松浦伶氏の思い出
山岡洋一
翻訳出版が光輝いていた時代の英雄

 
 文藝春秋の翻訳出版部長として、翻訳出版のひとつの時代を代表する編集者だった松浦伶氏が亡くなった。享年71歳だから、まだまだ活躍できる年齢であっ た。

 じつは先月号で駆け出しのころの話を書いたが、このとき、翻訳者が著作権者としてもつ強い権利について親切に助言して下さった方のうちひとりが、松浦さ んであった。先月号の記事を書いていたとき、まさか松浦さんが洗礼を受けて天国に旅立とうとしているとは思いもしなかった。

 個人的には、独立した直後の一時期に、何点かの翻訳書でお世話になったにすぎない。松浦さんの仕事はフィクションの翻訳出版が中心だったので、ノンフィ クションのうちごく一部の分野しか扱わない翻訳者はいわば傍流でしかなかったはずだ。だから、松浦さんの仕事のうち、ごくごく一部に触れたにすぎない。だ が、短い期間に何点かの翻訳を行ったときの印象は強烈だった。仕事の中心を産業翻訳から出版翻訳に移そうとしていた時期だったこともあって、その後、仕事 の仕方がかなり変わったといえるほどの影響を受けている。

 松浦さんが活躍していた時代はまさに、翻訳出版の黄金時代だったといえる。当時はミステリーを中心に、海外の小説がよく売れた。たとえば松浦さんが手掛 けたものではスティーヴン・キング、トム・クランシー、スコット・トゥローといった作家の作品、他社から出版されたものではジェフェリー・アーチャー、マ イクル・クライトン、ジョン・グリシャムらの作品がいまとは1桁も2桁も違う部数売れていた。だから、翻訳出版は元気だった。海外の著名作家の作品を派手 に買い、大量に刷って派手に売る。その中心に位置していた英雄のひとりが松浦さんだった。

 あれから10年もたっていないのだが、翻訳出版業界は様変わりした。松浦さんが築いた文藝春秋の翻訳出版部がいつの間にかなくなっていたことに象徴され るように、翻訳出版は輝きを失っている。それとともに、松浦さんのような英雄もあまり見かけなくなった。時代が変わって読者の嗜好が変わり、翻訳出版業界 が一時の輝きを失ったから英雄が少なくなったのだろうが、松浦さんのような英雄がいなくなったから、翻訳出版業界は元気を失ったという部分もあるのかもし れない。

 松浦さんの印象では、精力的だったことと、はちゃめちゃにみえて実は筋を通す人だったことがとくに大きいように思える。

 文藝春秋ではじめての仕事をしたとき、明日の9時に来てほしいという連絡を受け、午前9時ですねと確認したところ、とんでもない、午後9時だといわれて 仰天した。その後も毎回そうだったが、校了の前になると、たいていは3日ほど、午後の7時から9時ごろに編集部に行き、朝の4時か5時まで、問題点をひと つずつ検討し、修正していく作業を行う。いつも、松浦さん、校正者の赤尾三男さんと3人で徹夜することになる。何社もの出版社、何人もの編集者のもとで仕 事をしたが、これほど徹底してゲラをチェックする編集者にはあまり出会っていない。

 なぜ徹夜で仕事をするのかというと、昼間は会議や来客やで落ちつかないからという。だから、徹夜でゲラを検討して朝方にタクシーで帰宅しても、午前中に は出社していることが少なくなかったようだ。ともかく精力的だったというのは、ひとつにはこの仕事ぶりがなんとも強烈だったからである。昼間は翻訳出版部 長という管理職の仕事に忙殺されているので、夜になって編集者としての仕事をするというのだから。

 精力的なのはたぶん、翻訳出版、とくにエンターテインメント小説の翻訳出版が好きで好きでたまらなかったからなのだろう。あるとき、こんな話を聞いた。 少し前までは、好きな分野の海外小説の翻訳はすべて読んでいたのに、最近は出版点数が多くなってとても読めなくなってしまったというのだ。松浦さんの世代 であれば、自分の専門分野の本をすべて読むというのは、ある意味で常識だったのだろうが、それにしても、よほど好きでなければ読めるはずがない。仕事が趣 味だったのか、趣味が仕事になっていたのかは分からないが、心底好きだったのはたぶんたしかだろう。

 だから、仕事の面でも、大好きな本をひとりでも多くの読者に届けたいという情熱が原動力になっていたようだ。売れ筋の本を選んで翻訳権を買うわけではな い。売れそうな本ではなく、売りたい本の翻訳権を買う。そういう姿勢だったのではないかと思う。

 筋を通すという点についていうなら、著作権の原則を徹底して守る編集者だったと思う。何しろ、翻訳者には訳文に対する著作権があり、とくに著作者人格権 という強力な権利があることを懇切丁寧に教えてくださった編集者なのだから。

 たとえば、3日連続の徹夜で訳文をチェックするとき、あきらかな間違いを除くと、翻訳者の書いた訳文に赤を入れる(つまり訂正するよう指示する)ことは まずなかった。ここがおかしいから考えてほしいといわれる。なぜおかしいのか、どう修正すればいいかは、こちらから質問しないかぎり、話してくれない。意 地が悪いと思えるかもしれないが、そうではない。編集者として、訳文に対しては著作権者である翻訳者が最終責任を負うという原則を崩さなかったのだ。

 そういうわけで、徹夜のチェックの際に、訳文について徹底して議論することになるが、そのときに印象的だったのは、「普通はそう訳している」とか、「通 常はこう表記する」という答えを受け付けないことだった。正しい日本語なのか、正しい表記なのかをいつも考える。正しく美しい日本語はこうあるべきだとい う原則を確立しようとしていて、間違っていると考える表現は、世の中のほとんどの人が使っていても拒否する。そういう意味でも、筋を通す編集者だった。

 そういう編集者だから、訳しにくい箇所をごまかしたり、手を抜いたりするのをとくに嫌った。たとえば、原文にこの副詞がなければ楽に訳せるのにと思う場 合がある。そういうときに、副詞を訳さない方法をとると、すぐに指摘される。また、原文の意味がよく考えないまま、常識的な訳し方で、つまり英文和訳式に 訳していると、すぐに指摘される。原文の意味を考えて、美しく正しい日本語で表現するよう求められる。だから、翻訳者にとって怖い編集者だった。怒った り、怒鳴ったりすることはなく、口調はいつも穏やかだが、かならず痛いところをついてくるという意味で、恐ろしい編集者だったのだ。そのうえ、校正者の赤 尾さんが同じ意味で恐ろしい人なので、文藝春秋の仕事をするときはほんとうに必死だった。

 最近は、「こなれた訳文」を要求する編集者が増えているが、訳しにくい部分、つまり日本語で表現しにくい部分は割愛して読みやすくしようという場合が少 なくないようだ。松浦さんはこの方法をとくに嫌っていた。そういう方法をとると歯止めが利かなくなりますといわれていた。たしかにいまでは、歯止めが利か なくなった翻訳が、「こなれた訳文」だとされて、もてはやされている。しかも、編集者が翻訳者の意向とは無関係に訳文に手を入れた結果だという場合もある のだから、何をかいわんやである。出版の事業は著作権を基盤としている。その肝心要の著作権について、教育を受けていない編集者が多すぎる。原著者の著作 者人格権も翻訳者の同一性保持権も無視するのであれば、出版の事業はなりたたなくなる。松浦さんのように筋を通す編集者はいまや、絶滅危惧種になっている ようにすら思える。

 いま、ほんとうの意味で名訳だと思える本をみていくと、松浦さんが編集した本がいくつも入っているのにおどろく。たとえば、上田公子訳のスコット・トゥ ロー『推定無罪』や、芝山幹郎訳のスティーブン・キング『ニードフル・シングズ』などがそうだ。名訳を生み出すのはもちろん翻訳者だが、たぶん、松浦さん の熱意、訳文を厳しくチェックする姿勢、著作権者としての翻訳者を大切にする姿勢が背景になって、名訳が生まれるのだろう。

 松浦さんの思い出ではもうひとつ、徹夜でゲラをチェックしているときに、若手や中堅の翻訳者が何人も遊びにくることがあったのをよく覚えている。とくに 用事もないようなのに、夜遅くに翻訳者が集まってくることがある。コーヒーが用意されていて、缶ビールをもってくる人もいて、しばし談笑して帰っていく。 もちろん、仕事がほしいからご機嫌伺いにくる翻訳者もいたのだろうが、それだけではないようだ。たいていは、松浦さんに育てられたか、鍛えられた翻訳者 だったのだから。

 松浦さんは実績のある翻訳者を使うだけではなかった。まったく実績のない翻訳者に仕事を与えて育てることが多かったのだ。文藝春秋で何点か翻訳書がでれ ば、他社の編集者が安心して使ってくれるようになっていた。かくいうわたしも駆け出しのころにお世話になっている。

 このように、何人もの翻訳者を育て、鍛えてきた。それに当時は翻訳書がよく売れていたこともあり、松浦さんは印税率を引き下げようなどと考える人ではな かったので、翻訳者にとって生活を安定させるという点でも、ありがたい編集者だった。だから、翻訳者の間ではたぶん、松浦さんをしたう人が多いのではない だろうか。だが、情熱があり、精力的で、筋を通す人が、組織のなかでうまく立ち回れるのだろうか。松浦さんは新卒で文藝春秋に入社して定年まで勤め、その 後も何年か、監査役という不思議な立場で残ったのだが、社内での立場はそれほどよくないのではないかと思えたこともある。実際にどうだったのかは分からな いが、少なくとも、松浦さんの引退後に、文藝春秋の翻訳出版部が急速に元気をなくしたようで、いまでは姿を消しているのは残念でならない。

 松浦さんにとって最後のヒット作になったのが、村松潔訳の『マディソン郡の橋』だ。なにしろ、単行本だけで200万部を軽く超えたのだから、文句なしの 大ヒットだ。ロバート・ジェームズ・ウォラーというまったく無名の小説家の処女作だし、当時は決して売れ筋ではなかった分野の作品だったのだから、アメリ カでヒットする前にこの作品の翻訳権を買ったのは、一種のバクチだったとも思える。このバクチには勝ったのだが、いまの時点で振り返ると、この大ヒットが 翻訳出版の栄光の時代の終わりでもあり、低迷の時代の始まりでもあったように思える。その後の『ハリー・ポッター』や『ダヴィンチ・コード』にみられるよ うに、翻訳出版は一人勝ちが目立つようになった。数百万部の大ヒットがあって、ほかはさっぱり売れない。そういう時代の幕開けになったのが『マディソン郡 の橋』だったようにも思えるのである。翻訳出版のひとつの時代を代表する英雄のひとりだった松浦さんの引退とともに、黄金の時代は終わったのだろうか。松 浦伶氏の跡を継ぐ編集者は、はたしているのだろうか。

(2007年10月号)