翻訳の現状
山岡洋一
翻訳者の貧困
翻訳フォーラムの掲示板に井口耕
二氏による産業翻訳者の収入の分析が掲載されていた。アルクの『実務翻訳ガイド』2002年度版に基づ
くもので、2000年のデータを分析対象にしている。この分析を読んで、井口氏の意図とは少し違うかもしれないが、産業翻訳者の収入の少なさに愕然とし
た。
アルクのデータにはいくつか問題がある。ひとつには、井口氏が断っているように、このデータが翻訳者全体の様子をどこまで反映しているのかがまったく分
からない。少なくともある層の様子を反映しているのだろうが、それがどういう層なのかも分からない。したがって、以下に紹介する数値はそのような限界があ
るものだと受け取ってほしい。
おそらくはそれ以上に大きな問題として、「収入」という言葉が何を意味しているかがよく分からない。産業翻訳者は基本的に個人事業主なので、売上があ
り、経費があり、所得がある。売上から経費を差し引いたものが所得だ。たぶん、「収入」とは売上のことなのだろうが、会社勤めの場合の賃金と比較するので
あれば、所得を使う方が実感に近い。経費がどれだけかかるかは人によって違うだろうが、常識的に考えれば少なくとも売上の30%、多ければ50%を大きく
超えるはずである。
30%というと経費率がずいぶん高いと思われるかもしれないが、どんな会社でも人をひとり雇えば、給料の最低2倍の経費がかかる。常識的には3倍かか
る。たとえば年間の給与総額が500万円の人を雇うと、給与以外の経費が最低500万円かかり、普通は1000万円かかる。だから、経費率は50%から
70%が普通であり、30%であればきわめて低いとみるべきである。30%とは、年間売上が1000万円の人で経費が年に300万円、月に25万円であ
る。事務所経費やOA機器、ソフトなどにかかる経費は馬鹿にならないし、情報収集や学習にかかる経費をけちっていてはまともな翻訳はできない。翻訳を職業
にするのであれば、経費率が30%というのは最低水準だと思う。
そこで、経費率を30%と想定して、井口氏があげた「年収」の数値に0.7を掛け、所得がどれだけあるのかをみてみた。以下は井口氏が作成した表の一部
に「所得」の推定値を加えたものである。
年収範囲
所得範囲 人数 比率
(万円)
(万円) (人) (%)
0〜 100 0〜
70 32 18
100〜 200 70〜 140
21 12
200〜 300 140〜 210
21 12
300〜 400 210〜 280
25 14
400〜 500 280〜 350
4 13
500〜 600 350〜 420
13 7
600〜 700 420〜 490
15 8
700〜 800 490〜 560
5 3
800〜 900 560〜 630
7 4
900〜1000 630〜 700
6 3
1000〜1500 700〜1050
10 6
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合計
179
平均年収 413万円/年 平均所得 289万円/年
産業翻訳者の平均所得は、年に289万円である。人数がいちばん多いのは年間所得が210〜280万円の層であり、179人中25人、14%である。年に
1000万円を超える人はおそらくおらず、年に700万円を超える人も179人中10人、6%しかいない。年に490万円を超える人も179人中28人、
16%しかいない。
同じ2000年の世間の平均所得がどれぐらいかを調べると、勤労者世帯の実収入は平均673万円であった。つまり、産業翻訳者の場合、年間所得は勤労者
世帯の平均の43%しかない。平均を超える人は6%ほどしかいない。産業翻訳者はごく一部の人を除いて、一家の生活を支えるだけの収入を稼げないというこ
とになる。共稼ぎか、独身か、資産収入が十分にあるか、何らかの条件がなければ、食べていけないはずである。
別の指標をみると、常用労働者平均賃金は少し低く478万円だ。常用労働者というのは大雑把にいえば勤め人である。これと比較しても産業翻訳者の平均所
得は60%しかない。平均を超える人は15%しかいない。要するに、産業翻訳者の所得はごく普通の勤め人と比較しても、はるかに低い。
井口氏が指摘しているように、アルクのデータによれば、目標年収を「500〜600万円」とする産業翻訳者が多い。平均賃金より少し上を目標にしている
と考えれば、これは不思議とはいえない。だが、この場合おそらくは経費が考慮されていない。売上が600万円の場合、経費率を30%に抑えても所得は
420万円にしかならず、平均賃金よりも低くなるのだ。
もちろん、翻訳を職業として選ぶときに、所得だけを考えている人はおそらくいない。所得でははかれない価値があると考えている。だが、いまの世の中では
所得がその人やその職業の価値をあらわしていることを忘れてはならない。所得が少ないのは、翻訳者が、そして翻訳という職業が低くみられていることを示し
ているのである。翻訳は低くみられて当然の職業なのだろうか。
前述のように、このデータが産業翻訳者の全体像をとらえたものなのかどうかはよく分からない。だが、もしこれが産業翻訳者の実情だというのなら、発注者
と翻訳会社にとって、この点の意味するものは重大だと思う。
産業翻訳者の収入を決めるのは、何よりも発注者と翻訳会社が支払う単価である。現在の単価の水準では、産業翻訳者は低くみられているとしか考えられない
ほど所得が少ない。発注者や翻訳会社はそうはもちろん考えてもいないだろうが、結果として、産業翻訳者を不当に低くみていることになる。人並みに稼ぐこと
ができないほど力が劣る人間だとみていることになる。発注する翻訳は、その程度の人に任せていいものなのかどうか。それでほんとうにいいのか。この点を、
発注者や翻訳会社には真剣に考えてほしいと思う。
エージェントがいない
井口氏の分析を読んだころにちょうど、イチローの契約更改の話が新聞にでていた。マリナーズが11億円を提示したのに対し、イチローの代理人は16億円
を要求しているという。思わず計算してしまったが、井口氏が分析対象にした179人の収入を合計しても7億円少しにしかならない。
イチローと年収を比較してもはじまらないが、この記事で注目すべきは、「代理人」が年俸の交渉をしていることだ。代理人は野球をしないし、品質管理も納
期管理もしない。イチローがエラーをしても(めったにないことだが)、菓子折りをもって謝りにいったりはしない。だが、年俸の交渉だとか移籍の交渉になる
と、心強い味方になる。最善の契約が結べるように交渉してくれるのだ。
「代理人」とはもちろんエージェントである。井口氏の分析にもでてくるように、産業翻訳の世界にも「エージェント」と呼ばれる会社がある。だが、イチロー
の代理人とはまったく性格が違っている。産業翻訳の世界でエージェントというのは翻訳会社であり、顧客から翻訳を請け負って、翻訳者を下請けとして使って
いる。代理人ではなく、請負会社なのだ。請負会社だから、価格競争を避けるのは難しい。翻訳者のために単価を引き上げるよう、顧客に要求するのはまして難
しい。
翻訳の世界にはほんとうの意味でのエージェントがいない。ほんとうのエージェントであれば、翻訳者と発注者の間の取引にあたって、翻訳者の代理人として
交渉する役割を果たすはずだ。発注者が発注する相手は翻訳者になり、エージェントではなくなる。発注者が翻訳者の名前を知っているし、連絡先も知っている
し、仕事の質も知っているという状況になる。
発注者の立場からは、ほんとうに大切な文書の翻訳を依頼するのであれば、信頼できる翻訳者に依頼したいと考えるのが当然であり、そのためには適正な価格
を支払おうと考えるのが当然である。だから、大リーグで常識になっているように、エージェントに依頼して翻訳者と契約しようと考える発注者がいても不思議
ではない。もちろん、大リーグのような巨額を支払うはずはないが、それでも、一家の生活を支えられる収入を稼げないほど低い単価で依頼しようとは、どの発
注者も考えないはずだ。
現状ではエージェントと称する請負会社が翻訳を請け負っている。発注者は実際に誰が翻訳を担当するのかすら知らない場合がほとんどのはずだ。翻訳会社は
翻訳を請け負ったのだから、誰に依頼するのかは自由に決める。品質を管理し、納期を管理し、納品した後に顧客から苦情がくれば菓子折りをもって謝りにい
く。発注者は翻訳者の名前すら知らないのだから、ましていくら稼いでいるかは知らない。一家の生活を支えられる収入も稼げないとは、たぶん考えていない。
想像力を働かせればすぐに分かるはずだが、業者の下請けのことなど考えるものがいるだろうか。
エージェントが代理人ではなく、契約の本人になっている。そのために、発注者からは翻訳者がみえない。産業翻訳者の所得が少ない原因のひとつはここにあ
るのかもしれない。
(2003年12月号)