翻訳概論
山岡洋一

翻訳主義と翻訳調

 
 日本の翻訳について考えようというときに、アダム・スミスの『国富論』を持ち出すのはなぜかと思われるかもしれないが、少しばかりお付き合いいただきた い。スミスは『国富論』第4編第7章「植民地」で、こう論じている。

 アメリカの発見と、喜望峰回りのインド航路の発見は、人類の歴史のなかでもとくに偉 大で重要な出来事であった。……だが、アジアとアメリカの先住民にとって、この二つの出来事によって得られるはずだった商業的な利益が、それらによって起 こった恐ろしい不運のためにすべて失われている。しかしこの不運は、これらの出来事自体の性質によるものではなく、偶然によるものだとみられる。この二つ の発見の時期にたまたま、ヨーロッパ人は圧倒的に強い力をもっていたため、遠方の国で、何の処罰も受けることなく、正義にもとる行動をあらゆる種類にわ たってとることができた。おそらくは今後、これらの国の住民はもっと強くなり、あるいはヨーロッパ人の力が弱まって、世界各地の住民が対等の勇気と力をも つようになるとも思える。そうなってはじめて、互いに恐怖心をもつようになり、一部の国の不正を抑えることができるようになり、各国が互いの権利を認めあ うようになるだろう。だが、各国間の力の均衡をもたらす要因としては、各国が知識とあらゆる種類の改良を伝えあうこと以上のものはないと思える。……(拙 訳『国富論』日本経済新聞出版社、下巻213〜4ページ)

 この部分を読むと、「アジアの先住民」のなかで、日本人はなんと幸運だったのだろうと思わざるをえない。日本はヨーロッパからみれば「極東」、つまり世 界の果ての果てに位置している。それにヨーロッパ人との交流がはじまった16世紀には、日本がある程度強い力をもっていたので、ヨーロッパ人は「何の処罰 も受けることなく、正義にもとる行動をあらゆる種類にわたってとることができ」る状態ではなかった。17世紀に、いわゆる鎖国政策で貿易や文化交流の条件 を自国で定めることができたのは、金銀銅を産出する世界有数の資源国という強い立場があったからだ。銅はヨーロッパにまで輸出されていた(『国富論』上巻 178〜9ページを参照)。また、誇り高い中国が唯一、日本とだけは相手国に出向いて貿易を行っていた事実をみれば、日本の立場がいかに強かったかが分か るはずだ(『国富論』下巻270〜1ページを参照)。

 もちろん、19世紀半ばになると日本の立場は強いとはいえなくなっていた。たった4杯の蒸気船で夜も寝られなくなり、薩英戦争や馬関戦争で彼我の軍事力 に圧倒的な差があることを思い知らされた。日本はこのとき、「アジアとアメリカの先住民」の例にもれず、「恐ろしい不運」に見舞われかねない状況になった のである。当時の世界地図をみれば、幕末明治の人たちの危機感がいかに強かったか、ある程度想像できる。アメリカ、アフリカ、アジアの大部分が欧米列強の 植民地になっていたのだから。このとき、欧米との「力の均衡」を達成して植民地化の危機を回避するには、「知識と改良」を欧米から学ぶしかなかった。

 日本は欧米の知識を学ぶためにどういう方法をとったのか。ひとことでいえば、「翻訳 主義」をとったのである(丸山真男・加藤周一著『翻訳と日本の近代』岩波新書、43ページ以下を参照)。

 つまりこうだ。欧米の進んだ知識を学ぶ方法は大きく分けて2つある。第1が、英語なりフランス語なりの欧米の言語を学んで、欧米の言語で進んだ知識を学 ぶ方法である。第2が、母語に翻訳して欧米の進んだ知識を学ぶ方法である。当時の後進国の大部分は、19世紀には欧米の植民地になっていたこともあって、 第1の方法を採用している。第2の方法を採用したのは、ごくごく一部の国だけであった。その代表が日本であったといえる。

 丸山真男と加藤周一が指摘しているように、明治の初めには第1の方法をとるべきだという主張があったが、それでは「上流階級と下層階級でまったく言葉が ちがってしまう」と批判されたという(同書45ページ)。

 日本は翻訳主義を採用した結果、当時の後進国にはめったになかったことだが、小学校から大学までの教育をすべて自国語で行えるようになった。もちろんそ の一方で、翻訳主義を実行するために不可欠な人材である翻訳者を育成するために、中等・高等教育では徹底した外国語教育を行っている。だが、外国語教育す ら、外国語で外国語を教える直接法ではなく、母語で外国語を教える間接法が中心だった。したがって、すべての教科を母語で教えたといえるのである。言語能 力は思考力の基礎だ。そして誰でも、母語の能力は外国語の能力と比較にならないほど高い。だから、母語で教育を受けられれば、外国語で学ぶしかない場合と 比べて、圧倒的に有利だ。

 19世紀半ばの後進国のなかで、20世紀半ばまでに近代化を達成できた国はほとんどなかった。唯一ともいえる例外が日本であった。この点と、明治初めに 翻訳主義を採用した点との間に関係がなかったとは思えない。日本がいち早く近代化を達成できたのは、翻訳主義の成果だといえるはずなのだ。

 もちろん、翻訳主義だけで近代化が達成できたわけではない。いくつもの幸運が重なり、多数の要因があって、近代化を進めることができたのだろう。そうし た要因の1つに教育制度があるといえるだろう。日本は明治時代に、欧米にならって近代的な教育制度を確立した。このため、優秀な人材を育成できた。しか し、当時の後進国のほとんどでは中等・高等教育を英語などの欧米の言語で行っていた。そういう国では、頭脳流出に悩んでいることが多い。教育に投資して も、優秀な人材は先進国に流出してしまうのである。これでは教育に投資する意味がない。日本の場合には翻訳主義を採用して、母語で教育する方針をとったの だが、おそらく、頭脳流出がそれほど大きな問題にならなかった一因はここにあるのだろう。

翻訳主義を支えたもの
 19世紀半ばの後進国で翻訳主義を採用した国がほとんどなかったのは、大部分の国が植民地になっていたからだろうが、同時に翻訳が容易ではなかったから でもあるはずだ。欧米の知識を学ぶのであれば、まずは欧米の言語、たとえば英語を学び、英語で知識を学ぶ方が簡単だったはずだ。だが、この方法では少数の 個人が欧米の知識を学べるだけであって、大部分の庶民は取り残される。「上流階級と下層階級でまったく言葉がちがってしまう」し、上流階級のなかで優秀な 人たちは欧米に流出する結果になる。そこで、明治以降の日本は困難を承知のうえで、翻訳を行うことにした。

 だが、欧米の知識は理解することなどとてもできないと思えるほど進んでいたし、当時の日本の知識とは違っていた。知識や考え方が違うのだから、欧米で当 然のように使われている概念が日本にはそれまでなかった。概念がないのだから、それを表現する語もない。そのうえ、文の構造が違う。「誠に艫舵〔ろかじ〕 なき船の大海に乗り出せしが如く、茫洋〔ぼうよう〕として寄るべきかたなく、たゞあきれにあきれて居たるまでなり」というのはそれより1世紀近く前の翻訳 者の実感だが(杉田玄白著『蘭学事始』岩波文庫、38ページ)、明治になってもそれほど事情が変わっていなかったはずである。

 幸い、日本にはほぼ1000年にわたって漢文訓読という形で中国の文献を翻訳し、学んできた経験があった。欧米の文献の翻訳にあたっては、この蓄積を活 かすことができた。

 まず、語彙の違いという問題を解決するために、明治の時代に大量の訳語が作られている。以前から使われていた語を訳語として使った例も多いが、漢字を組 み合わせて訳語を作った例もきわめて多い。こうして作られた訳語はやがて、英和辞典にまとめられていく。現代の大英和辞典をみると、数十万の見出し語や熟 語のすべてに訳語が割り当てられている。訳語だけが書かれていて、語句の意味は書かれていない。明治初期にどういう訳語を作るか、あるいは使うかに苦労し た名残が、いまの大英和訳語辞典なのである。

 つぎに、明治の時代に確立したのが翻訳調という翻訳スタイルである。漢文訓読の方法をヨーロッパ言語からの翻訳に応用したのが、翻訳調である。つまり、 原文の構文を解析して後から前に、決められた順番で訳し、個々の単語や連語には決められた訳語をあてはめていく方法である。

 翻訳調は新興国型の翻訳スタイルだといえる。はるかに進んだ先進国から知識を取り入れるという目的に合わせて作られた翻訳スタイルなのである。翻訳調で は、原文ははるかに進んだ欧米文化の代表するものなので、理解することなどとてもできないことが前提とされている。だから、原文の表面、つまり構文や語句 を決められた訳し方で「忠実に」訳していくのである。こうして訳された翻訳書は、原文の意味を伝えることは目的としていないので、これを読んだだけで意味 が理解できるとは想定されていない。せいぜいのところ、「さしあたって」の訳であり、原文の意味を日本語で議論し、考えていく際の参考資料になるにすぎな い。翻訳書を参考に、「原書」を読んで意味を考えていくか、原文を想像して意味を考えていくのが、翻訳調で訳されたものの正しい読み方であった。

 したがって、翻訳調の想定読者は主に、原書を読む人であった。大学で原書購読の授業を受ける学生が典型である。もちろん、翻訳調の想定読者は原書を読む 人だけではない。原書を読めない読者のために、いわば原書購読の疑似体験ができるようにすることも、翻訳調の重要な役割であった。原文の表面、つまりどう いう構文や語句が使われているかが透けて見えるように訳してあるので、読者は原文がどうであるかを想像しながら、意味を考えていける。しかも、日本語で訳 されているので、母語である日本語で考えていけるのである。

 もう1つ、忘れてはならないのが、教育制度だ。明治時代に確立した教育制度はいくつもの目的をもっていたが、その1つが欧米の進んだ知識を取り入れて近 代化を達成する努力を担える人材の育成であったことは間違いない。

 とくに、中学以降の英語教育は、翻訳調の読者を育て、翻訳者になる優秀な人材を選別し育成するという目的に合わせて最適化されていたと思える。英語教育 の柱の1つだった英文和訳ではまさに、翻訳調での訳し方を教えていた。構文を理解したうえで決められた訳し方で訳し、個々の語句には決められた訳語をあて る方法がとられていた。原文の意味を伝えられる日本語で訳すのは「意訳」とされて、いましめられた。当時、さかんに使われた文法訳読も、翻訳調で訳す方法 で行われていた。

 要するに、明治以降、日本は翻訳主義によって欧米の進んだ知識を取り入れることを目標に、翻訳主義を支えるインフラを築いてきた。翻訳調という翻訳スタ イル、翻訳調の読者と翻訳者を育てる教育制度、訳語を集めた英和辞典といったインフラである。

主流と傍流
 翻訳調は明治半ばからほぼ100年にわたって、日本の翻訳の規範としてきわめて強い力をもってきたのだが、注意しておくべき点もある。明治以降のどの時 期にも、翻訳調ではない翻訳スタイルもつねに使われてきたことである。とくに、小説や詩の翻訳では、がちがちの翻訳調が使われたとはかぎらない。翻訳調と いうスタイルはもともと、欧米の進んだ知識を取り入れるために作られたものだから、翻訳調の規範がとくに強かったのは、欧米の知識のうち、日本の近代化に 不可欠だとみられた部分である。当初は技術の部分であり、やがて、自然科学、社会科学など、論理を扱う分野へと広がっていった。

 明治以降の翻訳主義では、近代化のための手段という性格上、論理を扱う部分が主流になったのである。明治半ばごろから、文学の翻訳がさかんになってくる が、これはいわば傍流である。この傍流でも翻訳調は使われてきたが、それでは文学にならないという見方も強かった。したがって、明治大正昭和の優れた文学 者は、翻訳調ではないスタイルで訳していることが少なくない。

 翻訳調の規範に縛られないスタイルがとくに目立ったのは、おそらくエンターテインメント小説の分野だろう。たとえば、村上博基や矢川澄子らの翻訳家は、 翻訳調の規範がまだきわめて強かった時代に、まったく違ったスタイルで優れた翻訳を行っている。これはある意味で当然のことである。前述のように翻訳調は 原書を同時に読む読者を想定しているのだが、エンターテインメント小説でそういう読み方をする読者がいるとは考えにくいからだ。

翻訳調はなぜ廃れたのか
 翻訳調というスタイルは過去25年ほどに規範としての力を急速に失った。辞書にない訳語を使ったというだけで「意訳は控えてください」などとお叱りを受 けることはまずなくなった。原文の3語を2語で訳したときに訳抜けだとお叱りを受けることもなくなった。いまでは翻訳は執筆になった。原文の意味を優れた 日本語で読者に伝えるのが翻訳の目的であって、原文の表面がどうなっているかを伝えようとする必要はなくなっている。哲学など一部の分野にはいまだに翻訳 調が生き残っているが、これらの分野でもいずれ翻訳調は廃れていくだろう。

 このため、いまでは翻訳調について論じること自体、時代後れだという見方も強くなっている。もう過去の話であって、いまでは誰も問題にしてはいないとい うわけだ。

 だが、翻訳調にこだわる理由はある。過去を理解しないものは、現在と将来を考えることができない。そのときどきの流行に流されるしかない。翻訳調という 翻訳スタイルは、翻訳主義を基盤にし、教育や辞書と密接に結び付いている。だから、翻訳調とは何で、なぜ廃れたのかを理解しないものは、今後の翻訳がどう であるべきか、今後の辞書がどうであるべきか、今後の教育がどうであるべきかを考えることができないのではないかと思う。

 そこで、時代後れといわれようが、何といわれようが、こう問いたい。翻訳調はなぜ廃れたのかと。

 この問いは別の角度から考えることもできる。たとえばこうだ。翻訳調が廃れたのは良いことなのか悪いことなのか。翻訳調はいま、一時的にはやらなくなっ ただけで、いずれ復活するものなのか。あるいは、復活させるべきものなのか。翻訳調に基本的な間違い、欠陥があったから廃れたのか。翻訳調は所期の目的を 達成できたのか。

 このように考えていくと、答は明らかだと思う。翻訳調は明治時代に、理解することなどとてもできないと思えるほど進んでいた欧米の知識を吸収して近代化 を達成するという目的に会わせて確立された翻訳スタイルである。その後の歴史をみれば明らかなように、翻訳調の所期の目的は達成されたのである。翻訳調に は欠陥や問題点があったという意見もあるだろうが、結果をみるなら、翻訳調は成功を収めている。そして、成功したからこそ、歴史的な使命を終えて退場し た。だから、今後に復活することはないし、復活させるべきではない。

 翻訳調が廃れたのは当然だったのである。過去20年ほどに翻訳調という規範の力は急速に衰えたのだが、実際にはもっと以前に歴史的使命を果たし終えてい たのだと思う。もっと以前に翻訳調を顕彰し、新しい時代に相応しい翻訳スタイルに移行すべきだったのだろう。

翻訳調衰退の影響
 翻訳調というスタイルは翻訳主義を基盤にしていた。つまり欧米の進んだ知識を、翻訳という手段を使って取り入れる方針に基づいていた。翻訳調が衰えたと き、翻訳主義はどうなったのか。

 結論からいうなら、翻訳主義は健在である。新興国だった日本がまがりなりにも先進国の仲間入りを果たした以上、新興国型の翻訳スタイルから脱却するのは 当然である。だが、新興国だろうが先進国だろうが、他国から優れた知識を学ぶ必要があることに変わりはない。だから、翻訳調というスタイルが廃れた後も翻 訳は新しいスタイルで続いている。そして、いわば先進国型のスタイル、執筆型の翻訳が主流になった。以前の傍流が主流になったのである。

 明治の翻訳主義を支えていたあと2つの柱はどうなったのか。まず、辞書についていうなら、訳語を並べただけの英和辞典はもう時代後れである。訳語ではな く、語義を示す辞書がこれからは必要になるだろう。この動きはまだはじまったばかりである。今後が楽しみだともいえるが、前途は多難だ。

 もうひとつは教育である。過去の英語教育は前述のように、翻訳調の読者と翻訳者を育てるという目的に会わせて設計されていた。翻訳調が廃れて、英語教育 はどうなっているのだろうか。どうやら、翻訳調につながるような教育が単純に全否定されているようだ。英文法は嫌われ、英文和訳やリーディングすら嫌われ ている。たしかに、歴史的使命を果たし終えたとき、翻訳調の翻訳も、翻訳調の考え方に基づく英語教育も腐臭を放っていたといえるだろう。それをみて、それ だけをみて、過去を全否定した結果が、いまの英語教育なのだろう。結果をみれば成功を収めたことが明らかな教育方法を全否定するのが、百年の計を担う立場 の人間に相応しい姿勢なのだろうか。

 いまの英語教育はコミュニケーション能力を重視しているのだそうだが、いったいどのような人材を育成しようとしているのか、はなはだ疑問だ。海外旅行で 買い物ができるようにすることが目的なのだろうか。それとも外国人の上司の命令を理解できる人材を育てたいのだろうか。いまの大学生は英語の読解力が驚く ほど低い。これでコミュニケーション能力が養えるのかは疑問だし、学習能力が養えないのは確かだ。

 公教育という伏魔殿に入り込もうなどとは思わないが、中学から大学までの英語教育はいま、悲惨な状況になっているように思える。過去を真剣に考えること なく将来の方針を決めたために、いまの若者が気の毒な状況になったのではないだろうか。執筆型の新しい翻訳スタイルに基づけば、英語教育と訳読教育の新し い道が開けると思う。

(2010年6月号)