出版不況のなかで
山岡洋一

原点に戻る
 
 出版翻訳とはどういう仕事なのだろうか。理想像を記してみよう。

 毎朝早く、腰に弁当と水筒をぶらさげ、仕事道具の入ったリュックを背負って出かける。1時間ほど山道を歩くと目的地につく。そこは岩場だ。足場をかため た後、リュックからタガネやハンマーを取り出し、一文字ずつ彫っていく。ここに彫っておけば読んでくれる人がいるだろう。そう信じて、日が暮れかかるまで 作業を続ける。報酬はなし。そんなことより、読んでほしい文章を残すことの方が重要だ。

 もちろん現実は違う。毎朝出かける先は岩場ではなく事務所だ。訳文は岩に彫っているのではなく、パソコンに入力している。そして、出版されれば、たいて いは少ないものの、印税収入がある。だが、理想像はこうだ。

 何よりも、出版翻訳は、読者に読んでほしいものがあるから成り立つ仕事だ。そして翻訳にかける時間はせいぜいのところ数か月から数年だから、それほど長 くないが、ほんとうに読んでもらいたいと思うものなら、原著者は岩に一文字ずつ彫っていったのと変わらないほど時間をかけているか、少なくともそのような 意気込みで書いている。出版とは本来そういうものなのだ。これだけは伝えておきたいという点を書く。一生をかけて、ときには命までかけて書く。いま、わた したちが古典と呼んでいるもの多くはそういう本だ。そして、ほんとうに訳す価値があるのは、そういう本である。新刊のなかでも素晴らしい本だと感激するの は、そういう本だ。

 そんな本がどこにあるのかと思うかもしれない。いまでは日本だけで、年間に8万点もの本が出版され、翻訳書だけでおそらく5千点以上が出版されるのだか ら、そう思うのも無理はない。だが、本とは本来、こういうものだ。著者が岩に一文字ずつ彫っていく気持ちで書いたもの、この点にこそ本の魅力がある。本と いうものに権威があるとすれば、この点にこそ源泉がある。

出版翻訳の現状
 こんなことを考えるのは、出版翻訳が急速に苦しくなってきたからだ。

 いまから20年ほど前、フリーの翻訳者になったとき、最初にもらった仕事は、定価が1800円、印税率が8%、初版部数が3万部だった。当時としては、 部数が飛び抜けて多かったわけではない。大手だと、単行本の初版部数は最低でも1万部から2万部といったところだったからだ。これなら生活費は稼げると 思った。そのうえ、10年我慢すれば、増刷だけで食べていけるようになると、ベテランの翻訳家に励まされた。

 20年ほどたってどうなったか。大手の出版社ですら、初版部数が1万部を超えるのは例外的になった。最低初版部数は3千部から4千部にまで下がってい る。定価は若干高くなったが、印税率が全体にかなり下がっている。20年前には新人でも8%が当然だったが、いまではベテランにすら8%はださない出版社 が少なくないようだ。1点当たりの印税収入が平均して3分の1程度になり、食べていくのが難しくなってきた。10年たったら増刷で食べて行けるという話は どうなったか。これはもう笑うしかない。

 要するに、出版翻訳は経済的に成り立たない状況に急速に近づいているのである。

 出版翻訳者が苦しくなった状況で、出版社が高収益を謳歌しているなどということがあるはずがない。出版社にとっても、翻訳出版の採算はかなり悪化してい るはずである。翻訳出版だけの統計はないようだが、書籍の市場規模がピークになったのは1996年だ。その後に市場規模は約20%縮小し、出版点数は約 50%増えている。1点当たりの販売金額はほぼ半分になった計算になる。出版事業は景気循環型だから悪い時期もあれば良い時期もあると出版業界は考えてき たのだろうが、いまでは悪い時期が10年以上も続いて、出口がみえてこない。

 出版翻訳者も出版社も苦しい状況で何を考えるべきか。

売れそうな本は……
 本が売りにくくなっている状況では、どんな本でもいいというわけにはいかない。読者の目線で考え、読者の好みをしっかりと把握して、売れる本を出版しな ければいけない、といわれている。もっともだと思えるが、いくつかの点を考えてみるべきだろう。

 まず、売れた本があると、どの出版社も同じジャンルに殺到する。類書が溢れるので、実際に売れる確率は逆に低くなりかねない。また、どのジャンルでも一 人勝ちの傾向が強まっている。売れた本があると、同じジャンルの全体が活気づくのならいいのだが、なかなかそうはならない。一匹目のドジョウが大きすぎ て、二匹目が生きる余地がなくなっている。二匹目が釣れても、小さく痩せ細っている。

 また、読者は読みやすくて分かりやすい本を求めるとされているので、本の質が低下している。読者の目線で本を作るというが、その結果、著者も編集者も翻 訳者も自分では読みたくない本、わたしはこんな本を読もうなどとは思いませんがねといいたげな本が増えている。こういう傲慢な姿勢が読者に見透かされない はずがない。人は誰でも向上心をもっている。自負心もある。安易に書かれた本で満足できるはずがない。そして、自分の愚かさを自覚しているのが普通だが、 それでも馬鹿にされると腹が立つ。カネを支払って馬鹿にされるのではかなわない。

 そして何よりも、売れそうだと思う本は、原著者や編集者や翻訳者がほんとうに好きではない種類のものであるのが普通だ。だから、ほんとうのところ、熱意 をもって取り組むことはできない。作り手の側に本物の熱意がないのなら、読者の熱意や感動を期待することはできない。そんな本が売れるほど世の中甘くはな い。

 いや、そういう本が売れているのだという意見もあるだろう。いまの世の中では、質の高い商品が売れるとはかぎらない。売れるのは、売れている商品なの だ。他人が買うから自分も買う。それに、大ベストセラーになるのは、普段は本を読まない層が買う本だ。だから、そういう本がたしかに売れていたりする。そ の結果、何が起こっているのか。出版物以外の商品について考えてみればすぐに分かるはずだが、みんなが買っているという理由で買うと、たいていは後で後悔 する。二度と買わないぞと思う。だから、質の低い本が100万部売れたとすると、99万人がもう本は買わないと考えている可能性もある。

 要するに、売れそうな本を出版しよう、翻訳しようなどと考えない方がいい。出版社の立場では売れ筋の本を大量に出版して、確率は低くてもヒットが生まれ る可能性に賭けることもできる。一人勝ちの大ヒットがあれば、傾いた社運を一気に立て直せる可能性もある。その結果、市場が荒れても知ったことではない。 だが、編集者と翻訳者の立場は違う。編集者が年間に扱える点数には限りがあるし、翻訳者ならその何分の1かしか翻訳できない。確率勝負は分が悪すぎる。

原点に戻る
 ではどうすべきか。答えはたぶん、はっきりしている。苦しいときには原点に戻るべきだ。

 編集者も翻訳者も、出版の仕事にたずさわっているのは、本が好きだからに違いない。本には何ごとにも代え難い魅力がある。他人がどう思おうと、自分はそ う感じている。だから、素晴らしい本を読者に届けたいと願っている。また、読書が万人向きの趣味ではないことは、十分に分かっている。だから、万人向けの 本を作ろうとは考えない。何よりも自分がほんとうに読みたいと思う本を作りたい。これが原点のはずだ。

 編集者や翻訳者として多忙な毎日をすごすなかで、こうした原点は忘れてきた場合が多いのではないだろうか。翻訳者の場合には、編集者からの発注があって はじまる仕事なので、受け身の姿勢になりやすい。スケジュールが一杯であれば別だが、そうでない場合には、打診を受けて断ったら声がかからなくなるのでは ないかという恐怖感がある。そこで、打診があれば原則として受ける。そうしていると、自分が希望する種類の本を翻訳する機会はなかなかない。希望から遠ざ かっていくばかりという場合だってある。

 編集者の場合には、たいていは勤め人だから、売れる本を出すように求める圧力を受ける。たとえば、独りよがりになってはいけないといわれる。自分が読み たいと思う本を作るのは独善的であり、そういう考えを改めて万人向けの本を作りなさいということのようだ。出版は文化事業ではないともいわれる。採算を考 えろということのようだ。だが、過去10年以上、採算を重視して万人向けの本を出版しつづけてきた結果が、いまの状況なのである。そろそろ、こういう空虚 なおしゃべりを止めて、出版の原点に戻るべき時期なのではないだろうか。

 断言するが、出版は文化事業である。文化に貢献してはじめて、事業としての存在意義が確保できる。文化に貢献してはじめて、採算がとれるようになる。ま ずい料理を出していてはレストランが成り立たないように、文化的な価値が低い本ばかり出していれば出版社は成り立たない。

 また、出版にかぎらずどのような事業でも、金儲けとか採算とかを第1の目標にしていれば、いずれ破綻する。自動車には興味がないが、金儲けが大好きだと いう人間が集まっていれば、自動車会社の経営はうまくいくはずがない。採算を最優先にする小売店は客が入らなくなる。こういう例は世の中にいくらでもあ る。嘘だと思ったら、いくつもの出版社が競って出版している経営書を読んでみればいい。そういう実例がいくらでもあげられている。

 自分の親に、配偶者に、子供に、友人に、恩師に、誇りをもってみせられるような本を作っているだろうか。作っていないのなら、原点に戻ることを考えるべ きだ。

本の魅力を取り戻すために
 翻訳書では、原著の価値が何よりも重要だ。原著者が岩に一文字ずつ彫っていく気持ちで書いた本、そういう本だけを翻訳し、出版するようにするべきだ。時 の試練を受けて生き残っている本、古典と呼ばれる本には価値が高いものが多いので、当然、翻訳出版の対象になる。だが、それだけではない。比較的新しい本 にも、価値の高いものがたくさんある。自分がいま、ほんとうに読みたいと思う本を選んでいけば、熱心な読者はかならずいる。

 それには、少数派であることを恐れないようにしなければならない。周囲を見回してみれば分かるはずだが、読書は趣味であり、趣味は読書だという人はせい ぜい1%ほどしかいない。仕事上、どうしても本を読まなければいけないという人はもう少しいるだろうが、ほんとうに核になる読者はこのくらいだ。まったく の少数派なのだが、それでも日本語の本では120万人を超える読者がいることになる。出版の市場としては十分な規模だ。この強い読者層に支持される本を出 版しようと考えれば、少数派であることを恐れる理由はなくなる。

 下戸に酒を売ろうとしてもうまくいかない。酒を売りたいのなら酒好きに売るにかぎる。読書嫌いに本を売ろうとしてもうまくいかない。分かりやすく読みや すい本で読者を増やそうなどと考える必要はないのだ。

 少数派に焦点を合わせるのであれば、本の設計が変わってくるはずだ。たとえば、定価2000円の本が1万部売れたら、いまの状況ではまずまず成功だとい えるはずだが、それを狙うぐらいなら、定価1万円の本を2000部売ろうと考える方がいい。あるいは、定価10万円の本を200部売ればいい。

 もちろん、定価2000円の本とは違って、定価が1万円以上の本を作るのは簡単ではない。美しい本でなければ、そこまで高いものは買ってもらえない。だ から苦労する。だが、楽しい苦労ではないだろうか。編集者の立場では、原価を少しでも削って利益をだそうと苦労するより、はるかに楽しいはずだ。

 翻訳者は、出版翻訳の採算を、これまでとはまったく違う観点から考えなければならないかもしれない。原著者が岩に一文字ずつ彫っていく気持ちで書いたも のを訳すと、これまでの何倍もの時間がかかる。たとえば、産業翻訳で生活費を確保して、出版翻訳では採算を度外視するべきかもしれない。ほんとうに読者に 伝えたいものを訳すのであれば、それぐらいの覚悟は必要だ。

 だが、出版社の側も翻訳者の採算を考慮すべきだろう。生活費を確保できない程度しか支払いができないのなら、翻訳専業の人に依頼するべきではない。実力 のある翻訳者は他の職に移っていき、出版翻訳の質が低下していく。少し長期的にみるなら、自分で自分の首を絞めるような行為なのだ。まともな報酬を支払っ ていては採算がとれないというのなら、昔に戻って、大学教授など、定収入のある人に翻訳を依頼すべきだ。

 以上を読んで、なんて古い人間なのだろうと思われたかもしれない。そう、出版翻訳に一生を賭けようなどと考えるのは古い人間なのである。時代の最先端に 位置したいのなら、とうの昔に他の仕事に移っている。時代の流れとやらに背を向けて、ほんとうに価値が高いと信じる仕事を続ける。ほんとうに世の中の役に 立つと信じる仕事を続ける。そう思っていなければ出版翻訳はできない。

(2009年11月号)