書名の翻訳をめぐる問題、とくにnationsをどう訳すかという問題について考えてみよう。

書名の変遷
 同書のはじめての全訳は石川暎作・嵯峨正作訳『冨国論』(1882〜88年)だという。明治半ばに出版された古い本なので、さすがに希少価値があるよう だ。古本屋で見かけても、とても買える値段ではない(復刻版がでているが、これすら高くて買えない)。だが、さしあたっては、このときの書名が『国富論』 ではなく、『冨国論』であったことだけを確認しておこう。

 明治末に三上正毅訳『冨国論』が出版されているが、これは全訳ではなく、抜粋訳だ。つぎに出版された全訳は、竹内謙二訳『富国論』(1921〜23年、 有斐閣)のようだ。これも奇覯本で、買える値段ではないが、書名が『富国論』であることだけは確認できた。以上のように、明治半ばから大正の終わりにかけ て出版された訳書はすべて、『富国論』になっている。

 では『国富論』が使われたのはいつからなのか。1925年(大正14年)に竹内謙二訳の全訂再版が第1巻だけ出版され、そのときに書名が『国富論』に変 わっている。竹内によれば、初版出版の直後の関東大震災で紙型が焼失したため、「改訳の好機」になったのだという。

 その後、1926年(大正15年)の氣賀勘重訳からは『国富論』が一般的になった。戦後になって、1959〜66年(昭和34〜41年)の大内兵衛・松 川七郎訳では『諸国民の富』が使われたが、この書名は定着せず、ごく最近の水田洋監訳・杉山忠平訳(岩波文庫、2000〜01年、第1巻のみ2002年に 改訳)まで、すべての訳書で『国富論』が使われている。要するに、明治時代には富国強兵という当時の風潮もあって『富国論』と呼ばれたが、その後は『国富 論』が一般的になった。

 しかしこれはいわば通称であって、正しい訳ではないとするのが常識になっているようでもある。本当なら『諸国民の富』にすべきなのだが、『国富論』が定 着しているので便宜的に使っているだけだとされているようなのだ。その証拠に、『国富論』という書名を使った訳書でも、原著の正式名称の訳を掲げているも のが多く、そこではnationsが「国」とは訳されていない。いくつか例をあげよう(なお、旧字は新字に改めてある。以下の引用も同様)。

諸国民の富の性質及び諸原因に関する一研究
 竹内謙二訳『国富論』(1931〜33年、改造文庫)
国民の富の性質及び原因に関する研究
 大内兵衛訳『国富論』(1940〜44年、岩波文庫)
諸国民の富の性質及び原因に関する研究
 竹内謙二訳『国富論』(1969年、東京大学出版会)
諸国民の富の性質と諸原因の研究
 水田洋訳『国富論』(1970年、河出書房)
諸国民の富の本質と原因にかんする研究
 大河内一男監訳『国富論』(1978年、中公文庫)

 以上のように、少しずつ違いはあっても、どの訳者も、nationsを「諸国民」または「国民」と訳す点では一致しているのである。ほんとうに nationsは「諸国民」なのかを、同書の序論で使われた用例を参考に考えてみたい。

『国富論』序論で使われたnation
 序論は、手元にある原著第6版でわずか5ページの短いものである。比較的短い段落が9つあるだけである。『国富論』序論を以下に掲載してある。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/bn/200511WonIntro.doc

 単語数が1064しかない短い序論に、nationとnationsが合計14回使われている。9つの段落のうち8段落で使われており、キイ・ワードの ひとつになっていることは確かだろう。どの訳書でも、このほとんどが「国民」または「諸国民」と訳されている。水田洋訳(河出書房)、青野季吉訳 (1928年、春秋社)、少々意外だが氣賀勘重訳では、すべてで「国民」という訳語を使っている。

 他の訳書ではいくつか、別の訳語を使っている部分がある。そのひとつは第4段落にあるthe savage nations of hunters and fishersと、これを受けたSuch nationsの2箇所だ。たとえばもっとも新しい水田・杉山訳では「猟師や漁夫からなる未開民族」と訳されていて、nationsに「民族」という訳語 をあてている。このnationsを「諸国民」と訳さないのは、ある意味で当然である。第5編第1章によればsavageとは「国と呼べるものがない」段 階なので、「国民」がいるはずがない(ついでにいえば、分業が発達する以前の状態なので、猟師や漁夫という職業もない)。

 もうひとつ、第3段落のthe soil, climate, or extent of territory of any particular nationの部分が、大内兵衛訳『国富論』では「ある特定の国家の地味、気候または領土の広さ」と訳されている。他の訳書でも「国」と訳されている場合 がある。

 以上のように、The Wealth of Nationsが正しくは「諸国民の富」あるいは「国民の富」だとされていることに見合って、序論で使われているnationとnationsもごく一部 の例外を除いて、「国民」「諸国民」と訳されている。

 この訳語が適切かどうかを考えていくわけだが、まずはじめにはっきりさせておくべき点がある。いくつかの辞書を調べてみればすぐに分かることだが、「国 民」がnationという単語の訳語として間違っていると考える理由はない。単語としてのnationはもともと、「人」に関する言葉である。たとえば、 The New Shorter Oxfordをみると、こう書かれている。

1 A A large aggregate of people so closely associated with each other by a factors such as common descent, language, culture, history, and occupation of the same territory as to be identified as a distinct people, esp. when organized or potentially organizable as a political State.……

『ジーニアス英和大辞典』にはこう書かれている。

1 [the 〜;集合的に;単数・複数扱い] 国民……2 (民族または政治的結合体としての)国,国家……

 つまり、nationは本来、peopleに近い言葉であり、「人の集合体」を意味する言葉である。この点は、countryと比較すると明確になる。 この2つは類語だが、countryの意味が「土地」を出発点にしているのに対して、nationの意味は「人」を出発点にしている。だから、本来の意味 を考えたき、「国」よりも「国民」の方がnationの訳語にふさわしいともいえる。ただしこれは、単語としてのnationを考えたときのことである。

 だが、翻訳にあたって問題になるのは、個々の単語がどのような意味をもっているのかではない。その語が使われている原文が何を伝えようとしているかなの だ。単語としてnationを考えたときですら、英和辞典にいくつもの訳語が並んでいるのをみれば明らかなように、nationと「国民」が完全に一対一 で対応しているわけではない。原文の文脈のなかで考えると、「国民」という訳語が使えず、他の訳語が必要になることもある。たとえば、「国と呼べるものが ない」状態でのnationなら、「民族」とか「部族」とかの訳語を使う必要がでてくる。また、nationが政治的な組織という意味で使われていれば、 「国」と訳す必要がある。

 つまり、nationと「国民」とでは、それぞれの語がもつ意味の範囲に少し違いがあり、「国民」の意味の範囲から外れる部分でnationが使われて いるのなら、別の訳語が必要になるのだ。この点は、シソーラスをみれば確認できるはずだ。英語のnationの類語には、country、 commonwealth、state、kingdom、community、publicなどがある。日本語の「国民」の類語には「人民」「臣民」「公 民」「民」などがある。意味が重なる部分と重ならない部分があるのは、「国民」という単語の訳語として、countryやkingdomがふさわしいかど うかを考えみればすぐに分かる。

 英語の単語とその訳語として一般に使われている日本語の語の間に意味の範囲のズレがあること、たとえば、nationと「国民」の間に意味の範囲のズレ があることは、少し考えてみればすぐに分かるはずである。だが、このnationと「国民」の場合には、もうひとつ、気づきにくいが無視できない違いがあ る。語の性格が違うのだ。

 前述のように、nationは「集合的にみたときの人」がある条件を満たしたときに使われる言葉だ。これに対して「国民」は、たしかに「集合的にみたと きの人」という意味で使われることもあるが、普通は個人をある側面から、どこかの国の国籍をもつという側面からみたときに使われている。基本的に集合、集 団を意味するnationと、基本的に個人を意味する「国民」とでは、語の性格にかなりの違いがあるといえるはずだ。以上のような違いがどこまで配慮され ているのかを、『国富論』序論の既訳でみてみよう。

序論第1段落をどう訳すか
 序論第1段落は『国富論』全編のなかでも有名で、引用されることが多い箇所のひとつだ。このため、どの訳者もこの部分の訳には十分に注意しているはず だ。代表的な訳文をあげておこう。

 国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活必需品と便益品のすべてを本来的に 供給する源であって、この必需品と便益品は、つねに、労働の直接の生産物であるか、またはその生産物によって他の国民から購入したものである。(大河内一 男監訳、中公文庫第1巻1ページ)
 すべての国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品や便益品のすべてをその国民に供給する、もともとの原資であって、それらのものはつね に、その労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである。(水田洋監訳・杉山忠平訳、岩波文庫2002年版、第1 巻19ページ)

THE annual labour of every nation is the fund which originally supplies it with all the necessaries and conveniences of life which it annually consumes, and which consist always either in the immediate produce of that labour, or in what is purchased with that produce from other nations.

 このように、nationは「国民」と訳されており、水田・杉山訳ではさらにnationsを「諸国民」と訳しわけている。原文 を読むと、このnationとnationsがともに「集合的にみたときの国民」を意味すると考えても、とくに矛盾がないことが分かる。だから、調べたか ぎりでは既訳のすべてで「国民」と訳されてきたのであり、この訳語で何の問題もないように思える。だが、ほんとうに問題がないのだろうか。

 原文をまずはすっかり忘れて訳文だけを読んでいくと、問題点がすぐにみつかる。「国民の年々の労働」という言葉は普通に考えれば、「個々の国民の年々の 労働」という意味である。たとえば、「わたしの年々の労働」という意味だ。そうではない、「国民全体の年々の労働」だと考えるのであれば、それは「国民」 がnationの訳語であることを知っており、nationが個々の国民ではなく、集合体としての国民、つまり国民全体を意味することを知っているから だ。

 序論第1段落の訳文は、ごく普通の日本語として読んだ場合、原文とはまったく違った意味をもつものと解釈される可能性が十分にある。たとえば以下のよう に読まれても不思議だとはいえない。

 わたしの年々の労働は、わたしが年々消費する生活必需品と便益品のすべてを本来的に 供給する源であって、この必需品と便益品は、つねに、わたしの労働の直接の生産物であるか、またはその生産物によって近くの店の主人から購入したものであ る。

 こう読まれれば、もちろん、原文でアダム・スミスが伝えようとした意味は伝わらなくなる。ところが、10種類を超える既訳で、この問題は無視され、 nationは「国民」と訳されつづけている。なぜなのか。

 答えはおそらくひとつしかない。この文章が「ごく普通の日本語として読まれる」とは、これまでの訳者は誰も考えていなかったからだ。この文章は翻訳であ り、読者は翻訳として読むはずだと想定してきたのだ。翻訳だから、「国民」は普通の「国民」ではない。裏にnationという原語がある言葉なのであり、 そもそも、nationの意味を知らなければ解釈できない言葉だと考えてきたのだ。

 10種類を超える既訳の訳者はみな、それぞれの時代を代表する学者だから、nationと「国民」の違いを知らなかったはずがない。違いがあることは重 々承知したうえで、「国民」という言葉を普通の意味でではなく、原文のこの部分にnationという言葉が使われていたことを示す符丁として使った。この ように使っている以上、原文にnationという語があれば、よほどの理由がないかぎり、「国民」と訳さなければならない。文脈上、少し違った意味に使わ れているからといって(たとえば、「国と呼べるものがない」段階でのnationだからといって)、別の訳語を使っていれば、原文でnationが使われ ていたことが読者に伝わらなくなるではないかと考えられたのだ。

 竹内謙二は改造社文庫版の例言で「訳語の統一には可及的注意した積りである。……なほ仏独両訳共、訳語の統一に於て不完全なるを見た」と述べている (10ページ)。この考え方を示すのが、前述の第3段落のnationである。この部分の典型的な訳文をみてみよう。原文は脚注に示した 。

……一つ特定国民の地味、気候又は領土の大きさがどうであろうとも、その年々の供給が 豊富であるか乏しいかは、その特定の事態の下にあっては、必ずこれら両事情の如何に依るものである。(竹内謙二訳、東京大学出版会第1巻4ページ)
……ある特定の国民の領土の土壌や気候や広さがどうであろうとも、その国民が受ける年々の供給が豊かであるか乏しいかは、そうした特定の情況のなかでの、 その二つの事情によらざるをえない。(水田・杉山訳、岩波文庫2002年版、第1巻19ページ)

Whatever be the soil, climate, or extent of territory of any particular nation, the abundance or scantiness of its annual supply must, in that particular situation, depend upon those two circumstances.

 まず竹内訳について。「国民の地味、気候又は領土の大きさ」とはどういう意味なのだろう。「国民の地味」、「国民の気候」というのはまったく意味をなさ ない言葉だ。これは原文のorによる並列の解釈を間違えた結果である(前述の大内兵衛訳にも同じ問題があった)。初歩的なミスともいえるが、大内訳の場合 はご愛嬌、竹内訳の場合は弘法にも筆の誤りというべきだろう 。

 因みに、A, B, or C of Dという文型は、誤訳がきわめて多いといえる。この構文は2つに解釈できる。
(1)  (A, B, or C) of D
(2)   A, B, or (C of D)
 英語の性格を考えれば、基本的には(1)だと解釈すべきである。(2)と解釈すべき場合もあるが、それは例外であり、悪文だというべきだ。だから、意味 上(1)ではありえない場合にのみ、(2)の解釈をとるのが正解である。ところがおそらく日本語の構造のためだろうが、うっかりすると何も考えずに(2) だと解釈してしまう。『国富論』序論のこの部分の場合、(2)に解釈すると、訳者が原文の意味を考えることなく訳したかのような印象を読者に与えるうえ、 英語の性格を知らないかのような印象まで読者に与えかねないので、二重にみっともない誤訳になる。

 この点は除外しても、「国民の領土」という言葉はありえないのではないだろうか。『新明解国語辞典』では、領土は以下のように定義されている。

@その国家の主権が及ぶ範囲の土地。「日本の−」  A中世、その人が所有していた土地の称。領地。「−安堵」

「国民」を個人としてみた場合、「国民の領土」は「中世の武士の所有地」を意味することになる。そして、「国民」を集合体としてみた場合には、「国民の領 土」という言葉はまったく意味をなさなくなる。原文のterritory of any particular nationのnationは、素直に考えれば「国」でしかありえない。

 素直に考えれば「国」でしかありえないのに、なぜ「国民」と訳したのか。原語がnationであり、nationの訳語は「国民」で統一するよう「可及 的注意した」からなのだ。

 このように、原文のnationに「国民」という訳語を機械的にあてはめていくと、第1段落の場合のように思わぬ誤解を招いたり、第3段落の場合のよう に滑稽な訳文になったりする。それでも「国民」という訳語が使われてきたのは、「訳語の統一」が強迫観念になってきたからだろう。

 おそらく、「国」ではなく「国民」と訳す理由はもうひとつあった。『国富論』を読む意味に関連する理由である。戦前には国家主義という時代風潮へのささ やかな抵抗として、アダム・スミスが研究され、読まれてきたという面がある。そのため、「国」ではなく「国民」だと解釈しようとしたのだろう。いまでは、 違った観点からアダム・スミスを読めるようになっている。

なぜ「諸国民」なのか
 以上ではnationの訳語として「国民」がふわさしいかをみてきたが、もうひとつ、nationsの訳語として「諸国民」が適切かという問題がある。

 この訳語に問題があることは、「諸国民」という言葉がどれだけ使われているかを考えてみればすぐに分かるはずだ。ほとんど使われていないというのが答え だろう。

 もちろん、ほとんど使われていないから訳語にふさわしいという考え方もありうる。前述のように、nationを「国民」と訳すと、人の集合体ではなく個 人を意味すると誤解される恐れがある。このように誤解されるのは、「国民」がごく普通に使われる言葉であり、『国富論』の翻訳に使われる場合とは少し違っ た意味をもっているからである。「諸国民」なら、ほとんど使われていないので、このような混同が起こる可能性が低いともいえる。だが、こう考えたときにど うなるかは、哲学の「難解な」翻訳書を読めばすぐに分かる。

 実際には、「諸国民」という訳語が使われてきた理由はかなりはっきりしている。竹内謙二は改造文庫版の例言で、こう述べている。

 訳文は厳正逐次訳主義を採る。複数か単数か、thatか、thisか、itか、 wasか、wereか、aか、theか、これら迄問題とされる本書に就いて、意訳は断然排斥すべきである。(同上10ページ)

 これを読むと、竹内が正式な書名を「諸国民の富の性質及び諸原因に関する一研究」とした理由がよく分かる。複数なら「諸」をつけ、aがあれば「一」をつ ける。これは昭和初めの訳文である。

 竹内謙二も戦後の1969年に出版された東大出版会版では、例言のうち、この部分を削除しており、正式な書名も「諸国民の富の性質及び原因に関する研 究」にしている。「諸原因」は「原因」になり、「一研究」は「研究」になった。唯一残った「諸国民」はたぶん、人の尾骨のようなものなのだと考えるべきだ ろう。機能や意味を失って、過去の翻訳のスタイルの痕跡が残ったものだと。

 竹内謙二は1969年の段階でおそらく、「厳正逐次訳主義」が不要になってきたことを感じ取っていたのだろう。当然である。原文はサンスクリット語でも ヘブライ語でもなく、英語で書かれているのだ。「複数か単数か、thatか、thisか、itか、wasか、wereか、aか、theか」が問題なら、原 文を読めばいい。翻訳書を読む理由はどこにもない。

 2005年のいまでは、「厳正逐次訳主義」が不要であることがもっとはっきりしたといえる。原文は英語だし、原著が訳書と変わらないほど簡単に、しかも 訳書の半分以下の価格で手に入る。原文にどう書かれているかを知りたいのなら、原文を読めばいい。翻訳書を読むのは、母語で読みたいからだ。自然な日本語 として読めるようでなければ、翻訳書の存在意義はない。

学者訳の克服
 ある種の翻訳に対する悪罵として、「学者訳」という言葉が使われることがある。英文和訳調、翻訳調の翻訳は「学者訳」と呼ばれて嫌われている。難しい言 葉を使った硬い訳文というのが、「学者訳」のイメージだろう。

 だが、たとえば2000年に出版された水田・杉山訳をみれば明らかだが、難しい言葉をまったく使わなくても、誰でも知っているやさしい言葉だけを使い、 漢字をなるべく減らして仮名を増やしても、それで「学者訳」から抜け出せるわけでない。水田・杉山訳の序論の第7段落から例をあげよう。2000年に発行 された初刷と2002年に発行された改訂版とで訳文に若干の違いがあり、改訂版には訳注がついている。原文は脚注に示した 。

……ある国民の政策は異常な奨励を農村の産業に与えてきたし、別の国民の政策は都市の 産業に与えてきた。(水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論』第1巻2000年版、岩波文庫、21ページ)

……いくつかの国民の政策は異常な奨励を農村の産業に与えてきたし、別の諸国民の政策は町†の産業に与えてきた。(水田洋監訳・杉山忠平訳『国富論』第1 巻2002年版、岩波文庫、21ページ)
† townを町と訳した。農村との対比では都市のほうがいいかもしれないが、cityを都市とすればtownは町しかない。……(同上448〜449ペー ジ)

The policy of some nations has given extraordinary encouragement to the industry of the country; that of others to the industry of towns.

 水田洋は「初刷が出てからわずか二年たらずで改訂する」理由として、初刷では「訳者の一周忌に間に合わせようとして作業を急いだため、訳語の統一につい て……十分に配慮することができなかった」からだと記している(同上447ページ)。「訳語の統一」に配慮した結果、「都市」を「町」に変えた。若干やさ しい言葉に変えたともいえるが、その結果、訳文は逆に理解しづらくなったといえるはずである。個々の言葉はやさしくても、全体としては、これなら英語の原 文を読むほうが楽ではないかと思えるような訳文になっているのだから。

 学者訳から抜け出すには、「厳正逐次訳主義」「訳語の統一」の呪縛から自由にならなければいけない。もっと自由に考え、もっと言葉に敏感にならなければ いけない。『諸国民の富』がThe Wealth of Nationsの正しい訳だなどと考えていてはいけない。
 
2005年11月号