翻訳についての断章 
山岡洋一

直訳 と意訳
 
 駆け出しの翻訳者だったころ、必携だという人がいて買った本のひとつに中村保男・谷田貝常夫著『英和翻訳表現辞典』(研究社出版)がある。実際に役だっ たことはほとんどなかったと思うが、なかにはいまだに記憶に残っている記述もある。たとえば以下の項目がそうだ。

including たとえばthose people including Mr. Johnsonという形でincludingが出てきた時には,たいがいは(この場合なら)Mr. Johnsonが筆頭に代表として挙げられているわけなので,「(ジョンスン氏)を始めとする(人たち)」と意訳しても差し支えないことになる.

 何が記憶に残ったかというと、「意訳しても差し支えない」という表現である。当時は、いわゆる翻訳調がまだ強い力をもっていた。翻訳調の原則から外れる 訳し方、たとえば意訳を嫌う発注者が多かった。だから、駆け出しの翻訳者としてはこういう記述に敏感にならざるを得ない。そうでなければ生き残れない。

 20年以上経ったいま、翻訳をめぐる環境は様変わりしている。翻訳調の規範はほとんど力を失ったといってもいい。翻訳調は良くない、翻訳調から脱却すべ きだという点では、ほとんどの翻訳関係者の意見が一致するはずだ(もちろん、例外もある。たとえば、法律に関係する分野では、いまだに翻訳調が根強い。お 役所との関係の深い部分にも、翻訳調が根強く残っている)。しかし、翻訳調に基づく考え方や言葉はいまでも残っており、「直訳と意訳」はその典型だ。ま た、翻訳調のどこに問題があったのかも、かならずしも明確になっているわけではない。だから、脱却の方向がはっきりしているわけではない。こうした点を考 えれば、「直訳と意訳」について考え直すのも意味があることだと思える。

直訳と意訳とは
『広辞苑』には以下のように書かれている。

直訳  外国語をその原文の字句や語法に忠実に翻訳すること。
意訳 原文の一語一語にこだわらず、全体の意味に重点をおいて訳すこ と、また、その訳したもの。

 この語義を読むと、意訳が嫌われるのは当然だと思える。翻訳でいちばん大切なのは、原文に忠実に訳すことであり、直訳とは原文に忠実な訳、そうでないの が意訳だというのだから。だがこれは国語辞典に書かれた語義だ。実際にはどういう意味で使われているのだろうか。前述のincludingの例をみてみよ う。

原文  those people including Mr. Johnson
直訳 ジョンソン氏を含む人たち
意訳 ジョンソン氏を始めとする人たち

 ここで直訳とされているものは、「原文の字句や語法に忠実に翻訳」しているのだろうか。意訳とされているものは「原文の字句や語法に忠実に翻訳」してい ないのだろうか。答はどちも否、である可能性が高いと思える。

 可能性が高いなどという言い方をするのは、これだけの原文ではじつは、何も分からないからである。前後がないので、どういう場面で、どういう文脈で使わ れたのかが分からない。「全体の意味」が分からないのだから、断定のしようがない。しかし、可能性なら分かる。おそらく誰でも感じ取っているはずだが、こ の表現が使われるとき、中村保男がいうように、「たいがいは……Mr. Johnsonが筆頭に代表として挙げられている」のである。「たいがいは」であって、「つねに」ではない。入らないと思っていたジョンソン氏が入ってい た場合など、「特殊なもの」を挙げるときにも、この表現が使われる。特殊なものとして挙げられているのであれば、「全体の意味に重点をおいて翻訳」した結 果が、「ジョンソン氏を含む人たち」になったとしても不思議ではない。代表として挙げられているのであれば、「原文の字句や語法に忠実に翻訳」した結果 が、「ジョンソン氏を始めとする人たち」になったとしても不思議ではない。このように考えていくと、中村保男が「ジョンソン氏を始めとする人たち」を意訳 だとした理由は何なのか、疑問に思えてくる(なお、中村は「ジョンスン氏」と書いているが、通常の表記に合わせて変更してある)。

 この辞典を少し読んでいくと、答えはすぐに分かる。中村保男によれば、英和辞典にでていない訳語を使うのは「意訳」であって、本来は控えるべきことなの である。しかし、直訳では(つまり、英和辞典にある訳語を使ったのでは)問題がある場合があり、その際に「生きた日本語」に表現しなおすための手引きにす ることがこの辞書の趣旨だと、「序」に書かれている。

 英和辞典にでていない訳語を使うのは「意訳」であり、控えるべきだというのは、中村保男だけの見方ではない。当時の翻訳の世界では、これが常識になって いた。ふだんは意識されることもあまりないほど、当たり前だったといってもいい。

 翻訳調という規範が力を失ったいまの感覚で考えると、昔はこんな奇妙な見方にとらわれていたのかと思えるかもしれない。そう思うのであれば、英和辞典と はどういうものなのか、少し考えてみた方が良いだろう。いまの英和辞典は大部分、この見方が常識だった時代に作成されたものなのだから。

英和辞典と翻訳調
 英和辞典は何よりも、翻訳にあたって使える「正しい訳語」を示すために作られている。だから、英和辞典が示しているのは主に、英語の語句の意味ではな く、訳語なのである。これを使えば大丈夫だという訳語を示し、訳語にお墨付きを与えることが、英和辞典の主な目的なのである。

 このため、英和辞典は英英辞典や国語辞典などとは性格がかなり違っている。たとえば国語辞典なら、先ほどの「直訳」と「意訳」の例が示すように、語句の 意味、語義を明らかにすることが主な目的になっている。英英辞典もそうだ。記述の中心は語句の意味、語義である。英和辞典は違う。意味ではなく、訳語なの だ。それも正しい訳語、権威者がお墨付きを与えた訳語である。

 このように考えていったとき、じつは、いまの翻訳が中村保男の時代からそれほど進歩しているわけではないことに気づかされるのではないだろうか。そうと は意識しないまま、いまだに翻訳調を引きずり、英和辞典の訳語を使って訳する方法から抜け出せていないのではないだろうか。

 たとえば、翻訳書を読んでいると「洞察」という言葉が使われていることがある。この訳語をみると、「洞察」という言葉の意味を訳者に質問したくなること がある。たとえば、「わたしの洞察」という表現はありうるのかと。『新明解国語辞典』をみると、「洞察」とは「普通の人が見抜けない点までを、直感やすぐ れた観察力で見抜くこと」と書かれている。こういう意味だとは知らないのではないのではないか、翻訳以外では、文章を書くときにも話をするときにも、この 言葉を使ったことがないのではないかと思う。

 ではなぜ、「洞察」という言葉を翻訳の際に使うのか。理由は簡単、原文にinsightが使われていたのだ。まあ、十中八九はそうだ。英和辞典で insightの項をみると、「洞察」と書かれている。中学高校のころか、翻訳をはじめたころか、どこかの時点でinsightという語にぶつかり、英和 辞典を引いて「洞察」という訳語を覚えた。それ以来、「insight → 洞察」という回路が脳に作られていて、この語を見れば自動的に「洞察」という語が思い浮かぶようになっている。だから、原文にinsightという語があ れば「洞察」と訳すのである。

 こう訳すとき、insightという語の意味を考えたのだろうか。そう質問されると、たぶん面食らうはずである。当たり前ではないか、考えたから「洞 察」と訳したのだ、なぜそんな質問をするのかと聞き返したくなるはずだ。だが、「洞察」は意味ではない。訳語にすぎない。常識的な訳語をあてはめるとき、 じつは何も考えていない。英語のinsightの意味も、日本語の「洞察」の意味も、じつは考えたことがない。「insight = 洞察」と覚えているだけなのだ。ない知恵絞って意味など考えなくても、こういう公式を何万か覚えていれば、いや覚えていなくても、英和辞典を丹念に引く手 間を厭わなければ、翻訳はできる。少なくともそれらしい程度には。

 いまでは、翻訳調は嫌われている。だから、「洞察」という訳語を使う訳者もたぶん、翻訳調は良くないと考えているはずだ。だが、insightという語 を機械的に「洞察」と訳すとき、まさに翻訳調の直訳の方法を使っているのである。いや、考えてみたという人もいるだろう。「洞察」ではどうも坐りが悪いの で、英和辞典を引いてみたが、適切な訳語が見あたらない。それで「洞察」なら安全だと思い、この訳語を使った。以上のように釈明したい人もいるだろう。で はなぜ、「洞察」なら安全だと考えたのか。理由ははっきりしている。権威ある英和辞典に書かれているから、間違っているとか、不適切だとかいわれる恐れが ないと判断したのだ。直訳とか意訳とかの言葉は使っていないが、考えた道筋は中村保男と同じである。翻訳調のもとでの典型的な考え方と同じなのだ。

翻訳調の合理性と効率性
 翻訳調を嫌っているはずの人がじつは、翻訳調の典型的な考え方にしたがって訳していたりする。翻訳調をなぜ嫌うのか、翻訳調のどこにどのような問題があ るのかを明確にしてこなかったから、こういう問題が起こってくるのだが、それだけではない。翻訳調にはきわめて合理的で効率的だという特徴がある。だか ら、その方向に引きつけられる。

 翻訳調の方法では、たとえば原文にincludingと書かれていれば、何も考えずに「〜を含む」と訳すだけでいいのだし、insightという語があ れば、何も考えずに「洞察」と訳すだけでいいのだ。原文の意味を理解し、原文の意味を伝えるのにふさわしい日本語を考えるといった手間のかかる作業はすべ て省略できる。いや、省略する方がいいとすらいえる。意味を考えれば「意訳」に流れる。原文を読んで自動的に機械的に出てくる訳文なら、理想の直訳にな る。そういう仕組みの総体が翻訳調なのである。ほんとうは苦労して道なき道を行かなければならないのだが、翻訳調という近道が用意されているので、少し油 断しているとそちらを歩きたくなる。

 幕末から明治にかけて、とても理解できない思えるほど異質だし進んでいる欧米の文化に触れて、日本は翻訳という手段を使ってこれを学び、吸収しようと努 めた。その過程で確立されたのが翻訳調である。翻訳調では、原文の意味を理解する作業は後回しにされる。とりあえず訳して、それから意味を考えようという のが、翻訳調の基本的な考え方だ。読者は訳文を参考にしながら原文を読んで意味を考える(原文が読めない場合には、訳文だけから意味を考えていく)。そこ で翻訳調では、原文の意味はともかく、原文の語句や語法を伝えることを目的にした。この目的からは「意訳」を嫌い、直訳を理想とするのが当然である。直訳 の翻訳書の読者は、訳文にたとえば「〜を含む」と書かれてあれば、原文のincludingと対応していることが分かり、includingの意味を考え ていくことができる。意味を考えて「〜を始めとする」と訳すのは意訳であり、差し控えるべきことである。原文の一つの語を複数の訳語で訳し分けることにな り、原文との対応が分かりにくくなるからだ。

 こういう考え方にしたがって、原文の語句の訳し方が決められ、お墨付きが得られた訳語は英和辞典に登録される。もうひとつ、原文の語法の訳し方が決めら れ、お墨付きが得られた訳し方は英文法書に登録される。これが直訳の考え方であり、翻訳は直訳でなければならないとされた。一字一句が大切な本なら、意訳 は慎まなければならない。原文の語句や語法との対応が分からないようになっていると、原文の意味を考えることができなくなるからだ。以上の見方にしたがう なら、前述の「直訳」の語義はこう書き直すべきである。

直訳  外国語の文書を、原文の語句については英和辞典に示されている訳語に忠実に、原文の語法については英文法書に示されている訳し方に忠実に翻訳すること。

 翻訳は原文の意味を伝えるのではなく、原文にどのような語句や語法が使われているかを示すようになっていなければならない。これが翻訳調の基本である。 理解することなどできないほど進んでいる原著をとりあえず訳しておき、日本語で意味を考えられるようにするという目的を考えたとき、翻訳調はきわめて合理 的で効率的な方法なのである。

 だが、きわめて合理的で効率的だといえるのは、原文の語句と語法を示すという目的のもとでである。翻訳にあたっては意味を考えず、意味を伝えようとはし ないという前提にたったときである。欧米の文化を学び、吸収する作業が進めば、翻訳調の役割は終わる。翻訳調が嫌われるようになったのは、基本的にはこの ためだ。翻訳調が使命を達成し、翻訳は次の段階に進むことが必要になったのである。

翻訳調の堕落
 もっとも、翻訳調が嫌われるようになったのは、直接には別の要因があったからだ。翻訳調の翻訳が堕落したという要因である。

 明治半ばから大正、昭和の初めまで、翻訳を行っていたのは、それぞれの分野で日本を代表する学者であった。欧米の進んだ知識を吸収し広めることが学者の 主な任務であった時代には、翻訳は一流の学者の本業だった。だが、戦後の高度経済成長期になると、事情がかなり変わっていた。欧米の進んだ知識を吸収する 時代が終わったとみられるようになり、学者の本業が変化してきた。そして、英和辞典や英文法書が整備され、翻訳調の合理性と効率性が高まるとともに、一流 の学者は実際には翻訳を行わなくなってきた。それでも、読者は一流の学者による翻訳を望んでいたので、翻訳書はたいてい、一流の学者の名前で出版されてい た。だが、実際に翻訳しているのは弟子であるのが常識になってきた。やがて、弟子も翻訳をいやがるようになり、下訳者に依頼するのが普通になった。羊頭狗 肉が常識になったのだ。

 翻訳調の時代に知の最高峰とされていた岩波書店の出版物をみると、翻訳調の堕落がいかに深刻かが分かる。一例として、20世紀末に出版された『岩波=ケ ンブリッジ世界人名辞典』をみてみよう。

 この辞典は名前が示すように、『ケンブリッジ版世界人名辞典』を翻訳したものである。「日本語版序」によれば、「原本の忠実な翻訳」だそうだ。いかにも 岩波らしく、富山太佳夫らの一流の学者が編集主幹になっている。だが、実際に編集したのが岩波の編集者か、外注先の編集者であるのは確かだろう。翻訳した のは下訳者だとみて間違いない。

 その結果、どういう辞書ができたか、ひとつだけ例をあげてみよう。アラン・グリーンスパンの項をみると、1987年に「連邦準備制度の総裁」になったと 書かれている。前任者のポール・ボルカー(辞書の表記ではヴォルカー)の項をみると、「連邦準備局長(1979-87)」とある。その少し前に同じ地位に あったアーサー・バーンズの項をみると、「連邦準備委員会の委員長(1970-78)」と記されている。いうまでもなく、通常は「連邦準備制度理事会議 長」というのだが、違う訳がありうることは否定できない。しかし、ひとつの辞書に3通りの訳があるのでは、どれも間違いだと考えるべきだろう。通常の訳が 間違っていると確信して、正しいと信じる訳を示したのではない。通常の訳を知らないから、馬鹿げた訳をしたのである。大学院生に任せたのであれば、これほ ど恥ずかしい訳になるとは考えられない。

 これは一流の学者の名前を冠した翻訳がいかに堕落したかを示す好例だろう。また、権威ある辞典を出版しようというときに、岩波の編集者がいかに怠慢で あったかを示す好例でもある。ここまで堕落した翻訳に対して、読者が拒否反応を示すようになったのは当然である。

裏口から忍び寄る翻訳調を拒否するために
 いまでは、翻訳調は明らかに読者に嫌われている。だが、insightの例が示すように、少し油断していると、翻訳調は裏口から忍び込んでくる。意味を 考える苦労を省いてもそれらしい訳文ができるのが翻訳調だから、少し気を緩めると、すぐにそうなる。

 翻訳調への逆戻りを許さないようにするために、翻訳調に基づく直訳の考え方を検討しておけば役立つように思える。たとえば以下のような考え方だ。

■ 英和辞典にない訳語を使うのは「意訳」であって、原則として控えるべきである。
 たぶん、いまではこう考える人はあまりいない。しかし、次項のように表現を少し変え れば、この考え方はいまでもかなり根強いと思う。

■ 英和辞典に書かれた訳語を使っておけば安全である。
 前述の「洞察」という訳語は、この考え方のためにいまだに生き残っているのだろう。 もちろんそれだけではない。英語のinsightの意味範囲と日本語の「洞察」の意味範囲に重なると思える部分がある。だからこそ、「洞察」が正しい訳語 だとされてきたのだ。だが、重なっていない部分があるのも確かである。だから、文脈によっては、安全なはずの訳語がきわめて危うい場合がある。それぞれの 文脈で判断するしかない。

■ 原文の1つの語や連語には1つの訳語を使うべきである。
 通常、訳語の統一といわれる考え方だ。翻訳調では、原文の語と訳語を一対一で対応さ せるのが常識であった。文脈によって訳し分けるのは「意訳」だとされて嫌われた。だが、原文の語や連語の意味範囲と、訳語の意味範囲にはかならずずれがあ る。文脈によって、原文の語や連語が同じでも、訳語の意味範囲から外れるという現象が起こる。したがって、原文の意味を伝えようとすると、文脈によって訳 語を変える必要に迫られることがある。一対一対応では訳せない場合がかならずあるとみるべきであり、訳語は柔軟に考えるべきだ。

■ 原文の違う語に同じ訳語を使うのは避けるべきだ。
 これも翻訳調の直訳に特有の考え方である。原文の語句を示すことが目的だから、原文 の違う語に同じ訳語を使ったのでは、この目的を達成できなくなる。だが、原文の語句ではなく、原文の意味を忠実に伝えようとすると、この考え方は通用しな くなる。典型例は、英語の癖ともいえる言い換えである。英語では内容語の繰り返しを嫌うので、同義語への言い換えを頻繁に使う。日本語では内容語の繰り返 しを嫌う感覚は希薄なので、違う内容語が使われていると、言い換えだとは考えず、違うことを伝えようとしていると誤解することが多い。したがって、原文の 違う語に同じ訳語を使うべき場合もある。

■ 原文の語に1つずつ訳語をあてるべきである。
 原文が2語なら訳文も2語、原文が3語なら訳文も3語にすべきだという考え方は根強 いが、そのような規則はどこにもない。翻訳にあたって重要なのは、原文の語句ではなく意味である。原文が2語で表現した概念を日本語では1語で表現できる のなら、1語でいい。日本語では3語で表現した方がいいのであれば、3語を使えばいい。

■ 原文の品詞を変えないように訳すべきである。
 英和辞典をみると、動詞の語の訳語はすべて動詞の語だし、副詞の語の訳語はすべて副 詞の語になっている。だが、翻訳にあたって重要なのは原文の意味を伝えることなので、同じ品詞で訳さなければならないとする理由はない。副詞で表現されて いる意味を名詞で伝えることもある。

■ 原文にない語句を補うのは控えるべきだ。
 もう20年近く前になるが、原文のJohn Adamsを「アメリカの第2代大統領、ジョン・アダムズ」と訳したところ、編集者に強く反対されたことがある。「原書を読む読者が戸惑うから」というの だ。この編集者は翻訳調の全盛期に育ったので、翻訳書は原書を読むためのものだという考え方からどうしても抜け出せなかったようだ。翻訳書は翻訳書だけを 読む読者のためのものだ。原著者の国の読者には不要な情報が、翻訳書の読者には必要になる場合がある。文脈上、ジョン・アダムズがどういう人物かが明確に なっていないのなら、原文にない情報を補うのが当然である。逆に、日本の読者には不要なことが書かれていれば、翻訳では削除する方がいい場合もある。たと えば、「東京の南西約100マイルにある静岡市」と訳す必要があるのだろうか。「静岡市」だけで十分ではないだろうか。

 翻訳調に基づく考え方のうち、語句の翻訳に関する部分を取り上げた。もうひとつ大きな分野として、「原文の語法を忠実に訳す」という点があり、ここにも さまざまな考え方がある。たとえば、関係代名詞の限定用法と継続用法の訳し方、否定形や受動態の訳し方など、翻訳調にはさまざまな約束事がある。原文の語 法ではなく意味を伝えるという観点に立つなら、その大部分はもっと柔軟に考えるべきだといえるはずである。翻訳には決まった訳し方はない。あるのは、原文 の意味を忠実に伝えるという義務だけである。原文の意味を忠実に伝えるために必要なら、翻訳調の約束事をそのまま使ってもいいし、大胆に無視してもいい。 文脈によって、柔軟に考えていくべきなのだ。

最後に
 翻訳調では、原文の語句の正しい訳語、語法の正しい訳し方とされているものに忠実に訳すことが重要だとされていた。原文の語句や語法に忠実に訳すのでは ない。正しい訳語、正しい訳し方とされているものに忠実に訳すのである。原文の語句と語法がどうなっているかを読者が理解できるように訳すのである。だか ら、翻訳調にはたくさんの約束事があり、そこから離れるのは「意訳」であって控えるべきだとされていた。

 翻訳調が成立する条件がなくなり、翻訳調が堕落して質の低い翻訳が横行するようになったことから、いまでは翻訳をめぐる環境は様変わりしている。原文の 意味に忠実に訳すのが当然の要求になっている。そうなると、翻訳調の翻訳でなぜ、原文の語句ばかりにこだわったのか、不思議に思えてくるはずである。原文 の語句にこだわるのではなく、原文の意味を追求する。これがいまでは当然になっているのである。

 だが、原文の要素は語句と語法、意味だけではない。原文がどのような意味を伝えているかだけではなく、原文が意味をどのように伝えているかも、重要な要 素である。つまり、文体やリズムなども重要なのだ。そう考えていくと、今後は「直訳」という言葉の意味がまったく変わるかもしれないとも思う。

 原文の意味はもちろん、原文の文体、リズム、美しさ、分かりやすさや難解さなどまで忠実に再現する翻訳こそが「直訳」だとされるようになるかもしれな い。「直訳」という言葉が最高の褒め言葉になるのが、理想だと思う。

(2009年5月号)