翻訳の歴史
山岡洋一

「アメリカ独立宣言」の翻訳(1)

 
なぜ、翻訳の歴史を考えるのか
 翻訳の歴史について論じるというと、なぜなのか、と質問したくなる人もいるでしょう。たしかに歴史は面白い。最近は篤姫のブームになっていますし、織田 信長や坂本龍馬をはじめ、歴史には興味をひかれる人物がたくさんいます。だから、歴史は面白い。しかし、面白いのは人物であり、翻訳の歴史に何か面白い物 語があるというのか、そう思われても不思議ではありません。ですから、まず、翻訳の歴史を取り上げるのはなぜなのかを説明しましょう。

 なぜ、歴史を振り返るのか、その理由は単純です。どのような分野でも、行き詰まったとき、前進したいときには、原点に返るのが常識です。

 たとえば、山を歩いているとき、道に迷ったらどうするか。もとに戻るのが常識です。先ほどの三叉路で右に行くべきだったのに、左に行ってしまったのが間 違いだったとすると、このあたりで右方向に歩いていけば正しい道に行き当たるはずだと考えたくなります。しかし、この方法をとると、ますます迷って取り返 しがつかなくなりかねません。苦労して歩いてきた道を引き返すのは心が重いとしても、引き返さなくてはいけない。そうしなければ、前進はできません。

 同じことが、たとえば、政治とか、社会とか、芸術とか、もっと大きな分野でもいえます。今回取り上げるのは、幕末から明治初期にかけての翻訳ですので、 その時代背景になった明治維新とは何だったのかを考えてみましょう。維新という言葉は、漢文読み下しでは「これ新たなり」です。ものごとをすっかり新しく するという意味です。では、明治維新にあたって、ものごとを一新するためにどういう方法がとられたか。ご存じのように、「王政復古」という方法がとられて います。復古、つまり昔に戻ったのです。新しい時代に適応するために、前進するために、昔に戻ったのです。

 前進するために昔に戻るというのは、明治維新に限ったことではありません。たとえばヨーロッパの文化の歴史をみていくと、ルネサンスが近代的な文化の出 発点になっていますが、これも古代ギリシャ・ローマ文化に戻る運動でした。宗教改革は、キリスト教の原点に戻る運動でした。近代思想に大きな影響を与えた ルソーは、「自然に戻れ」、つまり原始の昔に戻れと主張しました。

 いま、アメリカの金融危機をきっかけに、世界的に経済が急速に悪化しています。新聞や雑誌を読んだだけでも分かるはずですが、こうなると世界の経済専門 家は過去を振り返り、歴史をみて、解決の方法を探ろうとします。そこで、世界経済が同じような苦境に陥った1930年代の大恐慌に注目する人が増えていま す。大恐慌の時代にどういう政策がとられ、どういう経済理論が生まれたのかを調べて、前進のためのヒントを得ようとしているのです。

 このように、どのような分野であっても、道に迷ったとき、前途がみえにくくなったとき、閉塞状況から抜け出したいとき、現状から飛躍したいときには、歴 史を振り返り、原点に戻る方法が使われます。翻訳でも、同じ方法が使えるはず。そう思うから、翻訳の歴史をみてみようと考えるのです。

翻訳の現状
 翻訳の現状が素晴らしいのであれば、歴史を振り返る必要はそれほどありません。翻訳は着実に進歩してきた、これまでと同じ道を歩んでいけばもっとよくな るだろうと思えるのであれば、昔に戻る必要などないのですから。

 ですから、翻訳の歴史をみてみようと思うのは、翻訳の現状に満足できないからです。翻訳の現場で苦闘している立場から、現状のどこに問題があるのかを簡 単にまとめておきましょう。現状に問題があるからこそ、歴史をみてみようと思うのですから、歴史について論じる前に、現状はどうなのかをまとめておくこと は不可欠です。

 翻訳の現場にいる立場からいうなら、日本の翻訳はいま、長年の規範が崩れて、新しい方向がみえない状況にあると思えます。翻訳にはさまざまな分野があ り、分野によって性格に違いがありますが、大きくいうなら、20年ほど前まで、いわゆる翻訳調という規範が確立していました。いまはどうかというと、翻訳 のさまざまな分野のうち、とくに目に付きやすい部分、つまり一般読者向けの出版翻訳の分野では、翻訳調は蛇蝎のごとく嫌われているといえます。

 翻訳調とは何かを論じていけば、それで1冊の本が書けるほどですから、ここでは簡単に触れておくだけにします。翻訳調とは要するに、学校英語の英文和訳 のように訳す方法です。実際には、学校英語の方が翻訳調を取り入れて、英文和訳の教育法、学習法ができたのでしょうが。いずれにしろ、英和辞典に書かれた 訳語を使い、学校英語の英文法で教えられる規則にしたがって訳していくのが、翻訳調です。

 20年ほど前まで、この翻訳調がいかに強い規範であったかは、たとえば当時、辞書にない訳語を使って訳すのは「意訳」だとされて、嫌われていたことを考 えてみれば、十分に理解できるはずです。

 いまでは、翻訳調という言葉、別の言い方をすれば学者訳という言葉は、少なくとも一般読者向けの出版翻訳の世界では、非難するとき、悪くいうときにしか 使われませんから、かつて強固だった規範が崩れたのはたしかでしょう。翻訳調は時代の要請に合わなくなったのであり、規範が崩れたのは当然だし、良いこと だというのが適切な見方だと思います。

 ではいま、どのような翻訳が好まれているかというと、一般には、「読みやすく分かりやすい翻訳」、別名「こなれた翻訳」でしょう。「読みやすく分かりや すい翻訳」とはどういう翻訳なのかは、かならずしもはっきりしているわけではありませんが、いま、新聞や雑誌の書評で翻訳書が取り上げられるとき、「訳文 はこなれている」とか「読みやすく分かりやすい」などの表現が決まり文句になっているのをみれば、これが常識になっていることが分かります。

 この常識が正しいと思うのであれば、翻訳者や編集者は、「読みやすく分かりやすい」翻訳を目指して、日夜努力すればいい。歴史を振り返る必要などありま せん。しかし、これが正しい方向だとなどと考えられるのでしょうか。じつのところ、「読みやすく分かりやすい翻訳」というのは、読みにくく分かりにくい翻 訳調はいやだと駄々をこねているだけなのです。過去の規範を否定しているだけで、新しい方向は何も示していません。新しい方向は何もみえていないのです。 これでは翻訳の質は高まりません。幼稚さにお墨付きを与えるだけです。翻訳に真剣に取り組もうとするのであれば、「読みやすく分かりやすい翻訳」なんぞを 目指そうとは考えません。もっと上を目指します。

 そのためには、翻訳調とは何だったのか、翻訳調のどこにどういう問題があり、どこをどう乗り越えていくべきかを考えていくべきです。翻訳調という古い規 範が崩れた現状で、新しい規範を確立することを目指すべきです。そう考えたとき、翻訳の歴史を振り返ることが是非とも必要だと思えてくるはずです。

 もうひとつ、翻訳とは一見、何の関係もない動きからも、翻訳の歴史を振り返ってみたいと痛感しています。いわゆるオバマ現象です。4年前の2004年、 オバマ氏は上院議員ですらなく、まったく無名の政治家でした。異例の抜擢で、民主党大会の基調演説を行ったとき、会場に集まった人たちは当初、おしゃべり に熱中していて、ほとんど誰も、演説を聞いていなかったといいます。ところが、演説に注目する人が少しずつ増えて、最後には皆、熱狂したそうです。この演 説で、オバマ氏は一躍注目されるようになり、4年後には大統領選挙で圧勝するまでになりました。演説の力、言葉の力をこれほど鮮明に示した例は、めったに ないのではないかと思います。

 マスコミでは、日本にオバマ氏のような力のある政治家がいないと嘆く論調が目立っています。ですが、翻訳者という立場からは、もっと気になることがあり ます。翻訳者は日本語を書く仕事をしていますから、政治よりも日本語にはるかに強い関心をもっています。その立場からいうなら、いまの日本語では、どれほ ど力のある政治家が登場しても、1回の演説で人びとに感銘を与えられるとは考えにくいと思えます。いまの日本語には、そのような力がないと思えてならない のです。

 オバマ演説を聞くと、英語が日本語といかに違うか痛感させられます。演説を聞き、トランスクリプトを読んでみてください。一語一句を正確に記録したトラ ンスクリプトが、見事な文章になっています。力があり、リズムがあり、記憶に残る文章になっているのです。演説で使われる話し言葉が、文章で使われる書き 言葉と一致していて、どちらも力強いものになっています。もちろん、オバマ氏のように、あるいはクリントン元大統領のように、優秀な話し手であれば、とい う条件がつきますが、優秀な話し手あれば、力のある演説や講演がそのまま、力のある文章になります。いまの日本語でこれが可能かどうか、考えてみるまでも ないのではないでしょうか。いまの日本語では、書き言葉と話し言葉は乖離しています。そして、おそらくはその結果、どちらも力がなくなっている。これが日 本語の現状ではないでしょうか。

 いま、日本語の書き言葉でふつうに使われている文体は、口語体と呼ばれています。明治の言文一致運動からはじまったのが口語体ですから、言と文が一致し ているはずなのですが、事実は正反対です。話し言葉は文章にならず、文章は話し言葉になりません。原稿に基づいて話そうとすると、国会の演説のように、眠 気を誘うものになります。聞き手に感銘を与えられる演説や講演などできるはずがありません。

 それが翻訳とどういう関係があるのかと思われるかもしれません。しかし翻訳には、過去150年にわたって日本語を作ってきた伝統があります。いまの日本 語はかなりの程度まで、翻訳によって作られてきたのです。ですから、いま、日本語を鍛え直す必要があるとするなら、翻訳者はそのための努力の一端を担うべ きだと思うのです。

 というわけで、翻訳の歴史をみていこうと思うのですが、その際に原点になるのは、幕末から明治初期にかけての翻訳でしょう。いま、翻訳という言葉で考え るものが本格化したのが、この時期だからです。翻訳を広く考えるなら、それ以前にもほぼ1000年にわたる伝統があります。漢文読み下しという形で、古代 中国語の文献を日本語に訳してきたからです。ですが、欧米の言語からの翻訳がはじまったのは事実上、江戸時代中期の『解体新書』からであり、本格化したの は、幕末からです(安土桃山時代には欧米の言語からの翻訳があったのですが、江戸時代には継承されていません)。

題材としての「アメリカ独立宣言」
 翻訳の歴史を考えるとき、幕末明治から現代まで、何人もの人が同じ原文を訳しているものを題材にするのが便利です。原文が同じなので、翻訳のスタイルの 違いを考えるのが容易になるからです。

 今回はそういう題材のひとつとして、「アメリカ独立宣言」を選びました。この翻訳でとくに有名なのは、福沢諭吉訳であり、『西洋事情』に収められていま す。この本が出版されたのは慶応2年(1866年)ですから、明治維新の前の年です。

 福沢諭吉訳は、翻訳論でよく取り上げられます。とりわけ有名なのが以下の本です。

 柳父章著『比較日本語論』(バベル・プレス、1979年)

 この本の第5章で、柳父章は「独立宣言」の冒頭部分を取り上げて、福沢諭吉訳と翻訳調の「直訳」を比較し、福沢訳がいかに優れているかを論じています。 名詞中心の英語の構文を用言中心の日本語の構文で訳しているからだといいます。柳父章のこの指摘に基づいて、翻訳の方法や日本語と英語の違いを論じたもの には、たとえば以下があります。

 安西徹雄著『英語の発想』(ちくま学芸文庫、2000年)第2章
 小川明著「日英語の性質の違いが翻訳に及ぼす影響(4)」(読 んで得する翻訳情報マガジン No.176

 それほど有名な翻訳論のある題材を取り上げたのは、福沢訳以外に、いくつもの翻訳が見つかったからです。何種類もの翻訳を入手できたのは、知り合いの優 れた翻訳家が、以下の論文を教えてくださったからです。

 白井厚、田中義一、原田譲治「『アメリカ独立宣言』の邦訳について」三田学会雑誌77巻3号(1984年8月)、77巻4号(1984年10月)、77 巻 6号(1985年2月)、78巻2号(1985年6号)79巻1号(1986年4月)

 この論文の(1)(三田学会雑誌77巻3号)によれば、江戸時代後期から1980年代初めまで、ほぼ100年間に26種類の翻訳が発表されています。こ のうち入手できたものに、その後の翻訳もくわえて、以下を今回の検討の対象にしました。

@ 福沢諭吉訳 『西洋事情』(慶応2年、1866 年) 巻之二 pp. 4 - 10
A 中村正直訳 『共和政治』(明治6年、1873年) pp. 19- 26
B 高橋正次郎訳 『自由之権利』(明治28年、1895年) pp. 311 - 320
C 倉持千代訳 同訳述『米國憲法史』(有斐閣、昭和4年、1929年) pp. 248 - 255
D 高木八尺訳 同著『米國政治史序説』(有斐閣、昭和6年、 1931年) pp. 258 - 260
E 立教大学アメリカ研究所訳 D. W. オーヴァトン著『アメリカ政治思想の系譜』(潮書房、昭和25年、1950年) pp. 46- 52
F 人権思想研究会訳、同編『世界各国人権宣言集』(巌松堂、昭和25年、 1950年) pp. 81 - 84
G 高木八尺訳 アメリカ学会訳編『原典アメリカ史』第2巻(岩波書店、昭和26年、1951年) pp. 187 - 193
H 宮田豊訳 大石義雄編『世界各国の憲法典』(有信堂、昭和31年、 1956年) pp. 23 - 27
I 高木八尺訳 『世界の名著33 フランクリン、ジェファーソン他』(中央公論社、昭和45年、1970年) pp. 232 - 237
J 斉藤真訳 『アメリカ史の文脈』(岩波書店、昭和56年、1981年)  pp. 102 - 110
K 土田宏訳 W. ケンドール、G. ケアリー著『アメリカ政治の伝統と象徴』(彩流社、昭和57年、1982年) pp. 236 -241
L 友清理士訳、同著『アメリカ独立戦争』(学研M文庫、平成13年。2001年) 著者のインターネッ ト・サイト

 「アメリカ独立宣言」の原文はたとえばア メリカ政府アーカイブ・サイトにあります。

訳者の経歴
 何人かの訳者の経歴を簡単に紹介しておきましょう。

福沢諭吉(1835〜1901年)
 経歴がとくによく知られているのは、福沢諭吉でしょう。1835年に中津藩士の息子として大阪に生まれ、適塾などで蘭学を学んだ後、江戸に出て、安政5 年(1858年)に蘭学塾を開きます。これが現在の慶応義塾の起源であり、2008年が150周年にあたっています。万延元年(1860年)に咸臨丸で米 国へ行き、文久元年(1861年)には幕府の遣欧使節団に加わっています。

 慶応2年(1866年)に」出版された『西洋事情・初編』で「アメリカ独立宣言」を訳しています。その後、明治5年(1872年)の『学問のすヽめ・初 編』、明治8年(1875年)の『文明論之概観』などを出版しており、明治初期を代表する啓蒙思想家、教育者です。

中村正直(1832〜1891年)
 福沢諭吉とくらべれば、知名度はやや低いものの、やはり明治初期を代表する教育者、翻訳家です。天保3年(1832年)に幕臣の息子として江戸に生ま れ、昌平坂学問所などで儒学を学び、幕末期を代表する儒者になって、「江戸川聖人」と呼ばれました。安政2年(1855年)に昌平坂学問所教授になってい ます。その間、密かに蘭学、英学を学んでいます。

 慶応2年に幕府が留学生をイギリスに派遣したとき、若者が伴天連にならないように監督する必要があると主張して、留学生取締として英国にわたりました (そう主張した本人が、真っ先にキリスト教徒になったそうです)。帰国後、サミュエル・スマイルズのSelf-Helpを訳した『西国立志篇』、J.S. ミルのOn Libertyを訳した『自由之理』が大ヒットしています。とくに『自由之理』は、自由民権運動の出発点になったことで有名です。

高橋正次郎(まさじろう)
 高橋正次郎については、J.S.ミルのOn Libertyを訳した『自由之権利』という訳書があることが分かるだけです。「米国独立之檄文」は『自由之権利』の付録として巻末に収められています。

 高橋訳『自由之権利』の翻訳の特徴については、「翻訳通信」2006年12月号(第2期第55号)で論じています。とくに面白いのは、本文の段落の頭に 「◎第九章」などと書かれ、各文の頭に数字が振られている点です。「凡例」にはこう書かれています。

一 「第一章」「第二章」等ノ區畫ハパラグラフノ謂ナリ。123等ノ數字ハセンテンス ノ區畫ナリ。是主トシテ原書ニ對照スル人ノ便ヲ圖リテナリ。故ニ少シク英學力アル仁ハ成ルベク原書ト對照セラレヨ。

「米国独立之檄文」にはこのような数字はなく、『自由之権利』の本文とは翻訳のスタイルに若干違いがあります。それでも、この「凡例」を読むと、明治の半 ばには、「英學力アル仁」が増えて、「原書ニ對照スル人」のために翻訳が行われるようになったことがよく理解できるはずです。

倉持千代
『米國憲法史』という訳書があること以外、何も分かりません。

高木八尺(やさか)(1889〜1984年)と斉藤真(1921〜2008年)
 ともにそれぞれの時期を代表する政治学者、アメリカ政治史研究者であり、東京大学名誉教授です。高木八尺の弟子で後継者が斉藤真です。

その他の訳者
 宮田豊は保守派の憲法学者として有名な大石義雄の弟子であり、京都産業大学名誉教授です。土田宏はアメリカ政治学者で、城西国際大学国際人文学部教教授 です。

 昭和初期以降の訳者をみていくと、政治学者や憲法学者が大部分であることが分かります。これは偶然ではありません。この時代にはどの分野でも、その分野 を代表する学者が重要な文献を翻訳することになっていたからです。欧米の進んだ知識を吸収することが学者の使命でしたから、重要な文献の翻訳は、学者に とって本業中の本業だったのです。

福沢訳、中村訳とその後の訳の違い
 同じ原文でさまざまな翻訳があるわけですが、これらについて考えるときには何よりもまず、それぞれをじっくりと読み、味わってみるべきだと思います。と くに、幕末の福沢諭吉訳と明治初期の中村正直訳をじっくりと味わい、何かを感じとってもらいたいと思っています。

 福沢諭吉訳には、『福澤諭吉著作集第1巻』(慶應義塾大学出版会)など、図書館などで比較的簡単に読めるものがいくつかあります。しかし、その福沢諭吉 訳も、おそらくそういう便利な方法が使えない中村正直訳も、もうひとつ、明治半ばの高橋正次郎訳も、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、画像を ダウンロードできるようになっています。慶応年間と明治に出版された本のそのままの画像があるので、できればそちらで読んでいただければと願っています。

資料1  国立国会図書館近代デジタルライブラリーのURL
福沢諭吉訳 『西洋事情』(慶応2年、1866 年)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=56000690&VOL_NUM=00002&KOMA=6&ITYPE=0
(画面右上の「印刷/保存」をクリックし、6 - 12ページを保存し印刷してください)
中村正直訳 『共和政治』(明治6年、1873年)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40019604&VOL_NUM=00001&KOMA=26&ITYPE=0
(画面右上の「印刷/保存」をクリックし、26 - 33ページを保存し印刷してください)
高橋正次郎訳 『自由之権利』(明治28年、1895年)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40019783&VOL_NUM=00000&KOMA=165&ITYPE=0
(画面右上の「印刷/保存」をクリックし、165 - 170ページを保存し印刷してください)

 資料1に掲げたURLで訳文をダウンロードし、印刷して読むと、じつに面白い点がいくつか分かります。

 第1に、福沢諭吉訳と中村正直訳では、活字ではなく木版が使われています。なにしろ浮世絵では、髪の毛の一本一本まで木版で表現していたのですから、文 字ばかりの本を木版で出版するのは何でもなかったはずです。

 第2に、2種類のルビが使われていることに気付くはずです。たとえば福沢訳をみると、第2段落の○の後の「因循姑息」には右側に「インジュンコソク」と いうルビがあり、左にも「ナゲヤリ」というルビが付いています。右ルビは読みを示し、左ルビは意味を示しています。いまでは右ルビすらあまり使われず、ま して左ルビが使われた例はみたことがありませんが、当時はごく普通に使われていたようで、中村正直訳でも、本文2行目の「管轄」に「シハイ」という左ルビ が付いています。

 第3に、福沢諭吉訳の時代には句読点がなかったことが分かります。たとえば『福澤諭吉著作集第1巻』には句読点が付いていますが、これは著作集の編集段 階で付けたものです。中村正直訳になると、句読点の代わりに、ピリオッドに近いものが付けられています。おそらく、音読する際の息継ぎの場所を示している のだと思います。

 しかし、福沢訳を読むと、句読点がないのに、文章の区切りが明らかであるのに驚かされます。句読点に頼れなかったので、文章をしっかり構成しているので しょう。

 第4に、福沢諭吉や中村正直の時代に、段落冒頭の一字下げがなかったことが分かります。高橋正次郎の訳書にもありません。

 福沢諭吉訳、中村正直訳ともに、片仮名と漢字を使っており、当然ながら、旧字旧仮名を使っているので、はじめのときは少々とまどうかもしれません。

 まず、よく知られているように、当時は濁点をほとんど使っていません。「〜ヘカラズ」と書いて「〜べからず」と読みます。また、片仮名のなかに読めない 字が3つあるはずです。たとえば、福沢諭吉訳の本文3ページ目1行目の「趣旨ニ戻ル」の次の字が読めないはずです。これは片仮名のトとキを組み合わせた字 で、「トキ」と読みます。本文3ページ目7行目の「然れ」の次の字も読めないはずです。これは片仮名のトとモを組み合わせた字であり、「トモ」または「ド モ」と読みます。本文5ページ目3行目の「意ヲ用ユル」の次にある「┐」に似た字も読めないでしょう。これは「コト」と読みます。しかし、これらに慣れ、 二度三度と読むと、150年近く前に訳されたとは思えないほど、意味が伝わってくるのではないでしょうか。

 ここで重要なことは、黙読するのではなく、音読することです。いま、「読む」というと黙読が常識ですが、これが常識になったのはせいぜい50年ほど前か らです。それ以前は音読が常識でした。福沢諭吉や中村正直が活躍したのは、150年近く前ですから、音読の時代です。だから、読むときは、音読してほしい と思います。

 福沢諭吉訳、中村正直訳と、斉藤真訳、宮田豊訳を朗読して、20代の若者に聞いてもらったことが何度かあります。そのとき、比較的最近の訳よりも、 150年近く前の訳の方が、じつは意味が伝わってくるようだという印象をもった若者が多かったようです。

 そこで、音読用の資料を2つ用意しました。資料3は、 福沢諭吉訳の「亜米利 加十三州獨立ノ檄 文」の全文です。ルビを追加して、音読しやすくしています(句読点はくわえていませんが、それでも十分に読みやすいことが分かるはずです)。「独立宣言」 の原文も掲げています。資料4は、検討の対象にした訳すべての第1段落です(実際には「独立宣言」の原文は段落がないのですが、通常、第1センテンスを第 1段落としています)。ほんとうはすべての訳の全文を掲げたかったのですが、そうもいかないので、第1段落だけを掲げます。第1段落の原文は以下の通りで す。

    When in the Course of human events, it becomes necessary for one people to dissolve the political bands which have connected them with another, and to assume among the powers of the earth, the separate and equal station to which the Laws of Nature and of Nature's God entitle them, a decent respect to the opinions of mankind requires that they should declare the causes which impel them to the separation.

 ここで何よりも感じ取ってほしいのは、福沢諭吉訳と中村正直訳の力強さです。福沢訳には「亜米利加十三州獨立ノ檄文」という題名がついており、まさに檄 文にふさわしい文体になっています。中村正直訳の題名は「布告書」ですが、やはり檄文と呼べる力強い文体です。

 高橋正次郎訳から、少し文体が変わってきます。それでも、冒頭の「夫レ」や、第1段落最後の「〜ナラズヤ」が典型ですが、文語体の決まり文句を使ってい るため、ある程度力のある文章になっています。

 昭和初めの倉持千代訳からは、力強さがかなり薄れています。戦後の訳、たとえば宮田豊や斉藤真訳を読むと、檄文と呼べるような文章ではないという印象を 受けます。福沢諭吉の訳が檄文だとするなら、戦後の訳は解説だ思えます。わたしはこんな馬鹿なことは考えませんが、原文にはこう書かれていますと解説しよ うとしていると感じられるのです。

 もちろん、世の中が騒然としていた慶応2年と平和になった戦後では、時代背景が違います。だから、「独立宣言」が何か他人事になったのも不思議だとはい えません。しかし、翻訳調、とくに口語体翻訳調が使われるようになって、何が失われたかを考えるうえで、福沢諭吉訳とたとえば斉藤真訳の印象の違いは、ひ とつのヒントになるように思えます。なぜ、このように印象の違う訳になったのか、この点を課題に、つぎに、訳文を分析していきたいと思います。(以下次 号)