いま読みたい翻訳書
山岡洋一 

金融危機を読み解く
 
 
 火事と喧嘩は江戸の華という。華とはいうが、生やさしいものではない。とくに火事の場合は。江戸の町は木と紙で作られていたし、消防の技術も発達してい なかったから、火事が起こるととんでもない惨事になることが少なくなかったようだ。江戸の半分以上が焼けた大火も起こっているほどだ。

 いまでは火事も喧嘩もあまり目立たなくなった。めったにみないといってもいい。ではいまの華は何なのか。たったいま、すぐに思いつくのはバブルとパニッ クだ。火事と喧嘩は江戸の華、バブルとパニックいまの華ではないだろうか。この華も生やさしいものではない。過去20年の日本を振り返れば、誰でも納得で きるはずだ。

 2008年9月は大変な月だった。アメリカはいま、1930年代の大恐慌以来の金融危機に見舞われている。資本主義の総本山が揺らいでいるのだから、 ヨーロッパも無事ではない。イギリスやドイツなどでも、規模こそアメリカほどではないが、やはり金融危機が起こっている。この間、好調だった中国やロシ ア、インドなどの新興国でも株価が急落し、経済が揺らいでいる。比較的無事なのは、日本ぐらいだろうか。日本はほぼ10年前に金融危機の激震に見舞われ、 その後にようやく回復するようになった経緯もあって、今回はそれほどバブルが膨らまず、したがって、パニックにもなっていない。周回遅れだとみられていた 日本が、気付いてみれば、じつは先頭を走っていたようにすら思える。

 世界的にみれば、たったいまはおそらく、歴史の大きな転換点にあたっている。いったい何が起こっているかをじっと見守るべきだろう。ひとつには、日本は いまのところ、比較的安泰なのだが、アメリカの大激震で起こった津波にいつおそわれても不思議ではないからだ。そしてもうひとつ、今回の危機は50年に一 度か100年に一度といわれるほどのものなので、リアル・タイムでみる機会は二度とこないかもしれないからだ。

 だが、いま何が起こっているのかを知るには、報道を追うだけでは不十分だ。大きな視野から現状をみなければいけない。そう考えたとき、役に立つのは本 だ。とくに、かなり以前に書かれ、名著として読み継がれてきた本を読むのがいい。そこで、翻訳書のなかから、いま読みたい本を集めてみた。

 バブルと金融危機というのは何度も繰り返し起こっており、経済と社会に深刻な影響を与えてきたので、名著がたくさんあるはずだと思える。ところが、案に 相違して、読む価値がある本はそう多くないようなのだ(おまえが知らないだけだといわれるかもしれない。そう思われるのであれば、読むべき本をお教えいた だきたい)。とくに少ないのは、経済学という観点でバブルとパニックを分析した本だ。それでも読むべき本がないわけではない。まずは過去のバブルとパニッ クを扱った本から紹介する。

大暴落1929ジョン・ケネス・ガルブレイス著村井章子訳『大暴落1929』(日経BP 社) アマゾン

 真っ先にあげたいのが、ガルブレイスの名著『大暴落1929』だ。原著は戦後の早い時期に出版され、その後も売れ続けている。邦訳も過去に少なくとも2 種類の訳でているが、はじめは学者の訳、2回目は何人かの下訳者が訳して著名な評論家を翻訳者名に掲げて出版されている。今回、日経BP社から村井章子訳 で出版された。翻訳家の訳は今回がはじめてだ。

 ガルブレイスはもちろん、戦後のアメリカを代表する経済学者のひとりだが、同時に、一流の書き手でありジャーナリストでもある。そしてこの本は、ジャー ナリストの視点で1929年の大暴落を描写した名著だと思える。だから、こんなに面白い本はめったにない。1929年前後にアメリカで起こったことを活写 しているのだが、それから約70年後の日本で起こったこと、80年近く後にアメリカで起こったことがいかに似ているかがよく分かる。思わず吹き出してしま うほど似たエピソードが次々にでてくるのだ。たとえば、当時は株式投資の大ブームだったわけだが、株式の供給には限りがあるので、いくつかの有名企業の株 式や社債を買い集め、それを保有する投資信託会社の株式を発行する形がとられたのだそうだ。こうなればつぎには当然、投資信託会社の株式に投資する投資信 託会社が作られる。今回のアメリカでは、株式ではなく信用商品のブームだったが、似た仕組みが作られている。CDOとか、CDOスクエアード(CDO2と 書く)とかの言葉を聞いたことがあれば、何とよく似ていることかと思うはずだ。人間の愚かさは変わらないものだと、痛感させられる。

エドワード・チャンセラー著拙訳『バブルの歴史』(日経BP社) ア マゾン

バブルの歴史 ガルブレイスの『大暴落1929』はタイトルにあるように、1929年の大暴落だけを扱っている。 もっとさまざまなバブルについて知りたいというとき、文句なしにいちばん有名な本は、チャールズ・マッケイが書いた『常軌を逸した大衆の幻想と群衆の狂 気』(1841年)だ。しかし、有名だから読まれているというわけではない。少なくとも全文を読んだという人はほとんどいないのではないかと思う。なぜか というと、バブルについて書かれている部分はごく一部で、他の部分では魔女狩りなどが扱われているからだ。

 バブルの歴史を知りたいという場合、手前味噌で恐縮だが、チャンセラーの『バブルの歴史』がいいのではないかと思う。17世紀オランダでのチューリッ プ・マニア、バブルという言葉のもとになった南海の泡沫から、1980年代の日本のバブル、1990年代のヘッジ・ファンドまで、じつにさまざまなバブル とその破裂を見事な筆致で描いている。

 原著が出版されたのは1999年である。当時はそうは思われていなかったが、いまから振り返れば、インターネット・バブルが最高潮に達した時期だ。そこ でチャンセラーは、過去のバブルについて語りながら、いまのバブルとの共通点を暗に示す方法をとっている。イギリスのジャーナリズムの素晴らしさを示す本 なのではないかと思う。

 以上の2点は、ジャーナリストの感覚で書かれた歴史書だが、もっと理論的な本も読みたくなる。そのとき、ぴったりの本がある。チャンセラーが『バブルの 歴史』を書くときに理論的な裏付けにしたのが、つぎに紹介する名著だ。

チャールズ・P・キンドルバーガー著吉野俊彦・八木甫訳『熱狂、恐慌、崩壊―金融恐 慌の歴史』(日経新聞社) アマゾ ン

熱狂、恐慌、崩壊 バブルとパニックを論じた経済書のなかで、おそらく真っ先にあげられる名著だ。いま読みたい本の 筆頭はこれだと思う。

 キンドルバーガーは1910年に生まれ、2003年になくなった経済学者だ。経済学が応用数学の一部門になる前、数式を並べ、ギリシャ文字をちりばめた 論文だけが評価されるようになる前の世代の経済学者である。経済学が経済の現実を扱っていた世代、経済書が想像力を刺激する読み物として書かれていた世代 の経済学者だともいえる。だから、キンドルバーガーの著作は、経済に興味があるが、経済専門家ではない読者が十分に楽しめるように書かれている。

 原著は1978年に初版が発行され、『金融恐慌は再来するか』というタイトルで吉野・八木訳が出版された。ここで紹介するのは、2000年出版の原著第 4版に基づいて出版された改定版である。1618年から1998年までに世界各地で起こった事例を調査して、バブルの発端からパニックと崩壊までの動きを 解明している。だから、バブルとパニックを考えるときの枠組みを与えてくれる。いまがどのような段階なのかを判断し、つぎに何が起こりそうかを予想できる ようになる。いまの動きを知ろうとするとき、とくに読みたくなる本だ。

ハイマン・ミンスキー著吉野紀・浅田統一郎・内田和男訳『金融不安定性の経済学』多 賀出版 アマゾン

 つぎに紹介するのは、キンドルバーガーがバブルの先行研究のなかで、ほとんど唯一といっていいほど高く評価したハイマン・ミンスキーの主著である。ミン スキーは1919年に生まれ、1996年になくなった経済学者だ。キンドルバーガーよりも少し後の世代なので、数式もギリシャ文字も使うが、数式だけで経 済を論じようとはしない。何よりも経済の現実を重視した経済学者だ。

金融不安定性の経済学 2007年にアメリカで今回の金融危機がはじまったとき、一躍脚光を浴びたのが本書だ。アメリカで はミンスキーはほとんど忘れられていたようで、原著のStabilizing an Unstable Economy(1986)は絶版になっていて、インターネットの古書サイトで途方もない価格になった。いってみればミンスキー・バブルが起こったわけだ が、2008年に、John Maynard Keynes (1975、堀内昭義訳『ケインズ理論とは何か』岩波書店の原著)とともに復刊されている。

 面白いのは、ミンスキー・ブームのきっかけを作ったのが、世界最大級の債券運用会社、PIMCOのポール・マカリーであることだ。今回の金融危機で運用 成績が落ち込んだ運用会社が多いなか、PIMCOは逆に、抜群の成績をあげている。バブルの破裂とその後の動きを見事に予想したからだ。いまは「ミンス キー・モーメント」だとするマカリーの言葉がウォール街で知れ渡るようになった。

 本書は日本では1989年に訳書が出版され、いまも売られている。だが、学者訳の典型のような翻訳であり、正直なところ、読んでも内容が頭に入ってこな いという印象だった。2008年4月に復刊された原著を読むと、訳書よりはるかに理解しやすかった。だから、読むのであれば、原著の方がいいかもしれない (そこで、訳書ではなく、原著の表紙を掲げた)。

 ミンスキーはポスト・ケインジアンを代表する経済学者のひとりで、ケインズ経済学のうち、戦後に軽視されてきた不確実性の概念を中心に、金融不安定性仮 説を構築した。戦後の経済学が経済の均衡と安定を重視してきたのに対して、経済そのものに不安定性をもたらす要因があると主張してきた。このため、現代経 済学の主流からは外れていた。しかし最近は、不確実性と不安定性への関心が高まっている。バブルとパニックが繰り返され、大恐慌以来といわれるほどの金融 危機に見舞われているいま、本書はキンドルバーガーの『熱狂、恐慌、崩壊』ともに、とくに読みたい本だ。。

 ミンスキーを読むのであれば、つぎにケインズの『一般理論』を読むべきだといえる。その際には、上述のミンスキー著堀内昭義訳『ケインズ理論とは何か』 (岩波書店)が参考になるだろう。

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 今回の金融危機を引き起こした原因は何かと質問されて、ある大手金融機関の経営者はひとこと、「貪欲だ」と答えたという。経済の根幹をなす金融業界が貪 欲という病のために腐っていたのだから恐ろしい。他の業界なら腐った企業は倒産させればいいが、金融機関はそうはいかない。巨大な金融機関が倒産すれば、 経済全体が破綻する。1930年代のような恐慌に陥らないともかぎらない。だからアメリカ政府は1兆ドルになろうかという公的資金を投入して、何とか金融 業界を立て直そうとしている。

 金融業界の貪欲を批判し、対策を提起してきた人がいないわけではない。たとえば、ジョ ン・C・ボーグル著瑞穂のりこ訳『米国はどこで道を誤ったか』(東洋経済新報社)がある。著者は最大手の投資信託会社、バンガード・グルー プの創業者で、金融業界の内部にいて、その腐敗を告発してきた経営者である。エンロン、ワールドコムなどの不正会計問題が騒がれた後に書かれた本ので、そ れほど古い本ではないのだが、今回の金融危機の後にどのような世界があらわれてくるべきかを示す本として読みたくなる。アメリカの資本主義は道を踏み外し た。資本主義の魂を取り戻すための戦いが必要になっている。そうボーグルは語っている。

 これ以外にも、いま読みたい本はいくつかある。新刊書のなかにも、現在の危機をもたらしたのが何かを知るうえで役立つ本がある。今回の危機はさらに長引 くと思えるので、そうした本を取り上げる機会もあるだろう。

(2008年10月号)