出版の現状
山岡洋一

冠をつけよう
50年読みつがれる翻訳、100年読みつがれる著書



  ここ何年か、出版の世界では二極化が進んでいるように思えた。一方で100万部を超える大ヒットがごく少数ながらある一方、大部分の本は売 れなくなっていた。10年前なら2万部は売れたはずと思える本が5000部ほどしか売れなくなった。5000部だった本は2000部も売れなくなった。

 今年は様子が少し変わった。二極化が解消に向かっているようなのだ。それはいいことではないかと思えるかもしれないが、要するに100万部を超える大 ヒットがほとんどなくなって、どの本も売れなくなっているようなのだ。今年はひどいというのが、たいていの出版関係者の意見だ。

 今年もひどいというべきだろう。去年も、ハリポタを除けばひどかった。来年もたぶん、ハリポタを除けばもっとひどいだろう。少なくとも何年間かは低迷が 続くのではないだろうか。出版業界が近く元気を取り戻すと予想できる要因は見当たらない。逆に、悲観的に考えるしかないと思わせる要因がいくつもある。

 悲観的になるのは何よりも、出版業界が勝てるはずのない戦を戦っているように思えるからだ。「分かりやすくて読みやすくて短い本」「二時間で読める本」 が売れると考えている。出版社がそう考え、書店がそう考えている。しかし、そんな本では書籍という媒体の良さが活かせるはずがない。分かりやすさや取っつ きやすさを競っていては、雑誌や新聞に勝てない。テレビやラジオに勝てない。インターネットに勝てない。携帯にすら勝てない。書籍という媒体の強みはまっ たく正反対のところにあるはずだ。

 書籍の良さは、新聞や雑誌の記事を読んだぐらいでは、テレビを観たぐらいでは、講演を聞いたぐらいでは、インターネットで調べたぐらいでは、とても味わ えない感動を味わえる点、とても理解できない難しい問題を考えることができる点にこそある。再読し、三読し、何回読んでも新しい発見があり、新しい感動が ある、そういう深みにこそある。若いときに読んだものを老人になってまた楽しめるのが本の良さだ。「分かりやすくて読みやすくて短い」ものがいいのなら、 雑誌や新聞にかなうわけがない。テレビやラジオにもかなわない。

 書籍という媒体の強みを活かした本を出版し、売っていかなければ、出版業界はいまの苦境を抜け出すことができないだろう。行き詰まったときは成功例をみ るのがいい。成功例をみれば、行き詰まりを突破する方法を考えるときのヒントが得られるかもしれない。他の業界の成功例をみるのもいいし、外国の成功例を みるのもいい。だが、国内の出版業界にも成功例はある。それもとんでもなく意外なところに。

 この文章を覚えているだろうか。

 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自 ら望む。

 そう、岩波茂雄「読書子に寄す−岩波文庫発刊に際して」(昭和2年)の冒頭部分だ。岩波文庫の最後にかならず入っているので、読んだことはなくても、見 覚えのある人が多いのではないだろうか。

 岩波書店といえばいまでは見る影もないが、岩波茂雄の時代にはもちろん違っていた。明確な理念と使命感を掲げ、誇りのもてる商品を思い切った低価格で提 供し、強力なブランドを確立し、収益性が高く、永続する事業を築き上げた。ビジネス・スクールの事例研究に取り上げられても不思議ではない成功ではないだ ろうか。

 とくに岩波のブランド力はすさまじかった。ある種の権威になり、絶対的な権威にすらなった。岩波書店から著書や訳書をだしてもらえるようになれば、一流 の仲間入りができたといえるほどであった。だが、権威は堕落する。絶対の権威は絶対に堕落する。いつしか権威に内容が伴わなくなり、やがて、王様が裸であ ることに読者も気づくようになり、さしもの販売力が衰え、収益性が悪化して、存続すら危ぶまれるほどになった。岩波はどうなっているのかと、業界の事情通 に聞いてみた。「敗北を抱きしめているところだ」という。「大往生」の夢を追っているという意見もあるそうだ。なるほど。

 いまは敗北を抱きしめているとしても、岩波茂雄が作り上げた事業が少なくとも数十年にわたって成功を収めたことはたしかだ。新しもの好きが使いたがる言 葉を強いて使うなら、岩波の「ビジネス・モデル」が数十年にわたって有効だったことはたしかだ。経営の王道を歩んでいたこともたしかだ。理念、ビジョン、 使命感を掲げた「読書子に寄す」が古臭いと感じる人は、最新の経営書を読んでいないに違いない。アメリカの最新の経営理論で欠かせない要素になっているの がまさに、理念、ビジョン、使命感なのだ。岩波茂雄は75年も前に、それを見通していたかのように、自社の製品の一点ずつにいうならば「ミッション・ス テートメント」を掲げる方法をとっていたのだ。アメリカの優良企業でも、自社製品の一点ずつに理念を書き込む方法まではとっていない。経営のグルが岩波の 事例を知ったら、たぶん感激するはずだ。

 出版市場の荒廃が鮮明になってきた今の感覚で読むと、「読書子に寄す」は新鮮ですらある。「外観を顧みざるも内容に至っては厳選最も力を尽くし」という 言葉は、著者の権威や知名度に頼って内容を顧みざる出版社や、内容を顧みざるもタイトルと装丁に至っては厳選最も力を尽くしている出版社に読んでもらいた いと思う。岩波茂雄が掲げたのは、文化事業を担う出版社の使命であり、理想である。

 出版は文化事業だ。そういうと、とんでもない、営利事業だという反論がすぐに返ってくるはずだ。とんでもない、うちは漫画や下品な本、お手軽なノウハウ 本ばかりだしていますから、という意見もあるだろう。だが、売れない本も文化なら、売らんかなの本も文化、権威とやらに衣装を着せた本も文化なら、下品な 本も文化、漫画も文化(それもすぐれた文化)、タレント本も文化だ。もちろん、お役所言葉の文化事業、つまり文化の名のもとに箱物を作ったり、イベントを 開いたりするのに税金を注ぎ込む事業とは違う。だが、出版事業が文化を対象とした事業であるのは確かだ。

 問題はもちろん、少し違ったところ、文化的な価値と採算とは矛盾すると考えられているところにある。大手の出版社でいえば、第一線の編集者はたいてい文 化的な価値を重視する。誇りをもてる本を作りたいと願っている。管理職や経営陣は採算に責任を負っているから、売れる本を作れと現場に圧力をかける。これ に似た図式が大手出版社と小規模な出版社の間にもある。大手出版社は売れる本を目指す。小規模な出版社は採算を無視して、少なくとも著者・訳者と経営者兼 編集者の人件費を無視して、マイナーな本をだす。

 岩波茂雄の言葉はまさにこの点で新鮮だ。「生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室より解放」すると宣言しているのだ。つまり、文化的な価値が高い本を 「少数者」に届けるのではなく、「民衆」に届けると宣言しているのだ。「その性質上経済的には最も困難多きこの事業」がやがて、収益性の高い事業になった のは、この姿勢があったからだ。文化的な価値を高く掲げることで、経済性を確保したのである。

 繰り返すが、これが古臭いと思うのであれば、最新の経営理論を知らないのだ。経営は結果がすべての世界だ。経営の善し悪しは結果によって、つまり収益性 によって判断される。儲かる経営がすぐれた経営である。だが、利益のために利益を追求する経営姿勢ではうまくいかないというのがアメリカの最新の経営理論 で常識になってきた。ビジョンと理念の実現が目的であり、利益は手段にすぎない。手段でしかない利益を目的にした経営は悪循環に陥って、利益をあげられな い。だから、最新の経営理論では、利益を増やす方法よりも理念やビジョンに注目するようになっている。もちろん、崇高な理念を掲げていても、高収益の事業 を構築できないのであれば、肝心の理念を実現できない。売れなくても良書をだすという姿勢では、良書をだせないし、良書を読者に届けることができない。理 念と経済性を両立させるのが経営なのだ。

 出版業界でこの経営理論を活かすとすれば、文化事業としての出版の意味をもう一度考え直し、関係者全員が誇りをもてる本、情熱をもって取り組める本を、 幅広い読者に向けて出版し売っていくことを考えるしかない。書籍という媒体の強みを活かせるものを出版し売っていくしかない。書籍という媒体の強みを活か さず、「分かりやすくて読みやすくて短い本」「二時間で読める本」で大ベストセラーを狙うやり方では、出版の市場が荒れていくばかりだ。

 岩波なんぞの例をだすから誤解されるかも知れないが、誇りをもてる本、情熱をもって取り組める本とは、いわゆる「良書」であるとはかぎらない。どんな ジャンルでも、誇りをもてる本を情熱をもって作ることはできる。本物を作ろうとせず、お手軽、お気楽に作ろうとするから、誇りも情熱ももてなくなるのだ。

 ではどうすればいいのか。出版業界の現状では、「50年読みつがれる翻訳、100年読みつがれる著書」を目指すのが最善の方法であるように思える。年間 に8万点も出版される本のなかで鮮明な差別化をはかり、新たなブランドを築いていくには、長く読みつがれる本を目指すのが最善だと思えるのだ。

 長く読みつがれていく本を目標にしていれば、何点かに1点はほんとうに長く読みつがれる本になるだろう。そういう本が増えれば、長期的にみて収益性が高 くなるはずだ。既刊本で儲けるのは、もちろん出版事業の基本であり、基本に戻るのはいつでも一番確実な方法である。

 だが問題もある。長期的にはどうであれ、長期的にはわれわれは皆死んでいるという有名な言葉もある。長期的には高収益になる可能性が高い事業でも、短期 的に採算が取れないのであれば、実現するはずがない。短期的な実現可能性を考慮すれば、長期にわたって読みつがれる本は、よほどの幸運に恵まれないかぎり でてこないだろう。

 長期的にみれば高収益になる可能性があっても、短期的にみればまったく採算が取れないというギャップを何らかの方法で埋めなければ、「50年読みつがれ る翻訳、100年読みつがれる著書」を目指すことはできないように思えてならない。ギャップを埋める方法はあるのだろうか。

 短期と長期のギャップをどう埋めるのかを考えるとき、まずは当然ながら、ギャップの性格を把握しなければならない。長期にわたって読みつがれる本を出版 するのが短期的な採算という点から難しいのはなぜか。

 短期的な採算を出版会社にとっての採算という観点だけから考えていては、答えはでてこない。出版という事業は、何部売れなければ採算が取れないというよ うなものではない。極端にいえば、部数は10部でもやり方しだいで採算がとれる。方法は簡単、定価を上げればいい。だからたとえば、部数が減っているので あれば、定価を上げてオン・デマンドで出版しようという話になる。売れもしない本を大量に刷って在庫をかかえるから赤字になるので、注文を受けたときに注 文の部数だけ刷ればいい。これで採算が取れる定価にしておけば、出版社にとってリスクがなくなるというわけだ。出版社の採算という観点だけからみれば、 まったく正しい答えだ。だが、肝心な点を忘れている。

 肝心な点とは、著者・訳者がいなければ出版事業が成り立たないことだ。そして、著者・訳者は霞を食って生きているわけではない。部数を絞り込み、極端な 場合はオン・デマンドで出版すれば、たしかに出版社はリスクを負わないかもしれないが、著者・訳者は食べていけなくなる。だから質の高い原稿はでてきにく くなる。自費出版でも本をだしてみたい人は多いので出版社の自費出版部門は栄えるだろうが、本筋の出版部門は先細りになりかねない。

 この点にこそ難しさがあるのだ。長期にわたって読みつがれる本をだすには、著者・訳者がそれに値する仕事をするしかない。ところが本がここまで売れなく なると、長期にわたって読みつがれる本を書くか訳すのが難しくなっているのだ。

 岩波はこの問題をどう解決したのだろうか。簡単な解決策をとっていた。岩波というと反体制というイメージがあるので不思議だと思われるかもしれないが、 著者・訳者の生活をお国に保証してもらっていた。大学教授の肩書をもらい、一生の生活を保証されて、長く読みつがれる本を書くか訳す余裕を得ていた人た ち、その見返りとして、価値が高い本を書くか訳す責任を負っていた人たちが、岩波文化を支えていた。同時に、お国が与えた大学教授という肩書が、岩波の権 威を支えていた。昭和の初めまでの時代には、お国の生活保証と権威が文化を支えていたのだ。岩波は国家が文化を支える時代背景をうまく利用して事業を築 き、そのような時代背景が消えるとともに、衰退への道を歩むようになった。その点で岩波茂雄も時代の子たるを免れえなかったといえるだろう。

 今は時代が違う。お国に生活を保証された人たちが長く読みつがれる本を書くとも訳すとも期待できなくなっている。著者や訳者の多くは生活の保証がないの で、短期志向でなければ食べていけなくなっている。生活費を他の方法で稼ぎながら、それもたいていは不安定な方法で稼ぎながら、著作や翻訳に取り組んでい る人も多い。

「50年読みつがれる翻訳、100年読みつがれる著書」を目指すには、著者・訳者の生活をある程度まで支えられる仕組みを考えるべきだと思う。著者・訳者 の収入は印税の後払いが常識だが、アメリカの出版界の常識にならって、前払い(アドバンス)の方式を取り入れれば、長く読みつがれる本がでてくる可能性が 高まるように思う。たとえば5年から10年の期間に期待できる印税が前払いされる仕組みがあれば、著者や訳者はじっくりと仕事に取り組める。

 もちろん、いまの出版社にはこのようなアドバンスを支払えるような余裕はない。原稿がほとんど完成しているときに、初版印税の範囲内である程度の前払い に応じてくれる場合があるだけだ。

 景気がうんと良くなれば、出版社が雑誌部門の広告収入を活用してアドバンスを支払えるようになるかもしれない。だが、景気が良くなるよう期待するのは愚 かなことだ。それに、雑誌部門は長年にわたって出版部門の赤字を吸収する役割を担わされてきたので、長期的な採算はどうであれ、短期的にさらに大きな負担 を負うことを快く思うはずがない。アドバンスの方式を取り入れるのであれば、まったく違った方法を考えるしかない。

 そこで一案になるのが、冠〔かんむり〕をつける方法である。冠をつけるとは、スポンサーを見つけてその名前を冠することだ。文化事業では、ほとんどの分 野でこれが常識になっている。たとえば舞台芸術では、どの分野にも企業名を冠した公演が多い。プロ・スポーツはほぼすべてこれで成り立っている。人気があ り、入場料収入が見込める野球やサッカー、ゴルフすらも、冠がなければ成り立たない。

 活字メディアでも、新聞や雑誌は広告収入で成り立っている。書籍だけがなぜか、販売収入だけで採算を取るように求められている。もっとも書籍に広告を入 れるのはそう簡単ではない。広告は普通、短期的なものという性格があるからだ。長く読まれることを目標にする本に広告を入れても、読者が手に取ったときに はすでに、広告が古くて意味をもたなくなっていることになりかねない。だが、冠なら可能だ。スポンサー名を冠するのが冠だ。社名はそう簡単には変わらない し、個人名(たとえば創業者名)なら変わるはずがないからだ。スポンサーの名前を冠したシリーズを作り、「読書子に寄す」のような理念を1ページで表明す ればいい。しかし、冠という形でも、書籍にスポンサーをつけるのは簡単ではない。書籍に冠をつけることにはたぶん、心理的に大きな抵抗がある。

 岩波文庫の場合には、前述の「読書子に寄す」が一冊ずつに掲げられている点をみると、いうならば岩波がみずから冠をつけているともいえる。文庫の出版事 業はいかに困難であろうと、出版社が独力で行うという強い意思が「読書子に寄す」に示されているともいえる。だがそれだけではない。岩波文庫には、いうな らばお国が冠を付けていた。何々帝国大学教授といった肩書で国が品質を保証し、著者や訳者の生活を保証していたのだ。国の冠があるのだから、企業の冠など つける必要はなかった。

 それに、官僚をみればすぐに分かるように、国の力を後ろ楯としている人たちは商業活動を嫌う。企業は「業者」であり、油断のならない連中だと考えてい る。広告とか冠というと、すぐに商業主義に毒されると考える。だが、時代は変わった。国には文化を支える力も意思もない。国の力に頼りきっていては、敗北 を抱きしめるしかなくなる。国の力に頼っていない人間まで、商業主義とやらを嫌う理由があるのだろうか。たとえば新聞や雑誌は広告媒体であり、広告収入が なければ成り立たないのが通常だが、だからけしからんという人はそう多くないはずだ。書籍に冠をつけて、はたしてほんとうに問題があるだろうか。

 出版の市場規模は1兆円に近いが、事業の性格はきわめて零細だ。たとえば、定価2000円の本で刷り部数が5000部とすると、すべて売り切っても定価 ベースの総額は1000万円にしかならない。出版社に入るのは、そのうち70%前後なので、700万円ほどでしかない。著者や訳者の収入はもっと少ない。 著者印税は高くても10%だから、わずか100万円でしかない。

 こんなに零細なのだから、冠をつけてある程度の資金が入ってきた場合の効果はきわめて大きい。舞台芸術の冠公演や、スポーツの冠イベントなどでは、桁が いくつも違うほどの金額が動いている。冠をつけることができれば、出版は様変わりするだろう。

(2003年11月号)