翻訳 についての断章
山岡洋一

翻訳 学習者に与う

  翻訳という仕事を長年やっていると、翻訳家になりたいという人から助言を求められることが多くなる。そういうときに受ける質問と、それにつ いて考える点とをいくつかまとめておこう。

得意だし好きな英語を活かせる仕事をしたい……
 これは翻訳学習者の合言葉のようなものだが、そういう話を聞くたびに、正直なところ気の毒になる。

 まず、知り合いの翻訳者の間で、得意な英語を活かそうと翻訳をはじめたという人は少数派だ。なぜ少数派なのか、理由ははっきりしている。英語の文章が読 めるのは当たり前、翻訳者にとって当たり前というだけでなく、まともな社会人にとって当たり前なのだ。自慢になるようなことではない。それに翻訳には、さ まざまな知識を吸収する力、内容を理解する力、理解した内容を日本語で表現する力など、多様な力が必要だ。翻訳は総合力の勝負なのだ。

 総合力が必要だなどと綺麗ごとをいっても通じないのが普通だから、どぎつい言い方をするしかない。英語が得意だというのはたいてい、中学か高校のころに 「英語ができるね」と褒められたからだ。なぜ、英語ができると褒められたのか。褒める側からみて、他に取り柄がなかったからだ。「英語ができるね」はお世 辞。本音は「英語は少しできるね、他は駄目だけど」だ。褒めるはけなす、けなすは褒めるなのだ。総合力が高いと思えば、誰も「英語ができるね」とはいわな い。こんな簡単な事実に気づかないから、英語が得意だなどと思い込む。気の毒だとしかいいようがない。

 証拠はあるのかという人もいるだろうから、簡単な事実をあげておこう。英語が得意だし好きだから翻訳者になりたいという人には少なくとも1000人以上 会ってきたが、そのなかに、翻訳に必要な水準まで英語の文章が読める人はほとんどいなかった。構文解析すらできない。だから、英文和訳の基準で考えてす ら、誤訳のない訳文が書けない。この程度でなぜ、英語が得意だと考えているのか、不思議に思うのが普通だ。

 英語が得意だというのなら、せめて構文解析がしっかりとできるようにしてほしいと思う。構文解析というと、そういうのは古い、英語の感覚を身につければ 解析などしなくても英文を自然に理解できるようになるという人が少なくない。感覚が大切なのは確かだが、そう主張する人はたとえば、A and B of Cというじつに簡単な句の解釈を間違えることが多い。なぜ間違えるかというと、感覚だけに頼っているからだ。感覚だけに頼っていると、日本語の感覚と英語 の感覚の区別がつかない。英語の感覚では(A and B) of Cが自然なのに、日本語の感覚で自然に感じるA and (B of C)だと思い込む(ただし、それが自然だというだけで、例外もたくさんある)。日本語の感覚と英語の感覚の違いを意識化し、論理的に把握するのが、構文解 析である。構文解析をおろそかにしていては、英文は読めない。英文が読めなければ、翻訳はできない。

 構文解析がしっかりできるのであれば、論理的な思考ができるのだから「英語ができるね」などという失礼なことは誰にもいわれなくなるだろう。

翻訳と通訳のどちらを選ぶのがいいか……
 こう真顔で聞かれると、返事に窮してしまう。翻訳と通訳は似ているというのが世間の常識だが、翻訳者の立場からはそうは思えない。アナウンサーと新聞記 者ぐらいの違いがあると思える。アナウンサーと新聞記者はどこが違うか。アナウンサーが結婚すると週刊誌や新聞で記事になるが、記者が結婚しても記事にな らない、というと顰蹙を買うだろうか。だがこれはある意味で正しい答えだ。アナウンサーは華やかで、記者は地味だ。そして通訳はある意味で華やかだが、翻 訳は徹頭徹尾地味だ。それだけではない。アナウンサーはしゃべるのが仕事、記者は書くのが仕事だ。そして通訳はしゃべる仕事、翻訳は書く仕事である。

 どちらも外国語の仕事ではないかと思われるかもしれないが、翻訳者にとって外国語は手段のひとつでしかない。手段として外国語が必要不可欠な仕事はいく らでもある。会社勤めに英語が不要かどうか、日産の社員に聞いてみるといい。サッカーにスペイン語が不要かどうか、大久保選手に聞いてみるといい。

 翻訳では外国語は手段のうちのひとつでしかない。翻訳は何よりも母語で書く仕事である。読者に喜んで読んでもらえる文章を書くのが仕事だ。だから何より も、プロとして通用する日本語が書けなければいけない。外国語力と少なくとも変わらないぐらい重要なのが母語での文章力である。

翻訳は創造的な仕事だといわれているが……
 そう主張する人がいるのは確かだ。そういう主張には2つの背景があるように思う。

 第1に、どういうわけか、翻訳はいま憧れの職業になっているようで、大学で翻訳を教えてほしいと学生に求められることが多いという。そのときに、たとえ ば小説を書くことなどとてもできないが、小説の翻訳ならできるだろうと考えている学生が多いようで、翻訳はそんな甘いもんじゃないと教え諭すために、翻訳 は創造的な仕事だと主張する先生がいる。

 第2に、いまの世の中では、これもどういうわけか、創造的な仕事は価値が高いとされている。翻訳は創造性の対極にある仕事なので、こういう世の中では馬 鹿にされやすい。そこで、翻訳だって創造的な仕事なのだと胸をはろうとする人がでてくる。いっていれば、相撲人気の回復のために、相撲取りにもイケメンが いると主張するようなものだ。

 どちらの主張も信じるには足りないように思う。翻訳は創造や独創と少なくとも変わらないほど重要な役割を担っている。その点を考えていく方が翻訳という 仕事の性格を理解しやすくなる。

「知的財産権」という言葉を聞くか目にしたことがあるだろう。「知的所有権」と呼ばれていたものが最近、そう呼ばれるようになった。何となく古臭い言葉だ と感じたとすれば、言語感覚が鋭いのではないだろうか。

 中世には重要な知識は秘密にされ、独占されるのが常識だった。門外不出、一子相伝、免許皆伝などの言葉がそれを象徴している。近代になると、知識の独占 が社会の進歩を妨げることが認識されるようになり、知識の公開が原則になった。だが、知識の独占は支配のための手段だったし、近代になると金儲けのための 手段になったから、知識をもつ人は簡単にはそれを公開しようとしない。そこで作られたのが特許権、著作権などのいわゆる知的所有権だ。これは知識を公開す ればその代償として、一定期間に限って独占権を与える仕組みである。だから、知的所有権とは基本的に、知識の公開のための手段であった。

 いま、この知的所有権を逆に、知識の独占のための手段にしようとする動きがある。これは要するに中世に戻そうとする動きであり、そう主張する人たちは知 識の公開の対価という意味をもつ「知的所有権」という言葉を嫌い、「知的財産権」という言葉を使うよう提唱している。

 このときにカギになるのが、創造性を至高のものとする考え方だ。

 最近話題になった青色発光ダイオードを例に考えてみよう。世紀の発明だから、発明者に何百億円も支払うのが当然だと主張した人がいた。苦笑するしかな い。青色発光ダイオードが貴重な発明であることはいうまでもない。だがその前に発光ダイオードがあり、その前にダイオードがあり、その前にダイオードの原 型になった真空管があり、そのはるか前にもちろん電気がある。これらの知識が一子相伝にされず、公開されて継承されてきたからこそ、青色発光ダイオードが ある。それだけではない。青色発光ダイオードの発明には多数の研究者が取り組んできた。この方法で失敗し、あの方法でも失敗したことが公表されてきたから こそ、成功する人がでてきた。失敗の蓄積があったからこそ成功したのだ。その点を考えていくと、創造性といわれているものがじつは個人技ではなく、たくさ んの人たちの努力に支えられていることが分かるはずだ。たくさんの人たちが知識を生み出し、それが公開され、継承されてきたからこそ、個人の努力が実るの である。

 相撲取りはファッション・モデル並みのスタイルと顔の良さで勝負したりはしない。翻訳者は創造性で勝負したりはしない。翻訳者は、たとえば外国の優れた 知識を母語で学べるようにし、それを学んだ人が創造性を発揮できるようにする役割を担う。あるいは創造性とは違った部分で社会に寄与できるようにする役割 を担う。また、外国の独創的な娯楽を母語で楽しめるようにする。創造性や独創性とは土俵が違うところで社会に貢献するのが、翻訳者だ。翻訳には創造性がな いといわれれば、それがどうしたといえばいい。

独学でも翻訳は学べるのか……
 これも、真顔で聞かれると返事に窮してしまう質問だ。なぜ答えに窮するかというと、この質問の背景にはいくつかの前提があるからだ。まず、翻訳は学べる ものだという前提がある。そして、翻訳学校で学べるという前提がある。翻訳者になりたければ、翻訳学校に通って基礎から一歩ずつ学んでいくべきだとは思い ますが、そうはできない事情があるので、独学でも学べるかを質問したいのですというわけだ。

 簡単な事実をみていけば、この前提がどこかおかしいことに気づくはずだ。世の中には大量に翻訳学校があって、ずいぶんたくさんの人が翻訳を学習してい る。大量の学習者を集める通信教育もある。ところが、たいていの学習者が目標にしている出版翻訳は、せいぜい数百人が仕事をしているにすぎないほど、そし て多くても数十人が生活費を稼げるにすぎないほど規模が小さい。この事実をみるだけで、翻訳学校で学べば出版翻訳者になれるとは考えにくいことが分かる。 もうひとつ、現に活躍している翻訳者のなかに、翻訳学校で学んだという人が意外なほど少ない事実も指摘しておこう。翻訳学校にはじめて行ったのは講師とし てという人も多い。

 違った例をあげると、同時通訳者は知っているかぎり全員、通訳学校か大学で通訳の訓練を受けている。通訳学校に通えば同時通訳者になれるわけではなく、 せいぜい何%かの人がなれるにすぎないようだが、それでも独学で同時通訳者になったという人はまずいないはずである。こういう事実があるからおそらく、独 学では通訳は学べないというのが正解である。

 この点も、翻訳と通訳の違いを示すものなのだろう。通訳は訓練を受けなければできない。翻訳は違う。翻訳は学校に通わなくてもできる人はできるし、通っ たからできるようになる仕事ではないようなのだ。だから、翻訳は才能だという意見があるのも不思議ではない。翻訳は学んでできるようになるものではない、 できる人ははじめからできるし、できない人はいくら学んでもできるようにならないというのだ。こう断言してしまうのが、現役の翻訳者にとっていちばん楽で あるのは確かだ。教える必要はなくなるし、競争相手があらわれるのを封じることもできる。

 それはともかく、少なくとも、翻訳は学べるものだという見方を当然の前提にするわけにいかないことだけは確かだと思う。翻訳は週に1回学校に通って授業 を聞けばできるようになるほど簡単ではない。翻訳者養成のマニュアルなど、おそらくどこにもない。少なくともほんとうに役立つマニュアルはない。決まった カリキュラムをこなせばできるようになるほど、ノウハウが固まってはいない。

 ではどうすればいいのか。それが分かれば苦労はない。だが、翻訳を「学習」しようとしても無理であるのは確かだ。翻訳を「学習」するというとき、翻訳の 世界にも小学校から中学、高校、大学のような決まった階段があると考えている。入門から基礎学習、応用学習を経て、下訳者になり、翻訳者のひよこになり、 一人前になり、最後に一流の翻訳家になるという構造があると想定している。この階段を一歩ずつ上がっていけばいいのだと想定している。階段の一段ごとに懇 切丁寧に教えてくれる教師がいるはずだと想定している。だが、翻訳の世界はそんなに組織だっていない。

 階段などどこにもない。決まった道筋はない。だから、階段を一歩ずつ上がって翻訳者になること、あるいは自分の名前で翻訳書をだすことを目標にしていて は駄目だ。そんなに低い目標では追求する意味がない。はじめから一番上のさらに上を狙うほどの気合がなければいけない。いま世の中にある翻訳をはるかに超 えるほど質の高い翻訳をしてみせるというほどの覇気がなければいけない。既知のものを学習するのではなく、未知のものを研究しようという意欲がなければい けない。新人はそうでなければいけない。

 そう考えていくと、「翻訳学習者」というのは不思議な言葉だと思えてくる。翻訳についての世間の誤解を集約した言葉なのではないかと思えてくるのだ。翻 訳を学習しようとするからうまくいかない。何よりも、「翻訳学習者」という看板を下ろした方がいいといえるほどである。

2005年3月号