翻訳についての断章
山岡洋一

翻訳者に求められる能力

 
 翻訳者にはどのような能力が求められるのか。これは簡単には答えがだせないほど複雑な問題である。

 じつのところ、この問いに対して単純明快な答えをだしてくれる人はいる。翻訳学習者向けの本や雑誌を探せば、簡単な答えが見つかるかもしれない。たいて いは翻訳学校の受講者を集めたいという立場から答えを示そうとしているので、高校卒業程度の英語力とやる気さえあれば大丈夫ですなどと書かれている。こう いう馬鹿話を信じてはいけない。それに、ひとつだけ確かなことがある。翻訳者に求められるのは、少なくとも、簡単なノウハウやマニュアルに頼らない姿勢で ある。簡単な答えを求めず、答えが見つからない状態に不安を感じるどころか、逆にそれを楽しむ姿勢、疑問をどこまでも追求しようという姿勢である。だか ら、単純明快な答えには見向きもせず、複雑な問題を考えていこうと思う。

翻訳は幅広い分野の総称
 なぜ、翻訳者に求められる能力について、簡単には答えがだせないのか。まずいえることは、翻訳という仕事がきわめて幅広いからである。別の分野の例をも ちだすなら、たとえば、大相撲の横綱がマラソンで勝てるかと考えてみればいい。勝てるはずがない。市民ランナーにすら負けるかもしれない。運動能力という 点で人並みはずれた力があるから横綱になれたはずなのに、違う競技だと素人にも負ける。理由は簡単だ。相撲もマラソンも運動、スポーツの一種だが、求めら れる能力がまるで違うのだ。スポーツはじつに幅広いのだ。これと同じことが翻訳にもいえる。

 たいていの人が翻訳という言葉で考えるのは出版翻訳、とくに小説の翻訳だと思う。小説の翻訳にも児童文学、ロマンス、ミステリー、純文学など、さまざま な種類があるのだが、小説以外にも出版翻訳にはさまざまな分野がある。たとえば、数学や物理学、生物学などの自然科学分野の出版翻訳があり、ポアンカレ予 想やフェルマーの最終定理について一般読者向けに書かれた本もある。コンピューター・ソフトや通信をテーマとする技術系の出版翻訳もある。経済や経営に関 する本もある。政治や歴史、心理や脳を扱った出版翻訳もある。美術や音楽などの芸術に関する本もある。要するに、出版翻訳には、ありとあらゆる分野の本が あるのだ。

 これ以外に、産業翻訳と呼ばれる分野があり、主に企業から発注を受けて、マニュアルやレポートなどのさまざまな文書を訳す仕事がある。産業翻訳は出版翻 訳よりはるかに規模が大きいので、翻訳者の数も何十倍かはいる。映画などの字幕や吹き替えを翻訳する映像翻訳もあるし、舞台で上演される戯曲の翻訳もあ る。新聞や雑誌などのマスコミでも、大量の翻訳が発生する。

 このように、翻訳とはじつに幅広い分野の総称なのである。だから、翻訳者にどのような能力が求められるかという問いは、スポーツ選手にどういう能力が求 められるのかという問いと変わらないほど無意味だともいえる。もっと個別具体的に考えていかなければ、答えがでてくるわけがないともいえるのである。

外国語力はたしかに重要だが
 でも、翻訳というからには、語学の仕事のはず、翻訳にはどの程度の語学力が必要なのかという問いなら、答えがだせるはずだと思えるかもしれない。たとえ ば英語なら、高校卒業程度の力でほんとうに十分なのか、TOEICで何点ぐらいが必要なのか、英検で何級ぐらいが必要なのかと聞きたくなる人も少なくない だろう。そう質問されたら、まず2つの点を指摘する。第1に翻訳は「語学」の仕事だというのは、古い古い考え方であり、いまでは通用しない。第2に、高卒 程度の英語力で十分だというのは笑うべき誤解である。そんなはずがないことは、英語の本を何冊か読んでみればすぐに実感できるはずだ。高卒程度の英語力で は、児童書ぐらいしか読めない。その程度の力で翻訳ができるわけがない。以上の2点は簡単に指摘できる。だが、この2点を超えた部分では、簡単な答えはた ぶんない。なぜかというと、翻訳ではどういう能力が幸いするか分からないからだ。

 たしかに、翻訳者には、中学のときから英語で抜群の成績を収めてきた人が少なくない。たとえば英検一級なら大学生のときに軽くとったという人もいるし、 準備らしい準備もしないまま、たまたまTOEICを受けたら990点だったという人もいる。才能に恵まれ、環境に恵まれて、英語で苦労したことは一度もな いという翻訳者は確かにいるのだ。こういう人をみると、うらやましく思う。自分がそういうタイプではまったくないからだ。

 自分のことをもちだすのは恐縮だが、というより恥をさらすようだが、翻訳だけで生活費を賄えるようになったのは、2つの大きなつまずきがあったからだと も思う。第1は中学に入ったとき、英語がさっぱり分からなかった。第2は大学に入ったとき、当時は学生なら誰でも読んでいた古典がさっぱり理解できなかっ た。たとえば、『国富論』などの古典だ。

 まず中学のときの話だが、英語の成績はかなり悲惨だった。何しろ生意気ざかりの男の子だから、こういうときに自分の頭が悪いからだとか、努力が足りない からだとか、そういうことだけはまったく考えない。考えたのは、教え方が悪いからに違いないということばかりだった。高校2年までのころによく考えていた のは、たとえばbookは「本」なのかとか、chairは「椅子」なのかといったことだ。どう考えても、そんなわけがないという答えがでてくるばかりだ。 それに、中学1年の英語の教科書にでてきた文章はいったい何なのかとも考えた。たとえばこういう文章だ。

I am a boy.

 いつ誰がなぜ、このようなことをいうのか、理解できない。こういうことを教える英語の授業は理解できないと考えていた。最悪なのは、以下の文章だ。

Are you a girl?

 中学生だって、「あなたは少女ですか」などと質問してはいけないことぐらいは知っている。こういう質問をする世界をどう理解すればいいのか。考えれば考 えるほど、理解不可能という結論になる。

 当時は森一郎の『試験にでる英単語』、いわゆる『でる単』はまだなく、『赤尾の豆単』の全盛期だった。英語の単語と発音記号と1つか2つの訳語が並んで いる小さな辞書だ。大学受験には1万語の単語を覚えなければいけないといわれていて、高校生のころには豆単を丸暗記しようとしている同級生が何人もいた。 同級生がやっているのだからと試してみたが、まったく暗記できない。それでますます、bookは「本」なのかなどと考えるようになった。

 豆単をほぼ丸暗記した同級生は当然ながら、英語で抜群の成績を収め、大学に入ってからも優等生で、エリートへの道を突き進んでいったのだが、いま考える と、何かのきっかけで翻訳者になったとしても、まともな翻訳者になったとは考えにくい。1万の単語の訳語を覚えて、訳語だけを丸暗記して、それで満足して いたのだから、一対一対応の典型のような直訳調の翻訳はできても、そこから抜け出すのは容易ではないはずだ。いまの時点から振り返るなら、bookは 「本」なのかなどと考えていたのは、決して無駄ではなかった。訳語を覚えればそれで単語を理解できたかのように考えてはいけない、訳語ではなく、意味を考 えるというのが、いまでは、翻訳の出発点のひとつになっていると思うからだ。

 もちろん、馬鹿の考え休むに似たりという言葉があるほどだから、bookは「本」なのかとか、Are you a girl?という質問を誰が誰になぜするのかなど考えていても、それだけでは何の結果も生まれない。転機は高校3年の4月、素晴らしい教師が担任になった ときに訪れた。1回目の授業のとき、「これから1年、諸君に教えるのは受験英語であって英語ではない。希望する大学に入れるように受験英語を教えるから、 大学に入学できれば、本物の英語を学んでほしい」といわれた。これで呪文が解けたように気が楽になり、1年間、必死に受験英語を勉強することができた。そ していま振り返ってみると、実際にはかなりの程度、この1年間に本物の英語を学ぶこともできたように思う。

古典翻訳の悲惨
 そして無事、大学に入学できたとき、当時の学生なら皆そうしていたように、哲学や経済学、言語学などの古典を読んだ。前述のように、このとき、まったく といっていいほど理解できなかったことが、第2のつまづきになった。小さなころから読書量だけは同級生の誰にも負けないと思ってきたため、これはショック だった。大学には古典を読んで楽々理解し、それらしいことをしゃべる学生が何人もいたので、ますますショックだった。

 このときの転機は2年生になって訪れた。2年になって間もなく、大学では授業がなくなり、バリケードが築かれてお祭り騒ぎになった。バリケードのなかで は、大学院生や教員の一部など、それまでなら付き合いのなかった人たちと気楽に議論することができた。そうした機会に、当時のアカデミズムの暗い秘密とで もいえる点を教えられた。古典を読んで分からないのだったら、原文か英訳で読んでみろ、はるかに分かりやすいからというのだ。

 いわれた通りにいくつかを読んでみて、驚いた。1年と2か月学んだだけのドイツ語で読んですら、辞書を丹念に引いていけば、翻訳で読むときとは比較にな らないほど理解しやすい。少なくとも、ちんぷかんぷんではなくなり、しっかり読んでいけば理解できるように思えてくる。古典を読んで分からなかったのは、 頭が悪いからでも努力が不足しているからでもなく、翻訳が悪いからだったのだ。

 例をあげよう。当時は必読書といわれていたソシュール著の『一般言語学講義』の有名な一節だ(詳しくは、「翻訳通信」2005年5月号の「翻訳論の出発 点」を参照)。原文はフランス語なので、同じ部分の英訳をあげる。

 ところで, 言語(langue)とはなんであるか? われわれにしたがえば, それは言語活動(langage)とは別物である; それはこれの一定部分にすぎない, ただし本質的ではあるが. それは言語能力の社会的所産であり, 同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である. 言語活動は, ぜんたいとして見れば, 多様であり混質的である; いくつもの領域にまたがり, 同時に物理的, 生理的, かつ心的であり, なおまた個人的領域にも社会的領域にもぞくする; それは人間的事象のどの部分にも収めることができない, その単位を引きだすすべを知らぬからである. (フェルディナン・ド・ソシュール著小林英夫訳『一般言語学講義』岩波書店、1972年、21ページ)

  But what is language [langue]?  It is not to be confused with human speech [langage], of which it is only a definite part, though certainly an essential one.  It is both a social product of the faculty of speech and a collection of necessary conventions that have been adopted by a social body to permit individuals to exercise that faculty.  Taken as a whole, speech is many-sided and heterogeneous; straddling several areas simultaneously ―physical, physiological, and psychological―it belongs both to the individual and to society; we cannot put it into any category of human facts, for we cannot discover its unity. (Ferdinand de Saussure, Course in General Linguistics, trans. Wade Baskin, McGraw-Hill Paperback Edition, 1966, p. 9)

 同じ翻訳でも、外国語である英語への翻訳で読めば、考えるヒントぐらいは得られるのに、母語の日本語への翻訳で読むと、さっぱり分からないという印象に なるのではないだろうか。これが当時の翻訳なのである。いや、いまでも翻訳のうちかなりの部分はこうなのだ。

 人は誰でも、分からないことをありがたがる気持ちをもっている。不可解ゆえに吾信ず、というわけだ。それに、誰にも理解できるのであれば、自慢のタネに ならない。「人は逆説を好むものだし、普通の人には理解できないことを理解しているかのように振る舞いたがるものだ」とアダム・スミスも指摘している (『国富論』第4編第9章)。目立ちたがり、人の上に立ちたがる学生にとって、当時の翻訳には抗しがたい魅力があったのだ。だから当時は、「難解」とされ る翻訳書がとくに好まれた。

 こうした経緯があるので、当時学生だった世代の翻訳者には、翻訳調の翻訳でつまづいた経験が原動力になっている人が多い。あんな翻訳で教科書などの必読 書を読まされていては若い世代がかわいそうだ、何とかまともな翻訳ができないか、少なくとも、外国語の原文で読むより理解しやすい訳ができないか。そう考 えた人が多いのだ。後に偶然が重なって翻訳を職業にするようになったとき、同じ世代のそういう翻訳者から教えられ、刺激を受けることが多かった。

翻訳調で論理を伝えられるのか
 翻訳を職業にするようになってから、翻訳調についてはいろいろと考えてきた。いまでは、翻訳調の最大の問題点は論理を伝えるのに適していないことにある のではないかと思うようになっている。哲学や経済学など、論理を扱う分野の翻訳でとくによく使われてきたのが翻訳調だ。それだけでなく、日本語で論理的な 文章を書こうとするときに規範になってきたのが翻訳調だ。日本語は論理を扱うのに適していないから、翻訳で鍛えられた文体を使わなければ、論理的な文章は 書けないと考えられてきたのだ。だから学者や法律家、官僚などが文章を書くとき、つねに模範とされてきたのが翻訳調なのである。その翻訳調がじつは、論理 を伝えるには適していないのではないかと思えてならないのだ。原文の語と訳語の一対一対応を追求する翻訳調、原文のセンテンスを後ろから前に訳していくの が正解だとする翻訳調では、原文の論理が理解できなくなると思う。

 例をあげよう。大恐慌の前夜、不況に苦しんでいたイギリスで、ケインズが金融・財政政策による景気刺激を提案した。いまでもまったく同じといえる状況が あるが、このときも、景気刺激策をとればインフレになるという批判がだされている。この批判に答えて、ケインズはこう論じた。2つの既訳と原文を示そう。

……インフレーションを招く開発政策の危険が少しでも起こる可能性がある前に、先ず大 量のデフレーション的な不振を追い払わなければならない状態にある。資本的支出の反対論としてインフレーションという悪魔を今ここで持ち出すのは、衰弱の ために瘠せ細りつつある病人に向って、肥り過ぎの危険を警告するようなものである。(『ケインズ説得評論集』救仁郷〔くにごう〕繁訳、ぺりかん社、 p.123)

……開発政策によってインフレーションをもたらす怖れがほとんどないうちに、まずデフレーションによる大きな沈滞の処理がなされなければならない。資本支 出への反論としてインフレーションという妖怪をいまここにもちだすのは、憔悴のためにやせ衰えている病人に対して、肥りすぎの危険について警告するような ものである。(『ケインズ全集第9巻、説得論集』宮崎義一訳、東洋経済信報社、p。140)

... A large amount of deflationary slack has first to be taken up before there can be the smallest danger of a development policy leading to Inflation.  To bring up the bogy of Inflation as an objection to capital expenditure at the present time is like warning a patient who is wasting away from emaciation of the dangers of excessive corpulence. (Keynes, Essays in Pursuasion, W.W. Norton & Company, p.124-125)

 訳文と原文を比較して、どちらが理解しやすいかを考えてみるといい。母語の日本語で読むより、外国語の英語で読む方が理解しやすいはずである。その理由 は簡単だ。訳文では接続詞のbeforeを「前に」と訳し、後ろから前に訳す方法をとったからである。原文を読むときは、当たり前の話だが、前から後ろに 読んでいく。そして、論理を考えるときも、前から後ろに考えていく。だから、接続詞のbeforeは「前に」ではないのだ。接続詞の前に書かれていること がまずあって、「その後に」、接続詞の後に書かれていることが起こるという関係を示しているのだから。この時間的な関係、論理的な関係を逆の順序で示そう とした結果、救仁郷訳は「難解」になり、宮崎訳は支離滅裂になっている。

 翻訳調で後から前に訳す方法が多用されるのは、英語で後置修飾、つまり関係代名詞節のように修飾する語句が修飾される語句の後に置かれる表現がごく普通 に使われるのに、日本語には基本的に前置修飾しかないからだ。これは翻訳でぶつかる最大の問題であり、後から前に訳す方法はじつに見事な解決策であった。 漢文読み下しの伝統があったから、この解決策が見つかったのだろう。だが、その結果、訳文の論理性がかなりの部分、犠牲になっている。難解か支離滅裂な翻 訳は「普通の人には理解できないことを理解しているかのように振る舞い」たいという望みを満たすには適しているし、そういう姿勢を助長している。しかし、 この種の翻訳を読んで、論理的な思考力を養おうとしても、なかなかうまくいかない。

理解できない能力
 こうした点を考えていくと、大学に入ったときに古典を読んでさっぱり理解できなかったのは、じつは正解だったのではないかと思えてくる。あれで分かって はいけない。理解できないはずの点は理解できないことが重要なのだろう。接続詞のbeforeは「前に」だと、訳語だけを教えられて、意味を考えることも なく理解できたように信じていれば、たぶん、救仁郷訳のように読んで、それで原文の意味が分かったように信じこむはずである。それではいけない。それでは 原文をほんとうには理解できない。だから、まともな翻訳はできない。翻訳調の陥穽に陥ることなく、原文をしっかりと理解したうえで、まともな翻訳を行える ようにするには、いってみれば、「理解できない能力」が必要なのだと思う。

 翻訳は難しい。もう25年も翻訳を職業にし、翻訳だけで生活を支えてきたのだが、翻訳はやさしくなるどころか、難しくなる一方だ。他人の翻訳を読むと不 適切な表現や、曖昧な文章、読者に意味が伝わらない文章が多いことに気づく。誤訳も少なくないことに気づく。ところが、自分の翻訳にも同じような問題が少 なからずあるはずなのに、なかなか気づかない。だから、翻訳は難しいのだ。

 問題点に気づくのはたいてい、他人から指摘されたときだ。指摘される前に気づかなかったところに問題があるのだが、それはともかく、指摘を受けたとき、 まったく意外だったという場合は、じつのところ、そう多くはない。たいていは、「何かがおかしい」「何か落ち着かない」と感じていたのだ。だが、感じてい ただけで、意識化はできていなかった。意識化できていれば、調べ、質問できたはずだ。解決できたかどうかは分からないが、少なくとも疑問点のリストにあげ ることができたはずだ。

 だから、簡単には理解しないことが重要なのだ。「何かがおかしい」「何か落ち着かない」とほのかに感じたときに、不安や疑問をどこまで意識化できるか が、翻訳では勝負の分かれ目になるのではないかと思う。たしかに、原文を素早く理解する鋭さは大切だ。頭の回転が速く、難しい原文を一瞬にして理解する人 をみると、ほんとうにうらましく思う。だが同時に、簡単には理解しない鈍さも重要なのだ。とくに、正解を示されたときに、それで安心しないという意味での 鈍さが重要だ。正解だとされるものを丸暗記しても、じつのところ何も分かっていないという場合が多いのだし、正解とされるものが間違っている可能性だって あるのだ。たとえば、接続詞のbeforeは「前に」だというのは、学校英語では正解だとされているが、実際には、精々のところ、半分正しいといえるにす ぎないのだから。

 もちろん、「理解できない」で終わってはいけない。つねに上を目指し、理解できない点を理解しようと務める姿勢が必要だ。簡単な近道、単純明快な答えな どというものがじつのところありえないことを認識して、つねに努力していくべきだ。幸い、翻訳という仕事には、たいていの仕事とは違って、年齢が高いほど 有利になるという性格がある。スポーツなら30歳になれば引退という場合も多いし、他の仕事でもたいていは若いほど有利である。翻訳では逆に、40歳でも 若手、50歳から60歳でようやく中堅とみられている。だから、時間をかけて学んでいけばいい。あせることはないのだ。

 翻訳には大胆さが必要だ。疑問があり、ほんとうのところは理解できていない点があっても、大胆に訳文を書いていかなければならない。だが、自信満々とい うのは、あまりいいことではない。優れた翻訳者ならたいていは、びくびくしながら、いつも薄氷を踏む思いで翻訳しているのではないかと思う。少なくとも、 もっともっとうまく訳すべきなのに、その水準に達していないと感じているはずだ。翻訳とは胃が痛む仕事なのだ。胃潰瘍に気をつけなければいけない仕事だ。

 翻訳は難しい。難しいから面白い。難しさを楽しむ姿勢が重要だと思う。

(2009年7月号)