翻訳業界イベント
河野弘毅
20周年記念JTF翻訳祭の企画意図

 
生まれ変わったJTF翻訳祭
諸事情により日本には翻訳関係の団体がいくつもあります。それらの団体のひとつである社団法人日本翻訳連盟(以下JTF)は、経済産業省許可の公益法人と いう位置付けを活かして、翻訳者・翻訳会社・翻訳発注元のいずれの立場からも参加できるところにその特色があると私は思っています。
JTFは毎年秋に「JTF翻訳祭」というイベントを主催してきました。著名な講演者を招待しての基調講演をメインに据え、翻訳者・翻訳会社・翻訳発注元が 議論するパネルディスカッション、講演、交流パーティという構成で20年近く継続してきた恒例行事ですが、今年は従来の構成を大きく変更してカンファレン ス形式で開催されます。筆者はこの行事の企画運営を担当する翻訳祭企画実行委員のひとりとして、一人でも多くの方にぜひ生まれ変わったJTF翻訳祭へ足を 運んでいただきたく、この場を借りて本年度翻訳祭の企画意図をご紹介します。

翻訳業界の「いま」を知る機会として
筆者はIT関係の翻訳(ローカリゼーション翻訳)に従事しているためにソフトウェア業界のカンファレンスに参加する機会がありますが、一日の参加でいろい ろな講師の話を自分で自由に選んで聞くことができ、なかなかよいイベントだと感じてきました。ひるがえって自分の本業である翻訳業界をみわたすと、世界の レベルではLocalization WorldやLISAなどの行事でカンファレンスが定着しており、日本でも日本翻訳者協会(JAT)が早々にこの形式での行事(IJET)を提供して今日 に至りますが、IJETは日英のネイティブ翻訳者を主たる対象とするイベントであり、自分のように英日翻訳に従事する翻訳者・翻訳業界人のためのイベント が日本にはないなあという不満をここ数年感じてきました。
それぞれの日常の仕事においては、翻訳業界人の誰もが手馴れた翻訳の一分野または一工程にかかわって仕事をこなしているわけですが、一年に一度くらいは自 分が生活の糧を得ている「翻訳業」という業界の全体がいまどんなことになっていて、明日どんなことが起きそうか、それを自分の目と耳で確かめられる(ある いはそんな気分が味わえる)イベントがあってもいいのではないか。そんな思いを昨年度のJTF翻訳祭でアンケートに記入して提出したところ、アンケートを 読んだJTF翻訳祭企画実行委員会の皆さんが寛容にも提案を受け入れてくださり、今年度の委員として企画運営に直接携わる機会を得ることができました。
その後の準備では数え切れないほど多くの方がいろいろな側面から知恵と力を貸してくださり、12月には新しいカタチのJTF翻訳祭が実現するところまでこ ぎつけました。企画の趣旨をご理解くださりご協力くださったすべての方に心から感謝します。

ツールの知識を更新する機会として
私はIT翻訳という仕事がら、翻訳支援ツール(特に近年は機械翻訳の関連ツール)の動向には仕事上も個人的にも大きな関心を持っています。多くの翻訳業界 人にとって翻訳支援ツールの動向を掌握するうえでの泣き所は、ここ数年で以前とは比較にならないほど翻訳支援ツールの種類も数も増えてしまい、メルマガを たまに読むくらいではとても最新のツール事情に追いついていけない状況になってきたことでしょう。
かくなる上はそれぞれが一人で思いつめて勉強するより皆で教えあって知識を分かち合うのが誰にとってもよいことだろうというわけで、今年度のJTF翻訳祭 ではセッションの約半数を翻訳支援ツールとその技術に関連する内容に設定しました。今後も毎年このカンファレンスを継続して「年に一度JTF翻訳祭に参加 すれば翻訳支援ツールに関する自分の知識も時代遅れにならずにすむ」と皆さんから言われるイベントに育てることが私の夢です。

知らない<他者>と知り合う機会として
ツイッターやFacebookに代表されるSNSの普及もあって、ますます人のつながりにネットが介在する時代になってきましたが、やはりなんらかの形で 生身の他者と出会うことが人間にとって大きな喜びの(ときには苦しみの)源泉であることは誰もが経験から知っているとおりです。
翻訳業界においても仲間内の勉強会や講演会などを通じてリアルに人と会う機会がいろいろあると思いますが、翻訳者であれ翻訳会社の社員であれ日常の人間関 係は翻訳業界内のごく狭い範囲内に限られる場合が多いかと思います。一年に一度くらいは、今まで翻訳業界の中にいて自分が知らなかった<他者 >と出会う機会があってもいいのではないでしょうか?
ここで<他者>というのは人格に限らず、別分野の翻訳や、翻訳に関連する学問や、専門外の書籍かもしれません。たとえばアカデミックな側面だ けをとりあげても翻訳は翻訳学・言語学・自然言語処理などの互いに独立した学問領域と深いかかわりがあり、日常業務をこなすだけならとりあえず必要ないと 考えていた学問領域に日常の問題を解決するヒントが隠されていることもあったりするのが言葉の世界の奥深さかと思います。多様な立場からの参加者・講演者 を受け入れるJTF翻訳祭を介して、これまでは知らなかった<他者>と出会っていただければさいわいです。

翻訳業界に自分や自社をPRする機会として
今年は聴衆の立場で参加してくださった方の中から、来年度以降のJTF翻訳祭の講演者が現れることを期待しています。JTF翻訳祭のカンファレンスで講師 として発表することが翻訳業界全体にあなたの存在をアピールする好機になります。
また、新しいカタチのJTF翻訳祭が今後業界イベントとして発展していくことは翻訳業界における展示会としてのイベント価値が増すことにつながり、翻訳支 援ツールの開発企業や翻訳会社で営業や採用を担当しておられる方にとっては市場にアクセスして自社のサービスや製品をPRする好機となります。

ここまで充実した内容で6,500円
基調講演は日本における翻訳学の草分けの一人である水野的さん(日本通訳翻訳学会副会長)にお願いしました。この講演が翻訳業界と翻訳学会が今後お互いを より深く知っていくよい契機となることを願っています。
パネルディスカッション1では、社会言語学者の鈴木義里さん(大正大学准教授)をナビゲーターに迎えて「英語公用語化」をテーマに取り上げます。今年は有 名企業の社内公用語として英語が採用されたことが話題になりましたが、これまで受注産業として自ら市場を創造することがなかった翻訳業界にとって英語公用 語化は市場創造の契機になり得るという前向きの問題提起を含む意欲的な企画です。
パネルディスカッション2は、例年の翻訳祭でも人気のある定番企画として各分野で実績のある翻訳者の方たちの座談会を用意しました。なんといっても翻訳業 界の主役である翻訳者という職種のベストプラクティスとして参考にしていただければと思います。
トラック1&2「翻訳業界分科会」は、産業翻訳の各分野における新たな需要の動向とその開拓方法を、翻訳会社と翻訳発注元が対話する形式で提示す るというコンセプトに基づいて企画しました。自社の顧客を他社の目前に紹介するのは翻訳会社にとって慎重な判断を必要とすることですが、企画の趣旨に賛同 して顧客企業とともにご登壇くださる翻訳会社の皆様には感謝と敬意を表させていただきます。
トラック3&4「支援ツール分科会」は、前述したとおり発展の早いこの分野の最新状況を眺めて知識をアップデートしていただく企画ですが、市場の 動向をふまえて機械翻訳に関連するセッションを4つ用意しています。
企業が製品などを展示する「翻訳プラザ」も過去最高の出展数になりました。制限言語ツールや統計的機械翻訳ツールなど今年初めて登場するソリューションも あり、過去最高の充実度です。
以上駆け足で今年度のJTF翻訳祭の内容をご紹介しましたが、いずれのセッションも単発でセミナーとして成立するような濃い内容を一同に集めて一度に話が 聴けて6,500円(JTF会員は5,000円)とは間違いなく「お買い得」であると自負しています。

ご参加をお待ちしています
今年JTF翻訳祭は20周年企画ということで未知の事業であるカンファレンス形式での開催に挑戦しました。今年度のJTF翻訳祭が事業としてもしも赤字に なれば来年度以降はカンファレンス形式での開催が難しくなる可能性もあります。カンファレンス形式のJTF翻訳祭を定着させるためにも、今年度の参加者数 が目標数を上回りイベントとして採算がとれることを実証する必要があります。生まれ変わったJTF翻訳祭にぜひお越しください。皆様のご参加を心からお待 ちしています。

謝辞
最後になりましたが、翻訳祭企画実行委員会の東郁男さん(竃|訳センター代表取締役社長、JTF会長)、川村みどりさん(叶村インターナショナル代表取 締役、JTF理事)のご理解とご協力、寺田大輔さんをはじめとするJTF事務局スタッフの皆さんのご尽力に深く感謝します。翻訳者の山岡洋一さんからは企 画上の重要事項を左右する貴重なアドバイスを頂きました。あわせてお礼申し上げます。
なお、この記事の内容はすべて筆者の個人的見解であり社団法人日本翻訳連盟を代表するものではないことをおことわりします。
(2010年11月号)