100号記念号への寄稿
南條恵津子
びりっかすの子猫からハワーズ・エンドまで
小学校にはいって、最初に父が買ってきた本は、『びりっかすの子ねこ』(ディヤング作、中村妙子訳、偕成社)だった。「こどものとも」とは違って、表紙
が厚くて字の多い本だった。えんぴつみたいなしっぽをぴんと立てて、おかあさんねこのあとを歩いてゆく黒い子ねこたちの絵や、寒くて孤独な夜の冒険と、そ
のあとに子ねこを待っていた、ミルクと年より犬と人間の温かさは、40年以上の歳月を経ていまだに鮮やかにわたしの脳裏によみがえる。寒さに震える子猫を
追っ払うのも人間の手なら、温かい家とミルクと友達を与えることができるのも人間なのだと、たぶん6歳の少女はそのときに学んだのだろう。そしてこのとき
一冊の本に「さく」「やく」「え」を受け持つ人々がいるらしい、ということも初めて意識したのではなかったか。
本の主たる供給元は父親で、岩波少年文庫(当時はまだハードカバーで箱にはいっていた)、学研版新しい世界の童話シリーズ、学研少年少女新しい世界の文
学シリーズ、講談社世界の名作図書館、大日本図書のこども図書館シリーズなどを折々、黒い鞄にいれて持って帰ってきた。当時の本はどれも立派で、父の書棚
も筑摩の文学全集や中央公論の世界の歴史・日本の歴史全集などがぎっしり並んでいた。そういう時代だったのだ。岩波少年文庫やこども図書館シリーズには井
伏鱒二や宮沢賢治の作品もあったのだが、今改めて顧みればわたしがくりかえし愛読したものは翻訳文学のほうに数多い。ごんぎつねや、赤いろうそくと人魚、
泣いたあかおになどの日本の童話は、なんだかあまりに哀切で、それよりはからすのアブラクサスとほうきにのって市場にでかける小さな魔女や、おとなたちに
一杯食わせることをもくろむ二人のロッテや、ロシアの森の12の月の精と遊んでいるほうがわたしには楽しかった。あるいは、池澤夏樹が記すように「追われ
る立場で動物としての知恵をしぼって相手を撒くこと、いやもっと危なくぎりぎりまで追いすがられて自分の脚力だけを頼りにからくも逃げ切ること(中略)に
さえ、大いなる喜びがこめられているのかもしれない。そういう時にこそ弱い動物は自分が生きているという実感を改めて感じて幸福感を味わう」(「ぼくらの
中の動物たち」)姿を見せるギザ耳や、狼王ロボやハイイログマの「生の実感」を分かち合うほうが楽しかった。幸福な少女の毎日を彩ったさまざまな翻訳児童
文学は、たぶん可視的にも不可視的にも、その後の人生に影響を与えている。
メアリー・ポピンズもそういったもっとも印象に残る作品の一つである。彼女は中世の住人や魔女といった全く異なる世界の人ではない、触れれば骨張った手
足が感じられるほどの距離にいる人でありながら、異界へのポートを持つ女性である。児童文学でありながら、主人公は子供(だけ)ではなくて大人であるとい
うのが、この作品の不思議さの一つである。小学校3年生の時に、「好きなお話を絵に描く」時間があった。わたしは「あべこべトーフィーさんのところのお茶
会」の様子を描いたのだが、側にいた級友が「これは何の話? どっちが悪者?」と尋ねたのでたいそう驚いた。しかしそのとき「メアリー・ポピンズ」を知っ
ている級友はひとりもおらず、わたしが「何を描いているのか」は誰にも理解されなかった。杖を持った魔法使いでもなく家政婦でもなく、しかも時におっかな
い人で、さらにバルタン星人も鉄人28号も出てこないのになぜ面白いのか、というのを小学生に納得させるのはひじょうに難しかったのである。
ロンドンの広大な公園やジンジャーパンやガイ・フォークス・デイといったものに、親近感と憧れを感じていた小学生が愛したメアリー・ポピンズが話す言
葉、彼女を語る言葉、あるいは公園番やロバートソン・アイの語る言葉は林容吉氏の日本語であった。P.L.トラヴァースの世界と林容吉の日本語があまりに
も分かちがたく結びついてしまった結果、中学3年生のときに赤い本におさめられた、メアリー・ポピンズの何話かを英語で読んだときには、林容吉の訳が自ず
と和訳にあらわれてしまい、「それでは努力して英語を読んでいないので勉強になっていません」と先生に言われてがっかりするという事態にも及んだ。
明治の翻訳語が近代日本人の語彙を増やし、思考の礎となった。一世紀を経て、林容吉氏によって伝達されたメアリー・ポピンズの言葉や、石井桃子、大塚勇
三、阿部知二、松野正子といった人々に案内された世界のありようとその言葉が、一人の小学生の根となった。美智子皇后が、1998年の国際児童図書評議会
の講演で、読書は自分に根っこと翼をあたえてくれた、と述べておられる。わたしの根のうちでも最も太いものは、翻訳文学の日本語でできているといえるかも
しれない。『びりっかすの子ねこ』と出会って40余年。現在わたしは神戸女学院大学の院生として翻訳研究をし、ハードカバーの手触りを懐かしみながら河出
書房新社の世界文学全集を読んでいる。