翻訳者の役割

保守主義の原則


 


山岡洋一

  翻訳者は日本語について保守的であるべきだと思う。そう思う理由はいくつかある。

 第1に、翻訳者はいうまでもなく、外国語をいつも読んでいる。訳文を書くとき、手元に外国語で書かれた原文がある。外国語と日本語の違いをつねに意識し、日本語の日本語らしさを大切にしようと考えていないかぎり、訳文はかぎりなく外国語に近づいていきかねない。原文が英語で書かれているときはとくにそうなる危険が高い。

 第2に、翻訳者にとって日本語はきわめて大切である。翻訳という仕事が職業になるのは、外国語で読むより、母語である日本語で読むほうがいいと考えてくれる読者がいるからだ。日本語が貧しくなり、幼稚になり、表現力を失い、美しさを失い、論理性を失っていけば、英語で読むほうがいいと考える読者が増えていきかねない。そんなことはありえないと思えるかもしれないが、高を括っていると数十年後には翻訳が成り立たなくなる可能性もある。

 第3に、翻訳者は外国から新しく優れた文化を取り入れる役割を担っているので、新しい概念や考え、感情などを表現できる新しい言葉につねに敏感である。だが、新しさを追求する立場にあるからこそ、古いものを大切にしなければならない。新しいものを取り入れるには古いものを捨てていくべきだと考えていると、流行に流されて空転するばかりで、実は何も前進していないという結果になるのが普通だ。温故知新という言葉があるように、前進したいのなら、古いものを学んで、基礎をしっかりさせるべきだ。

 第4に、いつの時代にも、日本語の規範を確立するのは物書きの役割である。物書きは社会全体からみれば無為徒食に近く、偉そうなことを書くだけで何も生産していないともいえる。その物書きが、まがりなりにも人並みの生活ができるのは、日本文化の基盤である日本語の規範を確立する役割を果すからでもある。翻訳者は、物書きの端くれとしてこの役割の一端を担うべきである。そして、規範はその性格上、保守的である。基本を明確にし、基本を守るのが規範の役目である。

 翻訳者は日本語に関して、保守主義の原則を掲げるべきだと思う。たとえば、言葉の選択に迷ったときには、新しい言葉より古い言葉を選ぶ。流行の言葉よりも月並みな言葉を選ぶ。欧文脈よりも日本語本来の構文を選ぶ。そして何よりも、言葉のひとつひとつについて、表現のひとつひとつについて、通用しているかどうかではなく、正しいかどうかを考える。これを原則にすべきだと思う。

翻訳者の立場と会計士の立場
 保守主義の原則という言葉は、会計用語から借用したものだ。会計の世界では、「保守的」が褒め言葉、「創造的」がけなし言葉である。あらゆる経済活動の基礎になる会計情報の信頼性を維持するためには、保守性、つまり慎重さが何よりも大切だからだ。

 それにしても、「創造的」がけなし言葉というのは理解しがたいという意見もあるだろう。会計というのは経営の一分野なのだ。経営ではもちろん、安全第一を心掛け、手堅い商売で着実に儲けていく方法もある。だが、そんな手法が通用する業界はいまやほとんどなく、どの企業も創造的破壊を必要としているのではないのか。

 この見方はかなりの程度正しいといえるだろう。たしかに創造性が重要だ。だが、だからこそ、会計は保守主義の原則を高く掲げるべきなのだ。その点を象徴する動きがアメリカであった。エンロンの倒産である。

 エンロンという会社は、ある意味で1990年代のアメリカを代表する創造的な企業であった。それまで規制でがんじがらめに縛られてきたエネルギー業界に革新をもたらした。絵に描いたような創造的破壊の動きによって、一躍アメリカを代表する大企業になった。そのエンロンが2001年末に急速に経営が悪化し、ついに倒産した。創造的会計で隠されていた部分で巨額の赤字が発生したからだ。

  創造的な事業を進めていくとき、会計処理の面でも決められた基準では処理しきれない部分がでてくることが多い。そういうとき、経営者の立場からは、会計処理も創造的に行うべきだと考えるのが当然である。だが、その結果どうなるかというと、取引相手、貸し手、投資家にとって、財務報告を読んでも、会社の健全性や利益が判断しにくい状況になる。健全で高収益だと信じていた企業が巨額の損失を抱えていたことが分かると、取引相手は取引に応じなくなり、貸し手は貸さなくなり、投資家は資金を引き揚げる。エンロンの場合には、問題が明らかになってからわずか1か月半で倒産している。

 エンロンの場合に問題だったのは、保守主義の原則を掲げて経営者の創造的会計処理に待ったをかける立場にある監査法人が、逆に経営陣の方針に協力していたことだ。巨額の報酬を支払ってくれる客の意向には逆らえなかったようだ。それが分かって、名門の監査法人、アンダーセンが責任を問われ、消滅した。

 翻訳者の立場は会計士の立場に似ている。たとえば情報技術関連の翻訳の例をみてみよう。ソフトの新製品が発売されるとき、開発した企業の側は創造性と革新性を強調したいから、新しい言葉を使いたがる。その結果、使う側がとまどうのではないかとは考えない。本来なら、翻訳者が(あるいはテクニカル・ライターが)、待ったをかけるべきなのだ。会計士が経済活動の基礎である財務情報の信頼性を守る責任を負っているように、翻訳者には日本文化の基礎である日本語の信頼性を守る責任がある。

 もちろん、現状はそうなっていない。会計士の場合には、公認会計士という資格をはじめ、さまざまな制度によって守られているのに、エンロンの監査を担当した会計士は顧客の意向に逆らえなかった。何の資格もなく、身を守る制度もなく、業界団体すらない翻訳者が、顧客の主張に待ったをかけられるはずがない。

 翻訳の国家資格を設けろとか、業界団体を作れとか言いたいわけではない。そんなものは百害あって一利なしだ。翻訳者が日本語を守る立場から発言力をもてるようにするには、まったく違った取り組みが必要だろう。何よりも、物書きという立場があるのだから、物を書いて主張すべきだ。これが第一歩である。

伝達を拒否する言葉
 何を主張するのか。とくに重要な点のひとつに、言葉の濫用を止めようという主張があると思う。言葉は意味を伝えるためのものであり、意味を伝えない言葉、意味を伝えないことを意図する言葉を使うのは止めようと呼びかけるべきだ。

 翻訳者は外国語で書かれた文章の意味を母語で伝える仕事をしている。この立場上、言葉とは意味を伝えるものだと信じている。それ以外の機能があることは、なかなか意識できない。だが、たとえばソフトの開発者が新しい言葉を使うとき、政治家や評論家が新しい言葉を使うとき、マスコミや企業が新しい言葉を使うとき、意味を伝えない言葉をわざわざ選んでいることが少なくない。

 たとえば、銀行の不良債権の査定を厳格にするために、アメリカ流の「ディスカウント・キャッシュフロー方式」を採用すべきだと主張されている。この言葉は何か意味を伝えているのだろうか。なぜ、この方式を使えば、不良債権の価値(逆にいえば、不良債権で銀行が負担する損失)を厳格に、そして正確に査定できるといえるのか。何の説明もなされていないように思える。この言葉が伝えているのは、言ってみれば印象だけである。アメリカで使われている高度な方式で、素人さんには分からないでしょうが、それはもうたいしたもので……というわけだ。

 水を差すようだが、「ディスカウント・キャッシュフロー」という名前の方式がアメリカで使われている例は寡聞にして知らない。使われているのはdiscount cash flow modelではなく、discounted cash flow modelである。日本語にすれば「現金割引法」か「キャッシュフロー割引法」だ(新聞には「割引現在価値方式」と書かれているが、不正確だと思う)。とくに新しいものではなく、少なくとも数十年前から使われている。そしてこの方法では、基礎になる数値がすべて予想と想定によるものなので、厳格で正確どころか、目の子算にそれらしい化粧をほどこしただけのものであることが半ば常識になっている。要するに、「ディスカウント・キャッシュフロー方式」は中身のない空疎な言葉にすぎないのだ。

 似た例は、情報技術産業にいくつもみられる。たとえば、ある家庭向けパソコンの説明に、スロットインマルチプレードライブ、サウンドビュー、ナイトモードボタン、ハードウェアMPEG2リアルタイムエンコーダを搭載・装備し、ボディカラーはスターリーナイトブラックだと書かれていた。意味を伝えない言葉をわざわざ選んでいるとしか思えないのではないだろうか。

 別の例をあげよう。『ロード・オブ・ザ・リング』という映画の広告をはじめてみたとき、それが『指輪物語』であることにしばらく気づかなかった。なぜこんな題名を使うのだろうか。原題を片仮名にしたのではない。原題はThe Lord of the Ringsなのだから。「ロード」という言葉をみて、「道」以外の意味を思いつく人がはたしてどれほどいるのか。

 このような空疎な言葉が使われる理由はさまざまだ。マニアや専門家は、部外者が理解できない言葉をわざわざ使おうとすることが多い。パソコンはもともとマニアの玩具だったので、パソコンの世界にはそういう言葉がたくさんある。そのような言葉を使って部外者を排除し、部外者に意味を伝えないようにしているのだ。ある意味では意地が悪く、傲慢で鼻持ちならないともいえるが、少し見方を変えれば幼稚なだけだともいえる。

 意味は伝えなくてもいいから、何か新しいものという印象だけを与えたいという場合もある。『ロード・オブ・ザ・リング』はその一例だろう。宣伝には、このような言葉が多数使われている。目新しい言葉を使って悦に入っているのだから、ある意味で何ともみっともないことだと思える。だが、言葉だけで人を操ろうとしているのだから、とんでもないことだともいえる。

 言葉にはこのように、意味を伝えない使い方や、意味の伝達を拒否する使い方があるのだが、翻訳者は意味を伝えることを当然としているので、このように言葉が使われている事実をなかなか認識できない。認識できないから、振り回される。たとえば、世の中に通用している言葉だから使っても大丈夫だろうと考える。だれがなぜ通用させているのかまでには、なかなか考えが及ばない。

 言葉は意味を伝えるためにある。これが翻訳者の感覚だ。この感覚は正しいと思う。言葉は意味を伝えるために使うべきものであり、部外者を排除するためや人を操るために使うべきではないと考える。だが、現実を認識しなければ、この正しい感覚は活きてこない。部外者を排除するためや人を操るために言葉が使われている現実を認識したうえで、言葉は意味を伝えるために使うよう主張すべきだと思う。

(第2期第7号)