エッセイ 気になる日本語
若林 暁子
秋の夜の月待つほどの手すさびに……

 
悪い癖
 子どもの頃、よく母に叱られた。
 買い物に行けば八百屋や魚屋の店先の札に誤字を見つけ、テレビをつければアナウンサーの日本語にケチをつける。おたふく風邪のさなかでも、近所のおばさ んが同情してかけてくれた「ユウツねぇ」のひと言が気になって気になって、「ユウツってなに? ねぇ、ユウツってなあに?」と母親を問い詰める。5歳の子 どもから憂鬱とは何かなどと問い詰められたら、誰だってうんざりする。とにかく、幼い頃のわたしは、朝から晩まで言葉いじりをしている可愛げのない子ども だった。
 「人の揚げ足ばっかり取って! いやな子ね」と、母はよく顔をしかめていた。

 20年後、紆余曲折はあったものの、三つ子の魂なんとやらで、来る日も来る日も原稿を読み耽り、人様の揚げ足を取ることを生業としていた。
 それはまったくの偶然からだったが、編集者として読んだ最初の原稿は翻訳だった。当時は右も左もわからず、たまたま見つけたいくつかの誤りを疑問に思 い、打ち合わせの席で面と向かって訳者に問いただした。二十歳(はたち)そこそこの娘にイチャモンをつけられ、プライドが傷ついたのだろう、訳者は烈火の ごとく怒りだし、「初版には私の名前を載せないでくれ!」と怒鳴って席を立ってしまった。
 これが、翻訳者に接した最初の体験だった。社会人ともなると、揚げ足取りも容易ではないのだと、身をもって学んだ。(そのわりには以降も何人かの翻訳者 を激怒させたのだが……)

 その後、20年近く単行本の編集に携わった。
 八割がたは翻訳書であった。

 山岡さんと出会ったのは今から10年前、2000年の11月だった。山岡さんは、電話一本で突然押しかけて行ったわたしを快く迎え、ずいぶん長い時間、 丁寧に応対してくださった。その後しばらくして、翻訳に関するニューズレターを新たに配信したいが、どのような形態がいいだろうか、有料がいいか無料で始 めようか、そんな話をされた記憶がある。それが今回めでたく100号を迎えた「翻訳通信」(第II期)で、もうそんなになったかと思うと、感慨深い。

 思えば「翻訳通信」は、お世辞にも順風満帆とは言えなかった編集者生活に活力を与え続けてくれた。揚げ足取りと言葉いじりが好きなへそまがりの編集者な ど、今日びの出版界は必要としていない。よくも悪くも「売れてナンボ」の世界だからだ。ある出版社では、四半期ごとに会議の席上で新刊の損益一覧表が配ら れた。売れ行きのよい順に、書名と著者名のほか、印刷部数、実売部数、売上高、製造原価、販売管理費、返品率、損益などの数字が並び、ご丁寧にA(重版 中)〜F(在庫断裁)のランク付けまでされていた。担当編集者の氏名こそ記されていないものの、どの本を誰が作ったかはわかりきっていた。自慢ではない が、毎回毎回自分の作った本が一覧表の下のほうにズラリと並ぶのは、なんともいえない気分だった。わたし一人を置き去りにして、会議室全体が足元の砂もろ とも海の彼方へと引いていくようであった。

 そんな折、月に一度の「翻訳通信」を読むと、まさに溜飲の下がる思いがした。ここにも、へそまがりの揚げ足取り(失礼!)がいた、と勇気がわいてくるの である。そうか、揚げ足取りもここまで論理的・分析的に徹底すれば、知的な考察となる! 何度そう、勇気づけられたことだろう。もちろん、批判ばかりでな く、優れた翻訳の批評にも触発された。おかしな話だが、学生時代まではずいぶん翻訳書を読んでいたのに、編集者になってからは、忙しさにかまけて個人的な 読書が疎(おろそ)かになっていた。疎かどころか、仕事で読む原稿や原書以外、ほとんど読書をしなくなっていた。一読者として素朴に楽しんだ記憶はあって も、プロ意識をもって翻訳を吟味したことはなかった。

 「翻訳通信」で取り上げられた作品は、専門外のものでもできるかぎり入手して読んだ。今だから白状するが、岩波文庫の『国富論』も「翻訳通信」がきっか けで初めて、まともに目を通した。仕事以外で原書と翻訳書をセットで読むようになったのも、日本文学の優れた英訳を読んでみる気になったのも、「翻訳通 信」のおかげである。好きな作家の作品で、いくつかの訳が出ていれば、それも全部買って読むようになった。「翻訳通信」は多忙で売れない編集者の心強い ブックガイドだった。

 しかし。そこで一念発起し、苦節○年の末にミリオンセラーを手がけ……とでもなれば、話としては美しいのだが、残念ながらそうはならなかった。作っても 作っても売れない、売れないと何かがいけないのだと思い、自分にはまったくわからない「トレンド」に乗ろうとする。それがどう良いのか、面白いのか、ツボ を心得てもいないのに、「こうすれば売れまっせ〜。間違いありまへん」と嘘八百のプレゼンテーションをする。企画は通る。しかし、好きでもなければ良いと 思ってもいないのだから、売れる本になるわけがない。たまに「これは!」と思う作品にめぐり合っても、またそういうのにかぎって、目も当てられないほど売 れないのだった。

 仕事そのものがつまらなくなり、意欲もなくなり、売れるものはますます作れなくなり、ノルマはますます重くのしかかる。著者や訳者に合わせる顔もない。 ちょっとソロバンをはじけば、給料分も稼げていないことは明らかだった。在籍しているだけで給料をもらえることが、薄気味悪い気がした。いつしか、サラ リーマン編集者を続けることは、自分にとって時間の無駄以外のなにものでもないと思うようになっていた。そして――。
 ついにあるとき、亭主に頭を下げ、悠々自適の主婦業へと鞍替えしたのだった。

 ところがである。晴れて本の売れ行きを気にせずとも、肩身の狭い思いをして給料をもらわずともよくなったというのに、なかなか悠々自適とはいかなかっ た。経済的な逼迫もさることながら、家計を助けるためにほそぼそとはじめた翻訳やら執筆やらが、生来の悪癖をふたたび目覚めさせてしまったのだ。今度は、 自分で自分の揚げ足取りをする羽目になったのである。

 翻訳に取りかかれば、これだ!という日本語を探り当てるまで、トイレでも風呂場でも悩む。どう見ても中学生レベルの英単語しか並んでいないのに、うんう ん唸ってもまともな日本語にたどり着かない。なんとかたどり着けたとしても、締め切りが近づくと脳味噌が沸騰しそうな勢いで何度も読み返し、どうでもいい 手直しを繰り返す。
 原稿を頼まれれば、これまでの人生で耳にし目にしたさまざまな「文章作法」が走馬灯のように脳裏をよぎる。いわく「第一行目には『が』を使わない」、 「〜して、〜して、と『て』でつながない」、「人称代名詞はなるべく少なく」、「接続詞もなるべく少なく」、「形容詞も副詞もなるべく少なく」、「文末が 単調にならないように」、「『の』を重ねるのは2つまで」、「慣用句は陳腐にならないように」、「『のだ』を濫用しない」等々……。これでは一文字も書け ないではないか!とだんだん腹が立ってくる。
 なんのことはない、英単語のせいでも文章作法のせいでもなく、未熟さゆえの万年スランプだ。

 編集者時代から、スランプに陥ると目先を変えて「生きた言葉」に触れるようにしていた(売れない本しか作れない編集者にも一人前にスランプはあった。書 名を決められない、帯のコピーが浮かばない、等々)。町をぶらぶら歩いたり、喫茶店でオバチャンたちの会話に耳をそばだてたり、電車のなかで女子高生の会 話に耳を傾けたりする。そういうときに聞こえてくる言葉には二心がない。読者にアピールしようとか、上司のウケを狙おうとか、名文だとか名訳だとかいう密 かな自負も、もちろんない。驕りは驕りのまま、ウケ狙いはウケ狙いそのまま、皮肉は皮肉、下心は下心、むきだしでミエミエだ。そのむきだしさに、なぜか安 心し、気分が軽くなった。生身の人間の逞しさに触れ、机上の悩みがちっぽけなことに思えた。運がよければ、会心の――と思っているのは本人だけだが――フ レーズが思い浮かんだ。運がなくても、「まあ、この頭をこれ以上捻(ひね)ったところで大勢に影響はないな」と、とりあえず一仕事片づけることができた。

 今では、毎日の散歩、とくに駅前の商店街をぶらつくのが恰好の気分転換、スランプ脱出法となった(なにしろ“万年”スランプだから、毎日脱出を試みなけ ればならないのだ)。魚屋の店先に「ツヅミ 525円」という手書きの札を見つけても、揚げ足を取るような不粋なことはしない。シとツが間違っていよう が、それが何だというんだ。微笑ましい光景ではないか。腹の足しにもならない「言葉いじり」なんぞで飯を食っていると、魚屋のお兄ちゃんがまぶしく見えて くる。シジミを買って、さあ、また一仕事!という気になる。

 ぶらりと外出するわけにいかないときは、テレビをつける。観るためではない。ともかくも「喋っている人間」の言葉を聞くためだ。しかし、このテレビとい うやつは、魚屋のお兄ちゃんとは違って、曲者だった。せっかく穏やかに生きられそうだったのに、テレビのおかげで揚げ足取り気質が、また火を噴いたのだ。

「させる」コレクション
 最初にその表現に違和感を覚えたのはいつだったろう。
 正確にはわからないが、気になりだしたのは2、3年前だと思う。当初はもっぱらテレビで見聞きし、そのたびにイライラしていた。活字になったのを目にし ていれば、アマゾンのレビューに「日本語がなっていない」くらい書き込んだだろう。しかしそんなレビューを書いた覚えはないので、自分の読む本には出てこ なかったのだと思う。もし、編集者として担当した原稿にこの表現があったら、一も二もなく赤を入れる、そういう表現である。
 この半年ほどは、出くわすと反射的にメモをとるようになった。生理的に受けつけない言い回しなので、初めは苦々しく思いながら、あくまで「誤用」の例と して記録していた。そのうち、あまりにも頻繁に耳にするため、たんなる誤用として見過ごすことができなくなった。そして、ある時期からその表現は、「言葉 は生きもの」というフレーズを引き連れて登場するようになった。もはや、使っている当人たちにとっては「誤用」ではないのではないか、との疑念が頭をもた げてきた。

 そのまったく気に食わない言い回しは、意識すればするほど蔓延ぶりが目につくようになり、ついには新聞紙上に登場した。

 その表現とは「○○させる」という語法である。
 以下に、これまでに収集した「させる」コレクションの一端を列挙する。(記録した日付順)
 
a. 全米の女性を元気にさせるミュージカル(映画「マンマ・ミーア」のキャッチコピー)

b. 修復中の作品を安全な場所に移動させる作業に入る(NHK、昼のニュース)

c. 神戸港のコンテナを他に移動させる必要がある(テレビ朝日、夜の報道番組)

d. 肌思いは肌に密着させない(ソフィCM)

e. いつもの柏木なら何としても続行させていたと思います(フジテレビ、昼のドラマ)

f. このひと手間がおいしくさせるポイント(TBS、朝の情報番組)

g. 地域を活性化させている商店街があります(テレビ朝日、昼の情報番組)

h. 世相を反映させたトリンプのブラジャー(日本テレビ、昼の情報番組)

i. 新陳代謝を活発にさせるアミノ酸を豊富に含んでいます(小学館、食の医学館) 

j. ジャガイモを長く保存させる方法は?(グリーCM)

k. 洗い流しやすくさせる働きがある(朝日新聞)

l. 2020年までに核兵器のない世界を実現させるべきだ(NHK、昼のニュース)

 もちろんお気づきだろうが、上のa.〜l.の「させる」「させ」は、すべて、「する」または「し」が“正しい”。(言い切っていいのか?? ドキドキす るなぁ……)

a. 元気にする
b.,c. 移動する
d. 密着しない
e. 続行して
f. おいしくする
g. 活性化している
h. 反映した
i. 活発にする
j. 保存する
k. 洗い流しやすくする
l. 実現する
(ウン、やはりこちらが正しい! みなさんもそう思われますよね???)

 これらはすべて、「体言、形容詞の連用形、形容動詞の連用形、漢語、外来語」などを語幹とし、「する」をつけた複合動詞である。活用形はサ行変格活用を とる。説明はややこしいが、古くは「す」(「心す」――徒然草など)、現代では「する」をつけて、とりあえず何でも動詞にしてしまおうという便利でシンプ ルな語法だ。プレゼンする、残業する、評価する、明るくする、執筆する、翻訳する、編集する……。「する」に頼った複合動詞なくしては、世の中が回らない のではないかというくらい、どこにでもある語法だ。いったいなぜ、この子どもでも使いこなす「○○する」を、「○○させる」とする必要があるのだろう?  「させる」にすると意味上のどんな違いが生まれるのだろう? わたしの頭が悪すぎるのかもしれないが、もう何か月も考えているが、まったく、さっぱり、わ けがわからないのである。

 文法的には、「○○させる」は、語幹+サ行変格活用「する」の未然形「せ」+助動詞「させる」=「せさせる」の省略形(または語幹+「する」の未然形 「さ」+助動詞「せる」)と考えられる。「させる」も「せる」も一般に、使役(放任、許容)の意味で使われる(高度な尊敬の意味もあるが、日常使うことは ないのでここでは論じない)。したがって、「○○させる」は以下のような場合にはもちろん正しい。「息子に掃除させる」(使役)、「勝手に執筆させてお く」(放任)、「海外出張させてもいい」(許容)。当然だが、使役し、放任し、許容する主体と、○○する主体は別、ということになる。
 そこで、a.〜l.を文法にのっとって解釈してみる。

a. 全米の女性を【無理やりにでも】元気にさせるミュージカル (使役)

b.,c.     ・・・(意味不明。誰かに移動させる?)

d. 肌思い【というナプキン】は【肌に密着しがちなナプキンという代物を】肌に密着させない(許容の否定)

e. ……柏木なら何としても【、チンピラを使ってでも】続行させていた……(使役)

f.     ・・・(お手上げ)

g.     ・・・(言語道断。あきらかな間違い)

h. 【開発チームが苦心の末ブラジャーをして】世相を反映させたトリンプのブラジャー(使役?)

i.     ・・・(事典がこれでは……)

j.     ・・・(……ゲームの日本語は悲惨だ)

k.     ・・・(校閲は何をしているんだ)

l. ……【嫌がる核保有国の首脳たちを椅子に縛りつけてでも、彼ら自身に】核兵器のない世界を実現させるべきだ(使役? 心情はわかるが……)

「あなたの夢を実現させる」
 この「させる」コレクションは順調に増え続けており、文字通り枚挙に遑(いとま)がない。小一時間もテレビ(とくに報道、情報番組)をつけていれば、必 ず出くわすといってもよいくらいだ。今のところ王座に君臨するのは、わたしの収集したかぎり「(夢を)実現させる」という使い方だ。ちなみに、グーグルで 「夢を実現する」と「夢を実現させる」の双方を検索すると、前者が358,000件、後者が592,000件であった。嗚呼……!(8月10日現在の数 字)

 実はわたし自身も、「夢を実現させる」の持つニュアンスをうすうすは感じとっている。耳になじみすぎ、違和感一辺倒ではなくなってきた。慣れとは恐ろし いものだ。
 一時期、「○○させていただきます」の濫用が話題になったが、「夢を実現させる」と「○○させていただきます」には、何かしら通低するものがあると感じ ている。
 「させていただく」は、当然責務として「します」「いたします」と言うべきところを、「仕方なく」(使役)、「偉い人に指名されて」(許容)、あるいは 「勝手に」(放任)などの意味をもつ「させて」にさらに「いただく」をくっつけてへりくだってしまったものだから世の知識人の非難をいっせいに浴びた。責 任を回避する表現のようでもあり、主体性を積極的には肯定しない「逃げ」の表現ともとれる。「いただく」などとへりくだっているが、本心は得意満面なので はないか、何でもかんでも「させていただく」はないだろう、慇懃(いんぎん)無礼な奴め!と、怒りさえ買ってしまった。(余談だが、「させていただく」が 問題視されて以来、使うべき文脈でも怖くて使う気がしなくなった。だから、わたしのような小心者には誤用・濫用は迷惑なのだ)

 話をもとに戻そう。
 「夢を実現する」といえば、主体はたぶん「誰か」だろう。誰かが「夢」というまだ現実にはなっていないものを、現実のものにする、ということだ。
 では、「夢を実現させる」はどうだろう。使役でも放任でも許容でも、実現する(=現実のものにする)主体と、使役・許容・放任する主体は別だから、「わ たしがあなたをして、あなたの夢を実現<せ>させてやろう」、これはまったく正しい。この意味で使うかぎりにおいて、「実現させ」は「実現し」に置き換え ることができない。「実現し」と言ってしまったとたん、夢を実現する主体は「あなた」ではなく「わたし」になってしまう。
 しかし現実には、「夢を実現させる」はほとんどのケースで「夢を実現する」に置き換え可能である。つまり、使役でも許容でも放任でもない「実現させる」 が幅をきかせつつあるのだ。その心は、あまりにも夢を実現しにくくなった現代の世相を反映しているのかもしれないし、自力で実現するのはとても無理、秘訣 (コツ)や道具(ツール)や技能(スキル)に頼らざるを得ないという情けない状況を映しだしているのかもしれない。
 また、別の角度から考えると、夢を主語とした自動詞としての「夢が実現する」が成り立つことから、夢自身をして顕現させる、という使役の意味合いがこめ られているのかもしれない。まるで、夢はどこか自分の外に転がっていて、それを拾って(買って?)くれば、夢君みずから姿を現してくれる、とでもいうよう に。穿(うが)ちすぎかもしれないが、「あなたの夢を実現させる」などという惹句を目にすると、不平と不満は達者だが覚悟も度胸もない脆弱な若者がこうい うのにひっかかるんだろうな、と思ってしまう。こんなひねくれた考えをもつのはわたしだけかもしれないが。

 あと何年かしたら、助動詞「させる」、「せる」の新たな用法が定義されているかもしれない。いわく、「物や事をある状態から別の状態にすること。実現さ せる、移動させる」――。
 しかし現行の国文法では、「夢を実現する」と言い切るしかないのだ。

活字になった「実現させる」
 「言葉は生きもの」だ。
 世相を反映して新しい表現が生まれることもあるし、勘違いや聞き違いが訂正されないまま使われ続け、長い年月を経るうちに、誰もその「正しさ」を疑わな くなることも多い。誤用が濫用され続けると、「正しいのはこっち」と主張し続けても、「それはもう古い、間違いだ」と指さされるようになる。

 言葉を使って仕事をしている以上、正しいからといって誰にも通じない言葉で原稿を書けば、(芸術作品でもないかぎり)不良品を納品したも同然だ。意に染 まない表現でも、それが世の大勢を占めるようになれば、従わざるを得ないこともあるだろう。それに、「ではいったい、どこから、いつから誤用は慣用にな り、正しい言葉と認められるのか。言葉の正しさの根拠とは何か」と訊かれたら、わたしにも答えようがない。学者や役人がお墨付きを与えれば「正しい」わけ ではないし、今のように新しい言葉がどんどん増える時代には、辞書に載ったら「正しい」わけでもない。まして、新聞で使われたら「正しい」わけでもないこ とは先の例でも明らかだ。

 今回、この原稿を書くにあたって、「実現させる」がどれくらい活字の世界を侵蝕しているかを調べてみた。ほんの手すさびのつもりで、面白半分に試してみ たのだ。さして興味深い結果は得られないだろうと“楽観”してもいた。活字の世界はテレビの世界とは違うはずだ、と。ところが実際に調べてみると、予想外 に面白い結果になった。

 次頁に、アマゾンの詳細検索の結果をまとめてみた。調査方法はいたって単純で、アマゾン和書の詳細検索ページのキーワード欄に「実現させる」と入力し、 ヒット数を調べた。書名に使用されている例もあったので、書名欄にも「実現させる」を入力して検索してみた。いずれも、ほかの項目は未入力のまま、出版社 名だけを変えて検索した。社名の入力ミスがないかどうかを確認するため、総点数も同時に調べた。次に、念のため「実現する」も同様に調べた。まさかとは 思ったが、グーグルの例もあるので、ドキドキしながら検索した。(だんだん、この出版社ならこんな感じだろうとアタリをつけて検索するようになった。趣味 のよい遊びとはいえないが、なかなか面白い体験だった)
 なにも、犯人探しをするつもりではないので、関係者の方々も気楽に面白がっていただきたい。

 なお、対象としたのは2009年ジャンル別年間ベストセラー(トーハン調べ)の10位までにランクされた各社と、2010年8月15日現在のアマゾン和 書ランキング100位まで、8月第2週現在の紀伊國屋、ブックファースト、丸善、文教堂の週間ベストセラー10位までにランクされた各社である。紙幅の都 合で社名を短縮(欧文)表記した出版社もある。
 ただし、キーワード検索で有効な数字が得られない出版社は除外した。アマゾンにも確認したが、出版社が「なか見検索」用のデータをアマゾンに提供してい ない場合、キーワード検索は書名検索と同じ結果になる。「なか見検索」機能用に目次や本文(一部)データを提供している場合のみ、それらのデータを含めた 検索結果がキーワード検索に反映される。指定したキーワードが何ページに引用されているかが表示されるのは、あくまでも「なか見検索用」データを検索した 結果だ。データを提供するかどうかは出版社側が決めているそうで、いっさい提供しない出版社もあれば、本によっては提供するという出版社もあるとのこと だった。

出版社名

書名

させる

書名

する

キーワード

させる

キーワード

する

総点数

文芸社

0

5

295

716

37835

PHP

2

25

284

1226

17970

サンマーク

0

4

77

188

1583

ダイヤモンド

5

24

39

280

14003

総合法令

1

2

37

139

1200

中経出版

0

8

28

136

3700

日経BP

4

11

28

338

6146

フォレスト

2

2

25

77

459

あさ

0

1

24

75

516

かんき

0

6

21

68

1666

講談社

2

5

20

85

107839

WAVE

0

0

13

46

572

DISCOVER

0

1

12

57

786

阪急

0

0

12

69

2208

すばる舎

1

0

11

30

988

祥伝社

0

4

10

51

5929

大和書房

1

1

10

27

3672

東洋経済

0

11

10

157

9017

文藝春秋

0

0

10

59

18396

角川書店

0

1

9

40

35084

きこ書房

0

1

9

15

290

青春出版社

0

1

8

18

4351

飛鳥新社

0

0

7

32

1025

宝島社

0

2

5

24

8191

徳間書店

0

4

4

42

19034

幻冬舎

0

1

4

7

7616

マガジンハウス

0

1

4

7

3387

日経出版

0

1

3

31

1702

経済界

0

6

1

22

1194

光文社

0

4

1

16

13244

集英社

0

0

1

25

48385

中公新社

0

0

1

10

8241

ポプラ社

0

0

1

2

13598

主婦の友社

0

2

0

29

8521

小学館

0

0

0

10

59570

新潮社

0

0

0

5

27347

日経新聞

0

0

0

3

8587



※キーワード検索で「実現させる」の多かった順に表示
※*の数字は、明らかに正しい用法を除外した結果
※DISCOVERはディスカヴァー・トゥエンティワン

 左から出版社名、書名検索「実現させる」のヒット数、同「実現する」のヒット数、キーワード検索「実現させる」のヒット数、同「実現する」のヒット数、 総刊行点数となっている。表示順はキーワード検索で「実現させる」の多かった順である。
 書名にしてもキーワードにしても、「実現する」とすべき場合にどの程度の頻度で「実現させる」を使っているかという誤用率?の一端を垣間見ることはでき そうだ。厳密さを期すなら、「すべての『実現させる』が誤用」であることを確認すべきだが、一件ずつ吟味する時間的余裕はなかったことをお断りしておく (一部、ヒット数が少なかった出版社については、正しく使われている「実現させる」を除外した)。

 ほかにも、いくつか強調しておきたい点がある。
 第一に、キーワード検索のヒット数が多いということは、それだけアマゾンという販路を重視し、まめ(・・)にデータを提供している証拠だ。自費出版中心 の出版社であれば、書店に流通しにくい、宣伝にお金をかけられない、著者へのサービス業務である、などの理由からアマゾンを最大限活用しようとするのは当 然だろう。
 第二に、「実現させる」「実現する」という表現は、自己啓発やビジネスの分野で頻繁に使われる。PHP研究所などは、「○○を実現する」ための本を出す のがある種“使命”だろうから、他社に比して分が悪いといえる。逆に、文芸やエンタテインメントなどを得意とする出版社では、そもそも「実現する」という 表現が登場しない作品も多いだろう。
 また、よくよく吟味すると、予想に反して1990年代以前の本がかなり含まれていた。わたしの感覚では、この5、6年のことという印象だったので、意外 だった。中には、1991年の一冊だけがヒットしたという例もあったが、敢えて除外しなかった。(時間がなかったというのもあるが、数字を加工しだすとい くらでも恣意的な結果を導けると感じたからだ)

 この表から何を読み取るかは人それぞれだろう。
 頭の体操と思って楽しむこともできる。東洋経済新報社の場合、「実現する」とすべき167回の機会のうち、10回くらいは「実現させる」になる可能性が ある(5.98%)。同様に、文芸社の場合だと、1011回の機会のうち、295回くらいは誤用になるわけで(29.17%)、さすがにこれは「うっかり ミス」のレベルを超えている。

 しかし、出版人の目で見れば、うっかりミスのレベルを超えているのは、むしろ書名に「実現させる」を使用している各社のほうだとも言える。本文をチェッ クするのは普通、著者(訳者)、編集者、校正者、印刷所のオペレーターなどだ。担当編集者の上司がチェックする場合もあるが、ざっと目を通す程度だろう。
 書名はそうはいかない。企画書を書く段階から、書名は大勢の人の目に触れる。編集会議の場でも「もう少し売れそうな書名(タイトル)を考えろ」などと議 論の対象になるし、刊行予定表には何か月も前から掲載されることもある。最終案ではないにしろ、『(仮)あなたの夢を実現させる100の言葉』のように、 何らかの書名が必ず告知される。つまり、書名に「実現させる」を使用した各社では、刊行までに何十人もがそれを目にしていたということだ。出版社の人間が 何十人も目にしていて、「これは日本語としておかしいのではないか?」との疑問が出ないことがわたしには信じられないが……、とにかく、状況としてはそう いうことだろう。
 常識的に考えて、書名に「誤植」があったら全部刷り直しだから、「実現させる」は各社にとって誤用でも誤植でもないということになる。読者にアピールす る正しい表現なのだろう(皮肉でいっているのではない。そうとしか考えられないのだ)。誰もが知る著名人の著作も含まれているので、著者が偉すぎて誰も意 見できなかったのかもしれない。

 ここにカウントされた本のなかには、ベストセラーも含まれている。一般の読者からすれば「多少の誤植があっても、本の売れ行きには関係ないらしい」とい うことになるだろう。出版社の側からも、「それで通用するんだから、売れればいいじゃないか。法律に違反してるわけでもあるまいし」という声が聞こえてき そうだ。

 しかし、もう一度繰り返す。「○○を実現させる」は誤植ではない。かなり頻繁に使われるようになった「誤用」(今のところ)である。調査したすべての出 版社で、「実現する」を採る傾向にあることは明らかだ。仮に、文芸社の結果に素人原稿の拙さがストレートに反映されているとすれば、言葉のプロでない書き 手ですら、七割は「実現する」を採っているということになる。やはり、「○○を実現させる」を正しい日本語だとするには、まだ躊躇を禁じ得ない。

 とまあ、たんなる手すさびにしてはずいぶん楽しめた。読者のみなさんにも、想像力を逞しくして、「へえ〜」、「ナルホド」、「ほう〜」と、苦笑したり納 得したり感心したりしていただければ幸いだ。


言葉をいたわる
 今回、この原稿を書くにあたり、ある友人に「させる」コレクションの話をした。すると友人は、「そういうことならぜひ、これを読むといい」と、一篇の戯 曲をすすめてくれた。明治44年発行の『誤用便覧』(大町桂月、佐伯常麿)に森林太郎が寄せた序文「鸚(おう)鵡(む)石(序に代ふる對(たい)話 (わ))」である。校正の現状とあり方について、言葉の取り扱いについて、著述家と出版人との対話形式で論が展開する、一風変わった序文とのことだった。
 インターネットで検索すると、驚いたことに「鸚鵡石(序に代ふる對話)」全編を正字・正仮名遣いのほぼ原文通りの表記で読めるサイトが見つかった(http://www.hat.hi-ho.ne.jp/funaoto/bunko/bunko.html『鸚 鵡石』のpdfファイル)。深夜に、携帯メールで本の詳細を送ってもらい、インターネットで検索すれば、ものの5分とたたないうちに101年前(!)の出 版物がほぼ原文通りのスタイルで読めるとは……! 世の中の変化も悪いことばかりではない。へそまがりのわたしでも心底、感動した。
 そして、「鸚鵡石(序に代ふる對話)」を読んでまたまた深く感動し、原稿を書く前に読んでおいてよかった!と、胸をなで下ろしたのだった。そこには、わ たしの言いたいことのすべてが言い尽くされており、加えて、鋭い描写と深い考察と辛辣なユーモアが満ちていた。この作品をここで紹介できただけでも、「さ せる」コレクションに勤(いそ)しんだ甲斐があったというものだ。

 言葉は、それで飯を食っている人間にとっては、職人の道(どう)具(ぐ)のようなものである。料理人が一日の終わりに必ず包丁の手入れをするように、書 き手も編集者も、言葉をいたわって(この表現は「鸚鵡石」より借りた)使わなくてはいけない。一流の料理人が、料理を味わう者に道具や工程を意識させない がごとく、一流の書き手は読者に言葉(尻)を意識させることなく、「内容」をいきいきと伝える。情景や心情を、まるで言葉が介在しないかのごとく、ありあ りと伝える。そしてしばしば言葉以上のものを伝える。そういう表現には揚げ足取りのつけいる隙がない。これは翻訳においても、目指すべき境地だと思う。一 生かかってもたどり着けないかもしれないが、日々、精進あるのみである。使い込まれた道具が職人の手足となるように、知り尽くした言葉を肌身の延長とし て、自在に使いこなしたいものだ。

 少し長くなるが、「鸚鵡石(序に代ふる對話)」を引用して締めくくりとしたい。

「鸚鵡石(序に代ふる對話)」より抜粋
※<>内、ルビ、太字は筆者

<客は出版人、主人は著述家。樂文は印刷所でもあり出版社でもある。主人は、口述で翻訳し、秋汀なる人物に筆記させた原稿を雑誌に連載していたが、この たびそれを単行本『鸚鵡石』にまとめて刊行する運びとなった。主人は、樂文が自分の赤字の通りに植字しないばかりか、赤字に対して意見してきたと憤慨し ている。>

<………略………>

客。へえ。妙な事が起つたものですなあ。さうして見ると秋汀君と樂文とが同じ文字の使ひやうをしてゐて、先生丈が違ふといふ事になるやうですが、さうな のですか。

主人。まあさうなのだ。

客。一體どんな字が、さういふ風に違つてゐるのですか。

主人。(校正刷を机の側に積んである書籍の間より出す。)これを見てくれ給へ。一番澤山ある此の「申す」といふ字なんぞを見給へ。これが雜誌には皆「まを す」とルビを振つてあるのを、僕が「まうす」と直して遣つたのだ。それを初校に皆「まをす」にしてゐる。又直して遣つても、再校にも直つてゐないで、この 通「まうすは聊(いささか)へんなる樣存侯」と冷かして書いてあるのだ。

客。はゝゝゝ。成程これは妙ですなあ。併し先生が「まうす」にお直しなすつたのは、どういふわけですか。

主人。どういふわけも何もない。僕だつて「まをす」が誤でない事は知つてゐる。知ってゐるどころではない。明治になつてから「まをす」を不斷使ふやうに復 活させたのは、多分僕だらうと思ふ位だ。國民新聞なんぞへ、和文らしい文章でいろんなものを書いた頃は、友逹が「まをす」は可笑しいと云つて冷かしたもの だ。併し談話體のものに「まをす」と書かれると、どうも心持が惡い。祝詞を讀むときは、今でも「まーをーす」とはつきり讀むのだ。僕はあれを思ひ出す。談 話には誰だつてあんな事を言ふものはない。「もおす」と發音するではないか。音便で「まうす」と書くのが當前だ。他の例を考へて見給へ。箒は「ははき」 だ。併し談話體には「はうき」と書いてもらひたいのだ。「ほうかむり」(頬冠)を「ほほかぶり」と書かれては溜らない。果して樂文が一切の音便を排斥す るのなら、何故「いうて聞せて下さりませ」といふせりふを其儘植字するのだ。「いひて聞せて」と直さなければならない筈ではないか。

客。成程さう云はれればそんなものですが、「まをす」と書いてあつたつて、讀めないことはありませんなあ。

主人。勿論さ。讀めない事はないから、雜誌の時は僕も直さずに置いたのだ。併し讀めない事はないから好いなんと云ふのは、藝術的良心の弛廢だからねえ。

客。いやはや。大變なわけですなあ。(間。)そして眞名の違ふといふのはどんなのですか。

主人。嘘字は雜誌の時に大抵直してあるから、これも讀めないことはないといふ程度の間違なのだ。「身に染む」といふ時に、「沁」の字をどこかの漢學の素養 のある人が使つたのを見て、今では誰も彼も「泌」の字を使ふ。お醫者さんが「分泌」などと云ふ時使ふ字が、飛んだ處に濫用せられてゐるのだ。こんなのは、 僕は雜誌でも容赦はしない。其外「中有に迷ふ」といふのを「宙宇に迷ふ」なんと書くのが普通だ。佛説の三有なんぞを知つてゐるものは少いのだから爲(し) 方(かた)が無い。こんなのも雜誌の時から無いやうにしてある。(校正刷を指さす。)一寸これを見給へ。これは博奕の「さい」なのだ。雜誌にはウ冠の 「賽」といふ字が書いてあつた。それを僕は采色の「采」に直して遣つた。秋汀君の書いた方が、無論世間普通の字だ。誤りではないかも知れない。併し僕は采 色の「采」の字の方の由來を知つてゐて、ウ冠の「賽」の字の方は、何故博奕の「さい」に使はれることになつたのか知らない。由來を知つてゐる字の方が心持 が好いから直して遣つたのだ。これも朱書が附いてゐる。「采は何かの間違と存候」といふのだ。これなんぞは最も驚くよ。采色の「采」といふ字が何も僻(へ き)字(じ)といふわけではない。言海にだってウ冠の「賽」と並ベて出してあるのだ。僕は漢字に對する專門の智識は有してゐないのに、此頃は忙しくてなか なか文字なんぞを調べてゐる暇はない。それだから人の書いた字を直さうとは思はない。樂文は僕の書く字を直さうとするのだから言海位は開けて見たつて好 いではないか。(又校正刷を指さす。)それからこれを見てくれ給へ。雜誌には「わけ」といふ字が皆翻譯の「譯」といふ字になつてゐた。これは世間普通には 相違ない。併し僕には翻譯の「譯」の字に、何故「わけ」といふ義があるか分らない。そこでこんな字はなる丈假名で書きたいのだ。併し假名にするのが煩はし い處は、爲方がないから要訣の「訣」の字に直して置いた。誰の説だつたか覺えてはゐないが「わけ」といふ詞は、もと眞名で「訣」と書いたものらしい。それ を傳譯の「譯」の字の省文で、言扁に「尺」といふ字を書く「譯」の字と見違へて、それを又正字の「譯」にしたのだらうと云つた人が有る。何にしろ説文に訣 は法なりと云つてある「訣」の字には、多少「わけ」といふ詞に當つた處がある。これに反して「譯」といふ字がどうして「わけ」といふ詞の眞名になるのだ か、僕には少しも分らない。僕は分らない字は使ひたくないのだ。それを樂文ではどうしても翻譯の「譯」の字が本當だから、それを使はなければ承知しない といふので、此通に朱書をしてよこすのだ。僕が假名にして置いた處まで、此通に「譯」の字に直してよこすのだ。まあ、ここいらが最も樂文のお氣に入らな い處なのだよ。

客。なる程。承ればそんな理窟もあるのでせう。併し先生のやうなねぢくれた考が、樂文に分らないのは無理はありませんねえ。

主人。それは無理だとは僕も思はないのさ。併し僕は活板屋に對しては、僕の書いたものを分らして貰はうとは思はないのだ。活板屋は僕の書くとほりに植字を してくれれば好いのだ。譬へて見れば、畫家や彫刻家に物をョむのなら、先方に製作の自由を與へねばならない。それでさへRodin の拵へたBalzacのやうに、注文した方で嫌だと云へばそれ迄だ。職人に物をョむのに、注文どほりに遣らなけりやあ、其品物を引き取らないと云つても差 支あるまい。もう少し進んで考へて見れば、活板屋といふものは著述家の書いて遣るとほりに植字をしなけりやならないのではあるまいか。それが活板屋の義務 ではあるまいか。

客。(微笑して頭を傾く。)先生のやうに考へると、活板屋は著述家に服從せねばならないやうに聞えるのです。活板屋は著述家の奴隸でなければならないやう に聞えるのです。甚だ失禮ですが、其邊はどうでせうか。餘りお話が抽象的になりますから、具體的に樂文の事を言つて見ませう。樂文は活板業はしてゐま すが、同時に書肆ですよ。今日事實の上では、書肆が著述家の奴隸でせうか、著述家が書肆の奴隸でせうか。(客の顏はIrony の色を帶びてゐる。)

主人。はゝゝゝ。君はなかなか辯論家だなあ。僕のさつきのやうに云つたのは著述家としての立場から極言したのさ。僕だつて世間に對して丸で盲ではないよ。 世間はさう窮屈なものではないからなあ。勿論樂文はえらいよ。併し僕が若し書肆になつたり、活板屋になつたりしたら、もつとえらいかも知れない、<…… 中略……>

客。<…略…>(間。)さてわたくしの方の實際問題ですが、此の一件の落着はどう附けて下さるのですか。わたくしの方から印刷所へ掛け合つて、これからは 誤植は十分直すといふことにさせれば好いでせう。

主人。いや、僕はもう御免だよ。君はまだ誤植だなんと云ふが、それでは君には僕の説明が好く分つてゐないといふものだ。誤植といふものは過誤なのだ。誤植 の事は僕は言つてはゐない。(校正刷を指さす。)これを見給へ。ここに「ぢつとしてゐらつ
しやいよ」とわ行のゐが植わつてゐる。こんなのは僕は雜誌の時容赦なく直したから、初からあ行のいになつてゐる。それを印刷所でも大抵あ行のいに植ゑてゐ るが、ふいとここ丈間違つたのだ。こんなのは誤植だ。それだからこつちの再校の方を見給へ。先方でも直してゐる。

客。(校正刷を覗き込む。)なる程。皆いろはのいになつてゐますな。何故いらつしやいといふ時、わゐうゑをのゐでは行けないのですか。

主人。知れ切つた話ぢやあないか。いらつしやいといふのは「入らせられい」から轉じたのだ。眞名に書けば「入」の字だ。「居」の字の筈がない。

客。それでも誰の小説を見ても、皆わゐうゑをのゐを書くか、「居」の字を書くかしてゐるぢやあありませんか。

主人。それはさうなつてゐるよ。「おいでなさい」も同じ事だ。「御出なされい」だから、眞名に書けば「出」の字で「居」の字ではない。それを大抵皆わ行の ゐや「居」の字を書いてゐるのだ。

客。何故さういふ風になつたのでせう。

主人。それは知れてゐるさ。入らつしやいもお出なさいも居ろといふ事だと思つて「居」の字にしたのだ。言語の上の猿智惠なのだ。言語の感情といふものを失 つてゐるのだ。

客。いつからさうなつたのでせう。

主人。たつた此間からだよ。僕が始て氣の附いたのは硯友社の人の小説であつた。それから一人殖え二人殖えして、「うゐらつしやい」、「おうゐでなさい」流 が天下を取つたのだ。

客。はゝゝゝ。先生は隨分馬鹿氣た事を氣にしてゐるのですねえ。

主人。(微笑。)失敬千萬な。何の馬鹿氣た事があるものか。眞面目に文藝を遣つてゐる以上は、言語はいたはつて使はなけりやならない。僕なんぞは人の著述 を開けて見て、「うゐらつしやい」のやうな猿智惠の化身がうようよしてゐるのを見ると、體がむづ痒くなるのだ。

<………中略………>

客。どうも困りますねえ。

主人。それは君の方では少しは困るだらう。僕だつて君の方で多少迷惑するといふことは知つてゐる。併し僕もいやいやながら鸚鵡石を一旦本にするといふこと を承知して、忙しい中で隨分手數を掛けたのをむだにするのだ。君も我慢して止めてくれ給へ。

<………中略………>

客。先生。それは惡い笑談といふものです。(間。)そんな馬鹿な事を言はないで、何とか始末の附けやうがありさうなものですねえ。

主人。(Irony の調子。)さうさなあ。君が立つて困るといふなら、僕に考がないこともないよ。

客。(膝をすゝむ。)どうするのです。

主人。先づかうだ。君は樂文へ往つてかう云ふのだ。さて此度は意外な事で、御迷惑を掛けて相濟まない。併しわたくしも鸚鵡石を出板することを受け合つた ときには、その中に博奕の「さい」を采色の「采」に書いたり、「わけ」といふ字に「訣」の
字が當てゝあつたりするやうな、へんてこな書物だといふことは夢にも知らなかつたのだ。そんなへんてこな書物を出板しようと受け合つたのはわたくしの災難 だ。そこで著者の方へも、十分掛け合つて、出來る事なら、ウ冠の「賽」の字と翻譯の「譯」の字とにして貰ひたいと云つて見ましたが、著者が分らず屋で、ど うしても納得しない。わたくしもこれでてこずつたから、二度とふたたびあんな男の書いた物を出板しようとは思はない。馬鹿に附ける藥はない。どうぞあなた の方でも我慢して、此度は著者のいふ通に、間違つた字でも構はないから、植ゑて遣つて下さいとかう云ふのだ。はゝゝゝ。

客。はゝゝゝ。好うございます。今から往つて、何とか云つて纏めて來ませう。左樣なら。
<了>

以上、「鸚鵡石(序に代ふる對話)」より

※なお、「鸚鵡石」のテキストは船木直人氏のホームページよりデータをコピー、ペーストしたのち、一部の漢字を表示環境に合わせて新字に改めました。デー タの借用を快諾してくださった船木氏に、この場を借りて御礼申し上げます。