翻訳概論
山岡洋一

英文和訳についての覚書

 
 翻訳が英文和訳とは違うことは、おそらくおぼろげながらも一般に理解されているとみられる。しかし、どこがどのように違うかはおそらく、あまり理解され ていない。そのため、英文和訳についての見方が、翻訳を行うとき、翻訳を評価するときに知らず知らずのうちに影響を与えることになる。したがって、翻訳の 教育と学習にあたっては、英文和訳と翻訳の違いを明確にしておくことが重要である。
 まず、指摘しておくべきことは、翻訳をもっとも広い意味でとらえたとき、英文和訳がその一部であることだ。外国語教育の柱としてはるか昔から使われてき た方法に訳読法がある。外国語の文章を翻訳することによって、外国語の構文や語句を学ぶのが訳読法である。英文和訳はその一種なのであり、したがって、翻 訳教育の一種である。英文和訳を学べば、英文の訳し方を学べる。ただし、学べるのは、特殊な目的に合わせて最適化された訳し方である。
 では、英文和訳はどのような目的に合わせて最適化されているのか。第一は、翻訳調の翻訳者を育てるという目的である。英文和訳の方法が確立したのは、欧 米の進んだ文化を取り入れるための手段として、翻訳調の翻訳が使われていた時期にあたる。旧制の中学から大学までの学校教育は、翻訳調で訳せる翻訳者の育 成を目標のひとつにしていたので、これは当然の目的であった。英文和訳の方法が翻訳調にきわめてよく似ているのは偶然ではない。意識的な努力の結果であっ たのだ。
 第二は、入学試験を中心とする試験で良い成績がとれるようにするという目的である。試験にあたっては、辞書や文法書などの各種資料の持ち込みができない ので、英文和訳では資料を使わずに訳せるようにしておかなければならない。さらに、試験は時間的な制約が厳しいので、かなりの量の英文を短時間に訳せるよ うにしておかなければならない。このため、たとえば大量の単語や連語の訳語、構文の訳し方を決めておき、すべてを暗記しておく。また、原文の意味を考えて 訳す方法では時間がかかるため、意味を考えることなく、決められた訳語、決められた訳し方を使って機械的に訳す方法を使う。
 このような目的に合わせて最適化された英文和訳は、広義の翻訳の一種であると同時に、きわめて特殊な訳し方を使うという特徴がある。したがって、いまの 時代に目指すべき翻訳(いうならば狭義の翻訳)とは大きくみればかなりの共通点があるとともに、細かくみていけばかなりの違いがある。共通点があって違い のあるものは混同されやすい。そして、ほとんどの人にとって、英文和訳は英文の訳し方として正式な教育を受けた唯一の方法なのである。このため、狭義の翻 訳の実践か評価を行う際に、そうとは意識しないまま、英文和訳の考え方から影響を受けるのは、ほとんど避けがたいことだといえる。影響を受けないようにす るには、英文和訳と翻訳の違いを明確に意識しておくしかない。
 そこで、英文和訳と翻訳にどのような違いがあるかをみていこう。

 第一に、目的が違う。英文和訳は英文の読解力を試験の採点者に示し、高い点数を獲得することが唯一の目的である。これに対して翻訳では、原文の内容を忠 実に読者に伝えることが目的である。
 第二に、過程が違う。英文和訳では、原文を読み、訳していく。その際に、語句や構文を決められた訳し方で訳していくことが大切である。翻訳では、原文を 読み、調べ、理解し、理解した結果を母語で書いていく。英文和訳では訳し、翻訳では調べて書く。
 第三に、フィードバックの仕組みが違う。英文和訳では点数と正解が示されるので、どこをどう間違えたのかを検討できる。翻訳では訳文を見なおす際に、意 味が通じるかどうかを検討する。意味が分からない文章になっている場合には、原文の読解か内容の理解、母語の文章のいずれかが不適切である可能性が高い。 そこで、どこがどのように不適切かを検討する。英文和訳では正解がカギになるのに対して、翻訳では意味が手掛かりになる。
 以上のような違いから、注意すべき点がいくつもでてくる。たとえば、原文を「忠実に」訳すというとき、たいていは原文の語句や構文を決められた通りに訳 すことだと解釈される。こうしたスタイルでは実際には、原文に忠実にはならない。英文和訳で教えられた訳し方に忠実に従うだけになる。こうした問題につい ては、あらためて論じることにしたい。

(2010年2月号)