翻訳の現状

翻訳教育は可能か

山岡洋一


  翻訳を長くやっているからか、翻訳を教えてほしいという依頼を受けることがある。最近もそういう依頼があったが、受講者からお金をいただくのであればとてもできないと言って、お断りした。無料で非公式のものならいいが、有料の講義はとてもできないと思ったからだ。

 そう思う理由はいくつかあるが、最大の理由は、何年か前に翻訳学校で教えたときに苦しい思いをしたことにある。なぜ苦しかったかというと、かなりの受講料を払って学びにくる受講者がうまくならなかったからだ。これではまるで詐欺ではないかと、自己嫌悪に陥っていった。

 どんな仕事でも、ある程度慣れてくると、後進を指導する立場に立つ。たとえば新卒で就職したときのことを考えてみると、仕事を教えてくれるのはたいてい、入社から数年たった先輩だ。30歳にもならない若手が、新人を教育する役割を担っているわけだ。これが常識である。翻訳の世界だけは例外だと考える理由はない。ある程度の経験を積んで、仕事に慣れてきたのであれば、後進を指導するのが当然である。

 じつのところ、仕事のなかで後進を指導する役割なら、20年近く前から担ってきた。いまも少しずつだが続けている。だから、後進の指導はしないというわけではない。しかしこれはあくまでも、仕事の一環として行っていることであり、講師料をもらったりはしていない。新入社員に仕事を教える若手社員が講師料をもらっているという話を聞かないし、新入社員が受講料を支払ったという話も聞かない。それと同じだ。

 若手が翻訳したものをチェックするとき、発注者からチェック料をいただくことはあるが、これは性格が違う。翻訳チェックは一つの仕事なので、発注者から要請があれば、仕事として取り組む。若手からチェック料をもらうわけではない。

 翻訳学校などで教えるとなると、これとは次元がまったく違う話になる。翻訳を学ぶために受講料を払ってくれる受講者に、どう翻訳すれば商品になるのかを教えなければならない。それも、応用がきく形で教えなければならない。そのためには、翻訳のノウハウを確立し、ノウハウを伝える術を確立しなければならない。そこまでのことはできていないと思う。他人のことは分からないが、少なくとも自分にはできていない。

 仕事のなかで後進を指導するとき、基本的には翻訳ができる人だけを対象に、業界のしきたりやちょっとしたコツなどを伝えるだけでよかった。翻訳ができない人は教育しても時間の無駄だという姿勢をとることができた。

 基本的には翻訳ができる人というのは、外国語を読む力か、日本語を書く力か、どちらかが十分にある人だ。これが出発点である。

 まず外国語の文を読む力だが、とくに構文解析を間違いなくできることが重要である。翻訳を考えるときのカギは外国語ではなく日本語だし、翻訳は語学の仕事ではなく、日本語でものを書く仕事だが、外国語が読めなければ、翻訳はできない。これは当たり前の話である。
 

  構文解析というのは、SVOOとかSVCとかである。構文解析など時代後れだという人が少なくない。たしかにそうかもしれない。構文解析などできなくても、英会話はできるし、英語の本は読めるという意見もある。たしかにそうだ。読むという点についていうなら、英語の本を大量に浴びるほど読めば、文法など知らなくても読めるようになる。これはたしかだ。だが、もうひとつ、たしかな事実がある。構文がわからなければ、外国語の本を読めても翻訳はできない。翻訳という作業は、読むこととはまるで違う。はるかに細かく、はるかに深い。構文を解析できなければ、歯が立たないのが現実だ。

 もうひとつは日本語力だ。翻訳とは日本語での執筆の仕事であり、翻訳の仕事をするからには、商品になる文章が書けなければならない。ところが、翻訳は語学の仕事だと考えていて、日本語を書くという面には無関心な人が少なくない。

 商品になる文章を書く力があれば、英語を読む力が少々弱くても、翻訳を続けていくと急速に力がつくのが普通だ。理由は簡単だ。原文を読み間違えた場合、文章が書けなくなるか、書いた訳文が文章にならなくなることが多い。そうなったとき、どこか解釈が間違っているはずだと考えて、原文を読みなおす。辞書を調べ、用例を調べ、文法書を調べて、何とか読み解こうと努力する。この努力を繰り返していると、自然に読解力がついてくるのだ。商品になる文章を書く訓練を受けたこともなく、修行をしたこともない場合には、こうはなりにくい。どんなにみっともない訳文を書こうが、原文の解釈を間違えたことになかなか気づかない。訳文を読み、原文の読解の間違いに気づいて読みなおすというフィードバックの仕組みが働かないのだ。

 英文の読解と構文解析か、日本語の執筆か、どちらかひとつがしっかりしていれば、翻訳の教育も可能かもしれない。だが、そこまで力がある人はめったにいない。また、そこまで力のある人なら、翻訳教育など不要だといえるかもしれない。必要なのは、教育を受けることではなく、仕事を受けることだといえるかもしれない。

 要するに、翻訳教育でできることには限界があるのだ。少なくとも、自分が講師になる場合には。

 翻訳を学ぼうとする人たちが必要としているのが翻訳教育なのかどうか、おおいに疑問だと思う。何よりもまず、日本語の執筆と外国語の読解を学ぶ必要があるのが通常だ。ところが、この2つは、1週間に2時間程度の授業を受けて学べるほど簡単ではない。たぶん、年単位の努力が必要なものだ。

 たとえば、毎日の通勤時間と土日の休みを使って、週に1冊ずつ外国語の本を読む。これを2年間続ければ、100冊になる。同時に、いやというほど難しい本を1冊だけ、構文解析をしながら繰り返し読む。これでようやく、出発点に立てる。

 またたとえば、好きな著者の全集を読み、とくに好きな作品をまるごと原稿用紙に書き写す。これでなんとか出発点に立てる。

 ひとりではとてもできないのであれば、スパルタ式の教育機関が必要かもしれない。週に2時間ではなく、週に最低6日、1日10時間の訓練を最低2年間行う。こういう教育が必要なのかもしれない。

 はっきりしているのは、英語の読解力も、日本語の執筆力も、翻訳の実力も、ノウハウ書にまとめられるようなものではないし、ノウハウ書を読んで獲得できるようなものではないことだ。仁平和夫は金持ちと貧乏人の違いをこう喝破している。「金持ちは歴史と古典を読む。貧乏人はハウツーものを読む」。ノウハウ書なんぞを読んでいては何もできない。これだけははっきりしている。

(2003年2月号)