翻訳についての断章
山岡洋一

15 年に数千点 − 明治初期の大翻訳時代

  19世紀半ば以降の日本の近代化は、ある意味で当時の常識を覆す動きであり、世界史に残る偉業だとすらいえるだろう。そのなかで翻訳が少な からぬ役割を担ったのはたぶん確かなので、翻訳について考えるのなら、明治初期の翻訳に注目するのが当然だ。

 明治の翻訳というと、たとえば二葉亭四迷が先駆者として有名だ。有名な「あひヾき」が発表されたのは明治21年(1888年)だ。二葉亭は1864年に 江戸で生まれたというから、教育を受けたのは明治に入ってからだ。この事実をみると、明治も半ばのこのころになれば、外国語の教育も進んで、ようやく翻訳 もできるようになったのだろうと思える。

 だが、このように考えるのは、小説の翻訳を中心に考えるからなのかも知れない。翻訳の歴史を扱った本はいくつかあるが、たいていは小説や詩の翻訳をテー マにしている。たぶん、翻訳研究者に文学系の人が多いからなのだろう。日本の近代化に翻訳が役立ったとするなら、主戦場は自然科学や社会科学、思想などの はずである。

 文明開化の時期の翻訳を考えるとき、便利な資料に加藤周一・丸山真男校注『日本近代思想体系15 翻訳の思想』(岩波書店)がある。この本に紹介されて いる明治初期の翻訳は、詩や戯曲もあるが、思想、法律、歴史などの分野のものも多い。丁寧な解説もあるし、翻訳だけでなく原文もあわせて紹介しているの で、当時の翻訳を知るには恰好の資料だ。

『翻訳の思想』は絶版になっているが、幸い、丸山真男・加藤周一著『翻訳と日本近代』(岩波新書)がある。『翻訳の思想』の編集過程での問答を記録したも ので、いわば座談会のようなものなので、はるかに読みやすい。新書なので安いし、入手しやすい。

『翻訳と日本近代』を読んでいて、少々驚く話がでていた。『経国美談』で有名な矢野文雄(竜渓)の『訳書読法』(明治15年)を紹介した部分だ。明治15 年にはすでに「其ノ数幾万巻」の翻訳書が出版されていて、何をどう読めばいいのかが一般の読者には分かりにくくなっていた。そこで矢野は「内務省図書局ニ 納本セル総訳書ノ目録」を調べ、「数千部ノ多キヲ一々精査シ」、読むべき翻訳書をこの本で紹介したというのだ。

 これを読んだとき、「幾万巻」とか「数千部」とかは白髪三千丈の類に違いないと思った。明治15年にそれほどの数の翻訳書がでているなどとは考えられな いと思ったのだ。ほんとうはどれぐらいの翻訳書が出版されていたのか、調べてみようとも考えたが、そのころは調べる方法は見つからなかった。

 最近、国立情報学研究所が公開している大学図書館所蔵図書データベース、Webcat Plusで、ある程度までは調べられることに気づいた。これは全国の大学の図書館にある蔵書のデータベースだから、出版された図書の全数のデータベースで はない。それでも、出版年別に一覧表を表示させることもできるので、翻訳書の点数を調べることがある程度まで可能だ。

 そこで1868年から1882年まで15年間に出版された和書の一覧表を作り、そのなかから翻訳書を選んでみた。結果は以下の通りだ。

         総点数    翻訳書点数    翻訳書純点数
1868年     290         25        19
1869年     279         37        32
1870年     275         35        22
1871年     356         76        53
1872年     410        108        84
1873年     668        132       106
1874年     757        155       116
1875年     781        168       130
1876年     780        172       124
1877年     793        155       114
1878年     789        182       128
1879年     818        188       159
1880年     805        117        88
1881年     934        138        89
1882年     978        181       146
合計     9713       1869      1410
注:Webcat Plus(http://webcatplus.nii.ac.jp/)のデータより作成

 この15年に、データベースに収録されている和書・文書の総点数は9713点(かなりの数の文書が含まれているので、出版点数ではない)、そのうち翻訳 書が1869点もある(翻訳書かどうかを書誌情報から確認できないものは除外した)。このうち、あきらかな重複を取り除くと、翻訳純点数は1410点であ る。簡単には確認できない重複もあるので、この1869点のうちの純点数はもう少し少ないだろう。だが、翻訳と銘打たない翻訳書も多かったし、これは当時 の翻訳書の全数リストではないので、明治15年までの15年間だけで1500点以上の翻訳書が出版されているはずだ。『訳書読法』がいう「数千部」はそれ ほどの誇張ではないようだ。

『訳書読法』が書かれた経緯とその内容からも、当時の翻訳熱のすさまじさが分かる。『翻訳と日本近代』53ページ以下、『翻訳の思想』269ページ以下の 内容をまとめると、こうなる。大分県の南端にある現在の佐伯市に「訳書周覧ノ社」、つまり翻訳書の読書会が作られ、佐伯藩出身の矢野竜渓に「有益ノ訳書ヲ 送致センコトヲ請フ」。矢野は「有益ノ訳書」を送ると同時に、「之ヲ読ムノ順序方法ヲ誤テ之ヲ解スルニ苦シマンコトヲ恐レ、更ニ一篇ノ訳書読法論ヲ草セラ ル、則チ是書ナリ」という。

『翻訳の思想』の273ページ以下に「読ムベキ書目」が見事に分類されて並んでいる。地理、歴史、道徳、宗教、政治、法律、経済、礼儀、医学、心理、論 理、物理、化学、生物、天文などの訳書を紹介し、その後に雑書として、進化論、文明史、社会、伝記、乱世史、紀行、小説をあげている。

 たとえば、歴史ではヒュームの『英史』、宗教では『旧約全書』と『新約全書』、政治ではトクビルの『自由原論』(『アメリカの民主主義』)、ベンサムの 『立法論綱』、経済ではミルの『経済論』、生物学ではダーウィンの『人祖論』、社会学ではスペンサーの『社会学』、ミルの『利学』(『功利説』)と『自由 之理』、伝記ではスマイルズの『西洋立志論』があげられている。

 小説は9点紹介されている。『経国美談』ももちろん入っており、それ以外に『イソップ物語』、ベルヌの『八十日間世界一周』と『月世界旅行』、デフォー の『ロビンソン漂流記』などがあげられている。

 明治15年までの15年間に翻訳出版された1500点近くのリストをみていくと、小説は意外なほど少なく、矢野があげた9点以外ではバニヤンの『天路歴 程』が目立つぐらいだ。

 翻訳点数がとくに多いのは、医学、工業技術、農業技術、法律などの分野である。当時、必要に迫られていた分野で大量の翻訳が行われていたのだろう。ま た、初等中等教育の教科書や、各種の分野の入門書が多数翻訳されていることにも気づく。外国から学んで国民を教育するという目的がはっきりしていたこと が、翻訳書のタイトルを眺めただけで読み取れる。

 繰り返すが、ここで対象にしているのは明治15年までの翻訳である。当時はまともな辞書もなかった(当時の翻訳書には『ウェブストル氏英語字書』なども あるが)。それよりも何よりも、欧米の考え方を理解するのがきわめて困難だった。そして、たとえ理解できてもそれを表現する語彙が日本語になかった。その 時代に、よくここまで翻訳ができたものだと思う。

 明治初期の翻訳を読むと、当時の苦闘の様子がよく分かる。この時代には、ヨーロッパの言葉で書かれた欧米の本を、漢文という枠組みを使って何とか表現す るために格闘したのだろう。翻訳のスタイルは直訳ではなく、意訳だといえる。

 たとえば、中村正直訳『自由之理』の冒頭部分をみてみよう。これは経済学者、哲学者として有名なジョン・スチュアート・ミルのOn Libertyの翻訳である。原著の出版は1859年、翻訳書の出版は1872年だから、ほぼ同時代に訳されている。

自由之理、序論
 リベルテイ〔自由之理〕トイヘル語ハ、種々ニ用ユ。リベルテイ ヲフ ゼ ウーイル〔主意ノ自由〕(心志議論ノ自由トハ別ナリ)トイヘルモノハ、フーイ ロソフーイカル 子セスシテイ〔不得已〔ヤムヲエザル〕之理〕(理學家ニテ名ヅケタルモノナリ、コレ等ノ譯後人ノ改正ヲ待ツ。)トイヘル道理ト反對スルモ ノニシテ、此書ニ論ズルモノニ非ズ。此書ハ、シヴーイル リベルテイ〔人民の自由〕即チソーシアル リベルテイ〔人倫交際上ノ自由〕ノ理ヲ論ズ。即チ仲間 連中(即チ政府)ニテ各箇〔メイ/\〕ノ人ノ上ニ施シ行フベキ權勢ハ、何如〔イカ〕ナルモノトイフ本性ヲ講明シ、并ビニソノ權勢ノ限界ヲ講明スルモノナ リ。(『明治文化全集』第5巻、日本評論社、1927年、傍点は太字で示した)

THE subject of this essay is not the so-called 'liberty of the will', so unfortunately opposed to the misnamed doctrine of philosophical necessity; but civil, or social liberty: the nature and limits of the power which can be legitimately exercised by society over the individual.(John Stuart Mill, On Liberty, Penguin Classics, p.59)

 たとえばliberty、society、individual、natureなどの訳に苦労している様子が読み取れるはずだ(この4つの語は柳父章が 名著『翻訳語成立事情』〔岩波新書〕で取り上げた10の言葉のなかに入っている)。

 苦労したのは中村正直が英語をよく読めなかったからなのだろうか。あるいはミルの主張をよく理解できなかったからなのだろうか。『自由之理』を読むと、 どちらでもないとしか思えない。英語力の点でも、内容の理解力の点でも、中村正直らの当時の翻訳者は間違いなく巨人だ。それと比較すれば、いまの翻訳者は せいぜい子供といえるほどの力しかない。

 当時の翻訳は、中村らの巨人にとってすら、いまでは想像もつかないほど困難な作業だったのだろう。たとえばsocietyやindividualという 単語をどう訳していいのかが分からないのは、訳語が決まっていなかったからではない。話はそれほど単純ではない。たしかに訳語は決まっていなかった。だ が、訳語が決まらないのは、これらの語で表現されている概念がそれまでの日本になかったからだ。概念がないのは、考え方が違っていたからだ。考え方が違っ ていたのはかなりの程度まで、現実が違っていたからである。

 そして、翻訳にあたっては、現実の違い、考え方の違い、概念の違いを理解するだけでは不十分だ。理解した結果を読者に伝えなければならない。欧米の現 実、考え方、概念を知らない読者に原著の内容を伝えようとするとき、直訳調では何も伝わらない。意訳になるしかない。そして、意訳にあたっては漢文という 枠組みを使って表現する以外に方法はなかったはずだ。漢文は中国の古典を取り入れるために作られた文体なので、日本語の文章体のなかで翻訳にとくに適して いる。

 その後、たとえばlibertyは「自由」、societyは「社会」、individualは「個人」、natureは「自然」という風に訳語が決 まってくる。これらの語があらわす概念が理解されるようになったのではない。訳語が決まっただけだ。だがこうなると、たとえばひとつのセンテンスで socialを「人倫交際」と訳し、societyを「仲間連中」と訳すのは許しがたいと思えるようになったはずだ。まして「即チ政府」という注をつける のは。こうして、明治初期の大翻訳時代の後に、原語と訳語の一対一対応を追求する直訳調の翻訳がはじまったのだろう。この点についてはいずれ、明治初期の 翻訳とその後の翻訳を比較検討するなかで考えていきたい。

2004年3月号