後書きに代えて (2)
 山岡洋一

『国 富論』の魅力

 
 翻訳の理想のひとつは、原著に何も加えず、原著から何も除かず、原文にまったく忠実でありながら、原著者が伝えようとした点を過不足なく読者に伝えられ るようにすることだと思う。この場合、訳注や解説はないのが理想だということになる。訳注や解説に頼らず、本文だけで勝負する。これは容易ではないことが 多いので、訳文の完成度を高めなければならなくなる。

 このような翻訳の理想像を考えるのはたぶん、翻訳家という以外に何の肩書もないからだろう。日本では明治半ばからほぼ100年にわたって、各分野の専門 家が翻訳を行ってきた。翻訳は各自の専門分野で研究した成果を発表し、後進に伝えるために不可欠な手段であった。だから、翻訳書は本文、訳注、解説の3点 がセットになったものだという見方があったのだと思う。訳注と解説は訳者の研究の成果を披露するためにあるといってもいい。いまでは翻訳は各分野の専門家 の本務ではなくなっている。だからこそ、肩書の欄に翻訳家としか書けないものにも場が与えられるようになったのだが、だからこそ、翻訳とは訳注や解説に頼 らず、本文だけで勝負するという考え方があってもいいように思う。翻訳家は蘊蓄を披露する必要はない。黒子に徹して、原著を活かすことに専念できる。

 まして、今回訳したのは『国富論』だ。英語ではひとつの本についていくつもの解説や批判などが書かれるようになると、その本を巡って、ひとつの cottage industry(家内産業)ができたと表現されることがある。『国富論』の場合はこの決まり文句が使いにくいほど大量の解説書や研究書が書かれてきた。 だから、経済学者でも経済学史研究家でもなく、経済評論家ですらない人間が解説を書く必要などまったくない。とはいっても、『国富論』を訳したのは、それ なりの思いがあったからであり、この本を是非とも読んでほしいと思ったからだ。そこで、どこをどう読んで欲しいのか、感想めいたことを書いていこうと思 う。

不朽の名著としての『国富論』
 大内兵衞は戦争中に出版された『国富論』(岩波文庫)に50ページ近い「解題」を書き、その最後にこう述べている。

……やがては死ぬべき定めであろうが、なかなか死なぬのが彼スミスである。(アダム・スミス著大内兵衞訳『国富論』第5巻146ページ)

 名文家の大内兵衞らしい記憶に残る言葉であり、戦後に繰り返し引用されてきた。この有名な言葉をいま読みなおしてみると、時代の流れを感じる。大内兵衞 がこの解題を書いたのは昭和18年(1943年)8月であり、『国富論』が書かれてから現在までの230年で、この名著の評価がもっとも低かった時期にあ たっている。世間の見方では、アダム・スミスはもう時代後れだということになっていたはずだ。だからこそ、「やがては死ぬべき定めであろう」とお思いだろ うが、どっこい、「なかなか死なぬ」と論じたのだろう。

 なぜ時代後れだとされていたのかは、『国富論』の考え方を示すとされている言葉をみていけばすぐに理解できる。自由放任(laissez- faire)、自由市場(free market)、見えざる手(invisible hand)、夜警国家(state as night-watcher)などの言葉である。じつのところ、1000ページほどもある『国富論』の考え方をこれらの簡単な言葉で示すのは不思議な話で ある。これらの言葉のうち、『国富論』で実際に使われているのは、invisible handが1回(第4編第2章)、free marketが1回(第4編第8章)だけであり、laissez-faireとnight-watcherという言葉はまったく使われていないのだから、 ますます不思議である。それはともかく、これらの言葉で代表される考え方は、20世紀半ばには世界のどの地域でも流行らなくなっていた。

 20世紀半ばに流行していたのは、自由市場、自由放任ではなく、経済の計画と管理という考え方であった。市場ではなく、国家が主役だとされていたのであ る。この考え方は1970年代以降、行き詰まるようになり、1990年代に入ると、国家から市場に主役が交代したとみられるようになった。「市場原理」が 合言葉になり、アダム・スミスを引き合いにだすのが流行になった。スミスについて、「やがては死ぬべき定めであろう」と考える人はいなくなったといっても いい。『国富論』は時代を超えた不朽の名著であり、永遠に命をもちつづけると考えられるようになった。いま、「なかなか死なぬ」といわなければならないの はスミスではない。マルクスであり、ケインズであるのではないだろうか。

 だが、アダム・スミスをもてはやすようになった人たちははたして『国富論』を読んでいるのだろうか。「自由放任」という言葉だけで理解できるような書物 ではないことを知っているのだろうか。はなはだ疑問のように思えたことが、前回にも触れたように、『国富論』を訳したいと考えた理由のひとつであった。

「世の中学」としての『国富論』
『国富論』は経済学の源流だとされている。19世紀から20世紀にかけて、経済学が社会科学の一分野として確立していくとき、さまざまな学説が登場する が、そのいずれも、『国富論』を批判的に継承している。だから、『国富論』はすべての経済学説の源なのだ。だが、それだけではないように思える。

 アダム・スミスは経済学者ではない。肩書を嫌ったそうだが、普通は「元グラスゴー大学道徳哲学教授」とされている。「道徳哲学」というのは聞きなれない 言葉だが、moral philosophyを直訳したもので、「社会哲学」が正しい訳語だと思う。つまり、アダム・スミスは哲学者であり、そのなかでも、社会を対象とする哲学 を専門にしていたといえるだろう。

 だがこれでも、アダム・スミスの全体像は分からない。社会哲学とは何かは、『国富論』第5編第1章第3節第2項「青少年教育のための機関の経費」に説明 されている。スミスによれば、哲学は3つに分かれる。自然哲学、社会哲学、論理学である。そして、論理学という土台の上に、自然哲学と社会哲学の2つがあ るという構造になっている。また、『国富論』には明記されていないが、社会哲学も同じように3つに分かれていて、社会感情論(普通、「道徳感情論」と訳さ れているもの)という基礎の上に、いまの言葉でいえば、経済哲学と法哲学があるという構造になっている。

 いまでは「哲学」とは、文学部のなかのひとつの学科で学ぶものということになっているので、このスミスの体系も、人文科学のなかの一分野をさらに細かく 分けたものだと誤解されるかもしれない。だが、18世紀にはphilosophyとは、いまの言葉でいえば「科学」「学問」に近い意味をもっていたことを 忘れてはならない。アダム・スミスがいう自然哲学、社会哲学、論理学は、学ぶべきこと、研究すべきことの全体なのであって、一部門ではない。この3つの分 野で森羅万象のすべてを扱うのである。

 そして、スミスは社会哲学だけに関心をもっていたわけではない。グラスゴー大学の教授に就任したときには論理学を担当していた。また、若いころに書いた 「天文学史」というすばらしい論文があり、自然哲学の一部になるはずであった。だから、スミスが哲学の全体系、つまり当時の学問の全体系に関心をもってい たことは間違いない。

 社会哲学では、『道徳感情論』と呼ばれている著作があり(『社会感情論』と呼ぶべきだと思うが)、社会哲学の基礎を論じている。また、グラスゴー大学の 講義を学生が筆記したノートが見つかっており、『法学講義』などの題名で翻訳されている。ここでは社会哲学の残り2つの部分、仮に経済哲学と法哲学と呼ん だ部分の全体が論じられている。この2つの部分がどう分かれているかというと、法哲学が統治と正義の理論であるのに対して、経済哲学は利害と便宜の理論で あり、世の中の仕組みの全体を扱う。

 だから、『国富論』は経済理論だけを扱った本ではない。全体は5編からなり、第1編は生産と分配を扱うミクロ経済編だといえる。第2編は資本とその蓄積 を扱っており、マクロ経済編だともいえる。第3編はいわば経済史である。第4編は重商主義と重農主義の批判であり、経済学史であると同時に、経済政策論で もあり、時評という性格、具体的な政策提言という性格もある。第5編はいわば財政論だが、狭義の財政だけでなく、軍事、教育、宗教などについても論じてい る。

 それだけではない。第1編から第5編までの随所で、原始の時代から近代まで、あらゆる時代の歴史も扱っている。イギリスをはじめとするヨーロッパだけで はなく、アジアやアフリカ、中南米、北米など世界のあらゆる地域について論じている。当時はまだ鎖国の時代だった日本についても言及している。

 要するに『国富論』は、その後の時代に経済学と呼ばれるようになった学問で扱う分野を中心にしながらも、利害と便宜という切り口で、世の中の全体像を描 こうとした本なのである。

 アダム・スミスの時代から約70年後の19世紀半ばに『経済学原理』を書いたジョン・スチュアート・ミルが、『ミル自伝』の第7章でこう指摘している。 「経済学は社会哲学(social philosophy)の一分野であり、したがって他の分野と相互に結びついている。……経済学しか知らない人は、経済学すら分かっていないのである」。 専門化した一分野としての経済学に視野を限るのではなく、世の中の全体をみていこうとする姿勢は、その後もしばらくは、優れた経済学者に受け継がれていっ たようだ。21世紀の現在にはほとんどみられなくなったこの姿勢が『国富論』の大きな魅力になっている。

14歳からの社会哲学としての『国富論』
『国富論』の原文を読んでいると、じつに平易に書かれていることに驚く。そして、論文調ではなく、講義を筆記したものだという印象を受ける。原文の文章か ら浮かんでくるスミス像は、書斎にこもって執筆をしている姿ではなく、教壇を歩きながら丁寧に講義をしている姿なのだ。だから翻訳の途中で何度も、ですま す調に変えようかと考えた。結局は断念したが、ですます調の方が原文の雰囲気を伝えるのに適しているかもしれないという思いはいまでも残っている。

 アダム・スミスは1751年、28歳のときにグラスゴー大学の論理学教授になり、翌年に社会哲学教授に転じた。その後、1763年、40歳のときまで講 義を続けている。前述の『法学講義』を読んでも、この講義の際にはスミスの著書の基本的なスタイルができあがっていたことが分かる。

 スミスの原文がなぜ平易なのかは、当時の学生について考えていけば理解しやすいかもしれない。アダム・スミスが社会哲学を学んだのは、グラスゴー大学で フランシス・ハチソンの授業を受けてからである。スミスは当時としては大学に入ったのが遅かったというが、1737年、14歳のときに入学し、1740 年、17歳のときに卒業している。だから、ハチソンに学んだのは14〜17歳のときだ。ちなみにスミスの親友、デービッド・ヒュームは12歳でエディンバ ラ大学に入学しているので、スミスの大学入学が遅かったというのは確かだろう。当時の大学生はいまでいう中学高校生の年齢だったのである。もちろん、当時 の14歳といまの14歳が同じだとは思わない。当時は少なくとも学習という点で、いまより早熟だったのだろう。また、講義を受けていたのは学生だけではな く、大学院生や卒業生もいたという。それでも、14歳前後の学生に講義していたのは確かだ。だから『国富論』はいってみれば、「14歳からの社会哲学」な のだ。

読み物としての『国富論』
 14歳からの社会哲学という性格上、『国富論』は読み物としての魅力に満ちている。訳者の立場でとくに魅力を感じたのは、第3編「国による豊かさへの筋 道の違い」だ。第3編は主にローマ帝国崩壊後の経済史を扱っており、全5編のなかでもっとも短いが、読み物として読んだとき、ほんとうに面白い。とくに第 4章の「農村の発展に対する都市の商業の寄与」は訳書で15ページにも満たない短い章だが、中世の領主の支配が緩んで農村の住民が解放されていく過程を利 害という観点から説明しており、わくわくするほど面白い。

 もうひとつ、第5編「主権者または国の収入」、とくに第1章「主権者または国の経費」も読み物として面白い。何が面白いかというと、この編の主題だとい える財政論から脱線した部分だ。たとえば前述の第1章第3節第2項「青少年教育のための機関の経費」には、経費のことだけでなく、教育の内容や教育機関の 仕組みについての記述がある。「オックスフォード大学では教授の大部分は長年にわたって、教える振りをすることすらまったく止めている」という有名な言葉 もここにある。同じく第5編第1章第3節の第3項「生涯教育のための機関の経費」は、宗教を利害と便宜という観点から分析したものであり、じつに面白い。 この第2項と第3項から『国富論』を読みはじめる人がいても不思議ではないほどである。

時評としての『国富論』
 翻訳をしていて、『国富論』の全体でとくに力が入っていると思えた箇所、これが講義だとするなら、アダム・スミスがとくに力説したと感じられた箇所は、 第4編第7章「植民地」である。『国富論』初版が出版されたのは1776年だから、アメリカ独立戦争(イギリス側からみれば、アメリカ植民地の反乱)が起 こった翌年、アメリカ独立宣言がだされた年にあたる。まさに戦争が起こっているときに出版されたわけで、当時のイギリスにとってこれが最大の問題であった のは確かだろう。だから、植民地政策を論じるときに、アダム・スミスの声が大きくなるのは当然といえば当然だと思える。

 それだけではない。スミスはアメリカ植民地の反乱を鎮圧しようとしたイギリス政府の政策に反対し、アメリカ植民地と合併するか、そうでなければ植民地を 放棄するよう主張している。戦争の最中に戦争目的に反対する主張を行っているのである。

 この点は、『国富論』の性格をじつによく示していると思う。理論の書であるだけでなく、政策上の具体的な問題、それももっとも切実な問題を扱い、思い 切った政策を提言しているのである。理論を提示するとともに、その理論に基づいて具体的な政策を示している点はもっと注目されていいと思う。以前には『国 富論』を読むとき、いわば理論編である第1編と第2編だけに注目する人が多かった。第4編、第5編の現実的で具体的な政策論にもっと注目してもいいと思 う。

現実的な理論としての『国富論』
 以上のように、『国富論』は世の中の現実を出発点に理論を構築し、現実を分析し、現実的で具体的な政策を提案するという形をとっている。理論のための理 論を構築することはないし、単純な言葉だけですべてを割り切ろうとするようなこともない。いってみれば、「自由放任」「自由市場」などの言葉を金科玉条と する人とは正反対の姿勢をとっているのがアダム・スミスなのだ。

 現実を出発点に、現実を広く深く観察して理論を構築していく方法をとるのは、近代の科学では当然のことなのだが、哲学や社会科学の分野ではこのような方 法が「経験論」と呼ばれることがある。ロック、ヒュームなどのイギリスの哲学の伝統に根づいているので、「イギリス経験論」などと呼ばれることもある。こ の言葉はempiricismを直訳したものだが、おそらく、この語の類語であるexperienceと日本語の「経験」の意味のズレを意識していないた めに起こった誤訳なのだろう。英語のexperienceは「経験」よりはるかに幅広い意味をもっている。

『国富論』が出版された直後に、アダム・スミスには商工業の経験がないのだから、商売のことが分かるはずがないといった人がいたそうだ。経験がないから empirical studyができるという簡単な事実をその人は理解できなかったようだ。

 それはともかく、あくまでも現実に密着する『国富論』の方法は、いまの世の中を考える際に欠くことができないものである。230年前に書かれた本だか ら、もちろん、古いと感じられる部分もある。だが、それ以上に強い印象を受けるのは、現実感覚の鋭さではないだろうか。いまの世の中を知る上で、必読の本 だと思う。

 以下に今回出版された『国富論』の表紙画像を示した。表紙だけでなく、本文のレイアウトまで、じつに美しい本に仕上がっている。出版とは文化活動であ り、文化的な価値によって経済的価値を追求するものであることを示した担当編集者とデザイナーに深く感謝したい。

(2007年4月号)