翻訳講義
山岡洋一
翻訳
という仕事の現状
本日は翻訳という仕事の現状について、綺麗ごとではなく本音を語るようにと要望されています。実際のところ、本音をそのままお話しすれば凍
りついてしまう場合もありますから、適当に砂糖をまぶし、オブラートに包むことになるでしょうが、それでもありきたりの話はなるべく避けて、ほんとうに注
意すべき点に話を絞っていきたいと思います。
たとえば、翻訳には出版翻訳、産業翻訳、映像翻訳といった分野があることは、よくご存じのことと思います。それぞれ市場が違い、仕組みが違い、仕事の流
れや要求される質などが違うわけですから、翻訳という仕事の現状をテーマにする以上、これらの点を説明していくべきかもしれません。しかし、少し大きな書
店に行けば、これらの点を懇切丁寧に解説した本がありますし、インターネットで調べただけでもかなりのことが分かります。ですから、こうした点を詳しく説
明しようとは思いません。本や雑誌、インターネットで得られる情報をどう読むべきかという点に少しだけ触れておきます。
書き手の立場を考える
翻訳の市場やその仕組みについて、本や雑誌、インターネットでかなりの情報が得られるわけですが、どういう立場の人が書いた情報なのかを考えておくべき
だと思います。たとえば出版翻訳の仕組みについて書いているのはたいてい、翻訳教育産業の関係者です。翻訳学校の経営者や講師、翻訳学習者向け媒体の編集
者といった人たちです。産業翻訳の仕組みについてなら、これに翻訳会社の関係者がくわわります。
これは別に不思議なことではありません。たとえば家電製品について分からないことがあれば、家電販売店に行って聞くのが自然だし、化粧について分からな
いことがあれば、化粧品店に行って聞くのが自然です。翻訳について分からないことがあるとき、翻訳学校や翻訳会社の人に聞くのはごく自然なことです。しか
し、教えてもらったことを鵜呑みにしてはいけない。相手の立場を考えてみなければいけない。これもまた当然のことです。
産業翻訳の仕組み
たとえば産業翻訳についての解説を読むと、たいていは、企業などの発注者から翻訳会社を経て在宅翻訳者に仕事が流れると書かれています。発注者を「クラ
イアント」、翻訳会社を「エージェント」と呼ぶと書かれていることも多いはずです。産業翻訳の仕組みというとき、これはある意味で正しい説明です。産業翻
訳のうちかなりの部分は、たしかにこの仕組みで行われているからです。しかし、このように説明する人は、たいてい翻訳会社の関係者ですから、その人の立場
を考えておく必要があります。
翻訳者の立場からいうなら、これがすべてではないという点を確認しておくべきだと思います。たしかに、発注者−翻訳会社−翻訳者という三者の関係で産業
翻訳のうちかなりの部分が処理されています。しかし、現実には企業などの発注者が個人の翻訳者に直接に発注する場合は少なくありません。また、翻訳会社と
いっても、翻訳者が便宜上、会社を作って受注しているだけで、実態は個人の翻訳者と変わらない場合もかなりあります。つまり、産業翻訳のなかには、発注者
−翻訳者(または翻訳者の個人企業)という二者の関係で処理されている部分もあるのです。さらに、社内翻訳があります。翻訳者が発注者の社員になって、社
内で翻訳を行う場合もあるのです。
産業翻訳には3つの形態があることになります。
(1) 発注者−翻訳会社−翻訳者
(2) 発注者−翻訳者(または翻訳者の個人企業)
(3) 社内翻訳
産業翻訳について論じるのであれば、この3つの形態の長所と短所を、発注者の立場からと翻訳者の立場から検討してみるべきだと思うのですが、そういう議
論はめったにないのが現状でしょう。産業翻訳の仕組みを説明しているのがたいてい、翻訳会社の関係者であることを考えれば、これも当然だと思えます。発注
者−翻訳会社−翻訳者という三者の関係で事業を行っている翻訳会社にとって、発注者−翻訳者という二者の関係は悩ましい問題です。なぜ悩ましいかという
と、翻訳会社が関与することで、発注者と翻訳者にとってどのような利点があるかを明確にするのが簡単ではないからです。
もちろん、翻訳会社は翻訳者にとって、営業という不得意な分野を代行してくれる利点があります。発注者にとって、翻訳者を探してくれる利点があります。
しかし翻訳会社にとって悩ましいのは、どちらも1回限りの利点にすぎないように思える場合が少なくないことです。初回は翻訳会社を通しても、2回目からは
発注者−翻訳者という二者の関係に移行するのが、発注者と翻訳者の双方にとって最善だともいえる場合もあります。このため、翻訳会社にとって発注者−翻訳
者の関係はいわば目の敵、いわばタブーになっています。できれば触れたくない、そんな選択肢があることを発注者にも翻訳者にも知らせたくない、これが翻訳
会社の本音なのではないでしょうか。少なくとも15年ほど前まで、翻訳会社に勤務していたころにはこれが本音でした。
翻訳会社はエージェントなのか
15年ほどたった現在では、事情が変わっているかもしれません。この10年ほどで、翻訳会社は「エージェント」と呼ばれることが多くなっています。翻訳
会社は発注者と翻訳者を仲介するエージェントになるべきだとする考え方がでてきたからなのかもしれません。翻訳会社はほとんどの場合、企業などの発注者か
ら翻訳を請け負っています。請け負った翻訳を在宅の翻訳者に依頼する場合には、翻訳者を下請けとして使うことになります。エージェントであれば、翻訳会社
と翻訳者は元請けと下請けの関係ではなく、代理人と本人の関係になります。
代理人と本人の関係はあまり馴染みがないかもしれません。分かりやすい例をあげれば、アメリカの大リーグ選手と代理人の関係があります。球団と交渉する
のは代理人ですが、契約するのは球団と選手です。選手が本人であり、代理人は文字通り、本人の代理として交渉するだけです。元請けと下請けの関係はこれと
まったく違っています。元請けは企業などの発注者と契約し、仕事を請け負います。原則として、請け負った仕事をどのように完成させるかは、元請けが自由に
決められます。自社内で翻訳してもいいし、下請けにだしてもいい。下請けとして誰を使うかも自由に決められます。
元請けと下請けの関係は主に、製造業や建設業で使われています。代理人と本人の関係が使われているのは、たとえばプロ・スポーツやハリウッドの映画界な
どです。発注者の立場からみれば、元請けと下請けの関係を許容できるのは、実際に仕事をするのが誰であっても同じ質のものができるという条件があるときだ
けです。もちろん、そういう条件がいつもあるわけではありません。たとえばある川のある場所に橋をかけるとします。発注者は官庁でしょうが、発注者からみ
て、どの企業が作っても同じ質の橋ができるとは考えられません。そこで、どのような橋をどのような材料で作るのかを細かく指定します。そして、完成したも
のが指定通りになっているかどうかを客観的な基準で検査できるようにしておきます。こうして、実際に仕事をするのが誰であっても同じ質のものができるとい
う条件を作ったうえで入札にかけ、最低価格を提示した企業に発注するのです。プロ・スポーツや映画の世界では「誰でも同じ仕事ができる」という条件がない
ので、たとえば1番ライトで3割を打つ仕事を誰かが請け負うことは考えられもしません。
発注者が質を指定し、質を判断する基準を設定できるのであれば、元請けと下請けの関係が使えますが、それができないのであれば、代理人と本人の関係の方
が便利です。翻訳会社がこの10年ほどに「エージェント」と呼ばれるようになったのは、翻訳という仕事の性格が、元請けと下請けの関係よりも代理人と本人
の関係にふさわしいと認識されてきたためなのかもしれません。そうであれば、正しい認識だと思います。設計図と仕様書によって質を指定する方法、翻訳であ
ればマニュアルで訳語や用字用語、表現などを細かく指定していく方法が仕事の性格にあわないのです。大リーグの選手にマニュアルをわたして、打撃の方法や
守備の方法を細かく指定しようとするのは馬鹿げています。それと同様に、翻訳者の手足を翻訳マニュアルで縛れば一定の質の翻訳ができると考えるのは馬鹿げ
ています。翻訳という仕事を製造業や建設業の方法で管理しようとしても、うまくいくはずがありません。この当たり前の事実が認識されてきたからこそ、翻訳
会社が「エージェント」と呼ばれるようになったのでしょうか。
実態をみていくと、そうともいえないようにも思えます。名前が変わっても実態は変わっていません。「エージェント」と呼ばれる翻訳会社のほとんどはいま
だに翻訳請け負い会社であって、代理人ではないのです。「エージェント」というからには請け負いを止めて代理人になってほしい。そう願っています。
価格で競争する仕組みと品質で競争する仕組み
なぜそう願うかというと、元請けと下請けの関係が製造業や建設業ですら、優れているとはいえないように思えるからです。元請けと下請けの関係が成り立つ
のは前述のように、発注者が質を指定し、実際に仕事をするのが誰であっても同じ質のものができるという条件を作ったうえで入札にかけ、最低価格を提示した
企業に発注する方法をとるときです。誰が作っても同じ質のものができるようにし、価格だけで競争するようにするときです。こうすれば価格が下がり、発注者
に有利になって、最終的には消費者に有利になるといわれています。
しかし、経営書をいくつか読んでみるとすぐに分かることですが、こうした競争、価格だけでの競争からいかに抜け出すかがほとんどすべての企業にとって、
経営の課題になっています。価格競争をしてもいいのは業界で最低のコストで生産できる企業だけ、それ以外の企業は製品を差別化し、付加価値をつけ、市場を
細分化し、ブランドを築き、その他もろもろの手段を使って、価格競争から抜け出すべきだとされています。
差別化、高付加価値化などのために何が必要かというと、質を決める権限、あるいは質を評価する基準を決める権限を握ることだといえます。質についての権
限を発注者(顧客、販売先)に握られていて、誰が作っても同じ質のものができるのだから価格を安くしなければ発注しないとたえず明に暗に脅されていては、
誇りをもって仕事をするのが難しくなります。卑屈になり、投げやりになるか、そうでなければ裏の手段を使って見返そうとするようになります。翻訳会社では
たらいていたころ、他の業界が談合で価格をつりあげている話を聞いて、うらやましく思ったことがあります。翻訳業界では会社の数が多すぎて、談合などとて
もできないとため息をついたものです。翻訳会社は談合すらできないと。そんなことを考えるほど、品質で勝負できない状況は苦しく厳しいのです。
質についての権限を生産者が取り戻したときに何が起こるかは、たとえばスーパーの米売り場に行けば分かるのではないでしょうか。値段は高いがたしかに美
味しい米、値段が安くて普通の米など、各種の米が売られています。米のような一次産品、典型的な市況商品すらそうなっているのです。まして自動車や家電製
品などでは、企業が質を競い合っています。発注者に質を指定され、質を評価する基準を決められるという仕組みがない産業は、活気があり、多数の人たちが誇
りをもって仕事をしているように思います。
質についての権限を発注者が握っている業界と、生産者が握っている業界で、どちらの方が発注者に有利になり、最終的に消費者に有利になるのか、周囲を見
渡せばすぐに答えがえられるのではないでしょうか。
発注者が質についての権限をすべて握ることで受注者に価格競争を強いる方法をみてすぐに思い出すのは、20世紀初めに、つまりほぼ100年前に確立した
大量生産の方式です。この方式にはいくつもの特徴がありますが、そのひとつに、頭を使って考えるのは上の立場の人間だけで、下の立場の人間は頭を使う必要
などなく、手足を使って働けばいいという考え方があります。発注者−元請け−下請けの関係なら、頭を使うのは発注者だけです。企業の社内でも、頭を使うの
は本社の幹部や技術者だけで、現場の従業員は手足を使って働けばいいとされていました。工場ではたらく従業員は門を入るときに頭を預けていくといわれてい
ました。工場内に入ったら、頭は一切使わない、使ってはいけない、使うのは手足だけだというのです。
現場の従業員は頭を使わない、請け負い会社や下請け会社は頭を使わない、何をすべきかはすべて上の立場のものが指示するから、いわれた通りにはたらけば
いい……、こういう考え方が正しいかどうかを議論しようとは思いません。頭を使ってはいけないといわれたときに翻訳者がどう反応するか、論じる必要はない
と思うからです。そして、こういう考え方がもっとも強かった製造業ですら、いまでは現場の従業員や下請け、孫請けの頭脳を活用する方がはるかに効率的だと
考えられていることを指摘しておきます。
全員が敗北する仕組み
マニュアルで訳語や用字用語、表現などを細かく指定していく方法をとれば、いかにも前近代的な翻訳を合理化できると思えるかもしれません。しかしこれ
は、製造業ですらとうの昔に時代後れになった考え方を、性格のまったく違う翻訳にとりいれようとする動きにすぎないのです。
マニュアルを作って翻訳者に細かい指示を与えるとどうなるか。翻訳者は手足を縛られるので、自分の仕事に誇りをもつ人は逃げていきます。実力の低い翻訳
者がそういう仕事を引き受ける結果になります。そこで品質管理者(いわゆるチェッカー)が必要になります。ところがチェッカーという仕事を引き受けるのは
翻訳者になるには実力が不足している人か、そもそも翻訳には興味がない人という場合が少なくありません。そういうチェッカーが張り切って仕事をするほど、
翻訳の質は高くなるどころか低くなることになりかねません。そうなれば翻訳者はやる気をなくし、実力の高い人ほどその仕事から逃げていきます。発注者が翻
訳の品質管理にコストをかけるほど、翻訳の質が低くなるという悪循環に陥ることすらあるのです。
マニュアルを作って翻訳者に細かい指示を与える方法をとると、翻訳料金は引き下げられるでしょう。ところが、翻訳料金が下がった以上に翻訳チェックのコ
ストが上がることになりかねません。どんな仕事でもそうですが、価格が低いほど、品質が下がっていく、しかも直線的に下がっていくのではなく、幾何級数的
に下がっていくのが普通だからです。
発注者が質を指定し、誰がやっても同じ質のものができるという条件を作ったうえで入札にかけ、最低価格を提示した企業に発注する方法を翻訳に使うと、発
注者も翻訳会社も翻訳者も、全員が敗北への道を歩むことになりかねないのです。
翻訳学校が多い理由
まさに敗北への道を歩んでいる翻訳会社で苦闘していたころ、翻訳業界をはるか以前に抜け出して、別の業界で急成長企業を築いた経営者にお会いする機会が
ありました。そのとき、経営は企業から仕入れて個人に売るのが最善、個人から仕入れて企業に売るのは最悪だという話を聞きました。なるほど、翻訳会社は個
人から仕入れて企業に売っている。企業と企業の関係では、発注する側がつねに神様です。受注する側は、どんな無理をいわれてもごもっともと頭を下げていな
ければなりません。ところが、企業が個人に発注する場合には、この常識があてはまるとはかぎらなくなります。翻訳会社の場合、発注者の企業にいつも頭を下
げているだけでなく、翻訳者にも頭を下げていることが少なくないのです。これではかなわないというわけで、翻訳会社でも個人を顧客とする事業ができないも
のかと考えるようになります。顧客が個人なら、企業の場合ほど頭を下げっぱなしにはならないからです。
翻訳会社が個人を顧客とする商売をしようと考えても、そうそうアイデアはでてきません。たぶん、真っ先に考えつくのは翻訳学校なのでしょう。このためな
のかどうか、翻訳学校は翻訳という市場の規模からは考えにくいほどの数があります。
ですが、翻訳という仕事の性格を考えると、翻訳学校で教えられるものかどうか、逆の立場からいえば学べるものなのかどうか、かなり疑問があります。知り
合いの翻訳者をみても、独学か、そうでなければ翻訳家の弟子になって学んだという人がほとんどです。師匠に出会った場が翻訳学校だったという場合もありま
すので、そういう出会いの場として翻訳学校がある程度役立っているとはいえるでしょうが。
翻訳教育にある程度関与してきた立場からいうなら、すぐれた翻訳者になりうる人を選びだすことは不可能ではないように思います。また、すぐれた翻訳者に
なりうる人をたとえば編集者に紹介することは可能です。そして、翻訳を独学で学んでいる人に考え方や学び方などのヒントになる点を伝えることもある程度ま
ではできます。しかし、翻訳学校に行けば翻訳を学べると考えている人に何かを教えられるかは、大いに疑問です。翻訳は熱心に教えようとするほど教育効果が
低下するという天の邪鬼のような性格をもっているようなのです。
翻訳の敷居は低くない
翻訳学校を作った場合、そこでほんとうに翻訳を教えることができれば、受講者のなかから実力のある翻訳者が育ってきます。そうなると、評判が広まって優
秀な受講者が集まるようになり、実力のある翻訳者が育ちやすくなります。受講者が増えて売上が増えるので、講師陣の充実をはかるなどの方法で学校の魅力を
高めていくことができるようになります。好循環になるのです。ところがそうなる翻訳学校はなかなかないようです。受講者が思うように増えないとき、よく使
われるのが「敷居を低くする」方法です。一段下の層に受講者を広げようと努力するのです。翻訳教育の世界では、下の層に受講者を広げようというのが合言葉
になっているようにすら思えます。
翻訳の市場やその仕組みについて、本や雑誌、インターネットで得られる情報には、「敷居を低く」して受講者を集めるために提供されたものがあると考えて
おくべきです。いわれているほど「敷居」は低くないかもしれないと考えておくべきです。
これに関連して指摘できる点はいくつもありますが、以下ではそのひとつとして、翻訳とはプロの仕事だということを説明しておきたいと思います。
翻訳はプロの仕事
翻訳という仕事の敷居は決して低いとはいえません。なぜなら、翻訳はプロの仕事だからです。たいていの仕事は敷居が高くない。人並みであれば十分だから
です。難しい試験に合格しなければ出発点に立てない仕事もありますが、それでもたいていはプロの仕事よりも敷居が低いと思います。毎年かなりの人が合格す
る試験の合格者のなかで並みの成績をとればいいのですから。プロの仕事はそうはいきません。人並みではいけない、一番でなければ意味がないのです。
プロの仕事というとおそらくピンとこない人が少なくないと思いますので、例をあげておきます。たぶん、代理人と本人の関係のときと同じで、プロ・スポー
ツの世界をみると、プロとはどういうものかが理解しやすくなると思います。
たとえば、こういう例をみるとよく分かるはずです。シアトル・マリナーズのキャンプで守備練習の時間に、自分の好きなポジションに行くようにとコーチが
外野手に指示したところ、みなセンターとレフトに集まって、ライトの守備位置に走ったのはイチローだけだったそうです。これがプロの世界です。一番になら
なければ話にならない。イチローに勝てないのなら、ライトの守備練習をしても意味がない。もちろん、イチローより1本でも多くヒットを打てるようにする
か、ヒットの数ではかなわなくても、50本のホームランを打てるようにすればいいのですが、それができないのなら、センターかレフトでがんばるしかないの
です。
人並みではいけない、一番と二番では大違いというのがプロの世界です。マリナーズの右翼手として一番になれないのなら、守備練習をしても意味がない。守
備固めですら出場の機会がほとんどないのですから、左翼か中堅で認められるようにした方がいい、そう考えるのがプロです。翻訳の場合には実力が数値であら
わされることがなく、したがって誰が一番なのかが客観的な基準で明らかになることはないので、一番と二番では大違いというほど厳しくはありません。それで
も本質は変わりません。一流の翻訳家と並みの翻訳者では翻訳の質に歴然とした差があるのが普通だからです。やはり人並みでは意味がない、一流でなければ意
味がないのです。
プロの世界では、仕事が平等にまわってくるということはありえません。マリナーズに右翼手が2人いても、1試合ずつ交代して右翼を守るということはあり
えません。平等にしていては、試合に勝てるはずがないからです。翻訳も同じです。翻訳者に仕事を発注する立場の人は、最適と思える翻訳者に依頼しようとし
ます。スケジュールが合わないなどのために断られれば、次善の翻訳者に依頼しようとします。
ただし、どの翻訳者が最適かを判断する基準はさまざまにあるので、一流の翻訳家だけに仕事が集中するとはかぎりません。産業翻訳であれば、翻訳料金や納
期が重要な要因になります。翻訳料金が安く、徹夜しなければできないほど納期が短い仕事は一流の翻訳者に依頼するわけにはいかないのが普通でしょう。出版
翻訳では、原作の質が高く、部数が多くなると見込める場合には一流の翻訳家に依頼しようとするでしょうが、原作の質が低いか、部数があまり見込めない場合
には、新人に依頼しようと考えることもあるでしょう。このような事情があるので、並みの翻訳者でも出番がないというわけではありません。それでも、いうな
らば割りのいい仕事は一流の人に集中するの普通です。逆にいえば、並みの翻訳者はいつまでも割りにあわない仕事ばかりということになりかねないのです。
もうひとつ、翻訳には誰が一番なのかを判断する客観的な基準がないために、優秀な翻訳者でも質の高さをなかなか発注者に認めてもらえない場合がありま
す。とくに、翻訳のスタイルについての見方が違っていれば、質についての見方が正反対になることすらあります。たとえば英文和訳調、一対一対応型の翻訳を
理想だと考える発注者はさすがに減ってはいますが、まだなくなったわけではありません。そういう発注者は、「原著者が日本語で書けばこう書くだろうと思え
る翻訳」を質が低いと判断するでしょう。訳文を読んでも意味が理解できないようなガチガチの翻訳調でなければ認めようとしないでしょう。また、翻訳という
ものの重要性を認めようとしない発注者もいます。出版社の編集者にすら、そういう人がいます。そういう人に質の高い翻訳を提出しても、評価してはくれない
でしょう。だから、翻訳者は発注者を選ぶようにする必要があります。どのような翻訳を目指すのかを明確にし、それを高く評価してくれる発注者を選ぶ必要が
あるのです。
一歩ずつ着実にという嘘
「敷居を低くする」方法で受講者を集めようとする翻訳学校や、翻訳学習者向けの媒体では、「一歩ずつ着実に」と強調することが多いようです。一気に頂点を
狙うべきだと助言すれば逃げだす人でも、一歩ずつ着実にと助言すれば受講してくれるかもしれない。それに、いくつもの階段を用意しておけば、一段上がるた
びに受講生が満足してくれるし、何年にもわたって受講料を払いつづけてくれる。まあ、これが本音でしょう。ですがプロの世界はそうはなっていません。
プロ・スポーツの世界で生き残れる新人は、頂点のさらに上をいつも狙っている人だけではないでしょうか。あいつは違うと、仲間から一目も二目もおかれる
人だけではないでしょうか。翻訳の世界もこれに似ています。翻訳の世界に入っていこうというのなら、既存の翻訳家の誰よりもすぐれた翻訳をしてみせるとい
う意気がなければいけない、日本の翻訳の質を自分が高めるのだというほどの気概がなければいけないと思います。一歩ずつ着実にでは並みにもなれません。
翻訳学習者をみていて不思議に思うのは、自分の名前で翻訳書をだすのが夢だという人が多いことです。過去10年ほどで翻訳書を出版した翻訳者は2万人を
超えます。2万人のひとりになる程度のことがなぜ夢になるのか、まったく不思議です。これでは志が低すぎます。一歩ずつこの夢に向けて努力しても、実りが
あるとは考えられません。その程度の志しかない訳者が訳した本を読まされる読者が気の毒だと思います。
翻訳という仕事は、外国語で書かれたすぐれた作品を母語で読めるようにするために行うものです。ほとんどの場合、外国語で書かれたひとつの本が翻訳され
るのは1回だけです。翻訳が悪ければ、その本を日本語で読むことが事実上できなくなります。自分の名前で本をだしたいという人のためには自費出版という道
が用意されています。自分が書いて自費で出版するのであれば、誰にも迷惑はかけないともいえます。翻訳の場合には、原著者に迷惑をかけ、原著を母語で読み
たいという読者にも迷惑をかけます。ですから、自分の名前で本をだしたいという人は翻訳に手をださないようにしてほしいと願っています。
プロ・スポーツでもそうですが、翻訳でもほんとうにすぐれた仕事をする人は、はじめからはるかに上を目指しているのが普通です。ただ、翻訳の世界にはプ
ロ・スポーツとはまったく違った性格もあります。何が違うかといって、いちばん違うのは年齢がもつ意味でしょう。たいていのスポーツでは30歳になれば引
退が近くなります。40歳でも現役で一流という選手はそのことだけで尊敬されます。ところが翻訳では、40歳というとそろそろ若手とはいわれなくなる年齢
にすぎません。50歳でもまだベテランとはいわない。還暦をすぎても現役です。現役というだけでなく、ようやく脂が乗ってくるころといえるのです。
このため翻訳では、年齢がいくつになってもさらに上を目指せます。いくつになっても、自分がいまどの位置にあっても、一気に頂上のさらに上を目指せるの
です。この良さを認識しておくことが重要です。一歩ずつ着実になどというセールス・トークにごまかされてはいけません。
幸いというべきでしょうか、翻訳の世界には頂上のさらに上を目指す余地が十分にあります。翻訳の世界はいまだに、明治半ば以降、理解できないほど進んだ
欧米の知識や思想、簡単に理解できては困るといえるほど圧倒的に進んだ欧米の知識や思想を、理解できないままに差し当たり日本語にしようとした時代のスタ
イルを引きずっています。そういうスタイルから脱却した翻訳、たとえば矢川澄子、村上博基、小尾芙佐、長谷川宏、土屋政雄、芝山幹郎といった翻訳家の作品
を読むと、いかに大きな可能性があるかが理解できるはずです。
プロ・スポーツの世界では、結果が客観的な数字になってあらわれてくるので、誰が一番で誰が二番なのかは容易に判断できるのが普通です。しかし、いくら
実力があっても、出場機会がなければ数字は残せません。ですから、二番以下とされている人はたまに訪れる出場機会に自分の実力を示そうと必死になります。
レギュラーがたまに休みをとったときや、故障のときがチャンスです。そういうときに、レギュラーの穴をまあまあ埋めてくれたといわれるようでは、話になり
ません。これはすごいと思わせることができなければ負けです。これはすごいと思わせても、まずはスーパー・サブになれるだけ、これはすごいを何度も繰り返
さなければレギュラーの座は奪えません。
翻訳では幸い、レギュラーの故障を待つ必要はありません。ほんとうに実力があれば、そして編集者などの発注側に見る目があれば、わずか1ページの訳文で
も力を印象づけることができます(見る目がある人は意外なほど少ないのですが)。当初は小さな仕事で力を試されることになるでしょうが、ほんとうに実力が
あれば、そして実力を認めてくれる編集者などの発注者に出会えれば、短期間でレギュラーになれる可能性があります。ほんとうに実力があれば、つまり、それ
までの頂上よりさらに上だといえる力があれば……。人並みでは、これはもう話になりません。
(2005年7月号)