翻訳のインフラ
伊豆原 弓
一翻訳者の仕事場・2010年
「翻訳通信」100号刊行、感慨もひとしおである。「翻訳通信」がネット上で配布されるようになってから約8年になるが、その前に何年か、こぢんまりと
情報や意見を交換し合っていた時期がある。その当時、翻訳の道具やインフラの話を中心に何度か投稿させていただいたが、今回ふたたび筆を執るにあたり、当
時の自分の投稿をパラパラと眺めてちょっとした衝撃を受けた。
翻訳者はワープロ専用機を買うべきか、パソコンを買うべきか。研究者やマニアが騒ぐインターネットとは何か。16MBのメモリーを積んでハードディスク
まで付いた最新PCの話。翻訳に便利なソフトを使いこなすためのMS-DOSコマンド。そんな内容だったからだ。
あれから15〜6年、私自身も仕事の内容も変化してきたが、翻訳という仕事をとりまく環境も、使われる道具も変わった(誤解しないでいただきたいが、
ワープロ専用機を捨てて久しい今日でも、専用機がPCに劣るとは思っていない。今の時代のPCで、なぜあの操作性が再現できないのかと思う)。
現在は翻訳の技術的インフラも多様化し、ジャンルによっては専用ツールも普及している。一概に何がいいとは言えない状況になったし、自分自身も今は最新
ツールとは無縁の仕事を主にしている。とはいえ、自分なりに工夫して使っている道具もいくつかある。ネットによる情報交換が盛んになったとはいえ、お互い
の仕事場まで覗く機会はなかなかないのが翻訳者の現実である。15年後にあらためてふり返るためにも、現在重宝している道具の話などいくつか書いてみよう
と思う。
デュアル・ディスプレイ
1台のPCでディスプレイを2台使用する方法は、すでに実践している人も多いと思うが、資料検索にネットが欠かせなくなった現在、低コストで手軽に作業
環境を快適にする手段である。少し前までは、PCのケースを開けてカードを追加したり、相性問題に悩まされたりと、ややハードルが高かったが、最近はハー
ド、ソフトとも手軽に設定できるようになった。
普通はデュアル・ディスプレイというと、2台のディスプレイを横に並べて使うことが多い。それを横長のワイド・ディスプレイに見立てて画面を広く使うの
だ。私も17インチ・モニターを正面に1台、左にもう1台並べて、正面のメイン・モニターには翻訳の入力画面や電子辞書を、左のモニターにはブラウザーや
ファイラーを表示している。2つの文書を見比べるときなどは、右と左に1つずつ開く。ウィンドウは右画面から左画面へ、左画面から右画面へとマウスで簡単
に動かせる。
最初からワイド・ディスプレイを買う手もあるが、2台使った方が画面も広いし、既存の資源を生かして低予算で構築できる。
デュアル・ディスプレイに必要な物は、デュアル対応のビデオアダプターとOS、それに2台目のモニターだけである。既存の環境によっては、モニターを1
台買い足すだけで足りる。2台のサイズが違っても大丈夫だが、翻訳作業には同じサイズが使いやすいと思う。17インチTFTなら1万円台で買える。
ビデオアダプターだが、最近のPCは最初からビデオ出力端子が2個あるものも多く、その場合はそのまま使える。端子の種類がディスプレイ側のケーブルと
合わない場合もあるが、変換アダプターを使えば大丈夫だ。変換アダプターは数百円で買えるが、ディスプレイに付属していることも多い。
PCにビデオ出力端子が1個しかない場合、ビデオアダプターを追加することになる。従来はインターフェイスの種類を調べてPCのケースを開けて……とい
う面倒な作業だったが、最近は便利な外付けのビデオアダプターがある。USBに差し込み、ディスプレイ・ケーブルをつなぐだけというものだ。私も以前はビ
デオアダプターを2枚使っていたが、現在はアイ・オー・データ社のUSB-RGBという外付け製品を6000円程で買って使っている。内蔵アダプターに比
べパフォーマンスにやや難があるという話だが、仕事では動画を見るわけではないので、特に困ったことはない。どうしても負担のかかる処理をする必要がある
ときは、メインのディスプレイの方に表示させれば問題ない。
無事に2台のディスプレイを接続したら、あとはソフトの設定だが、Windows
XP以降ならこれも簡単だ。方法は簡単に検索できるので詳しくは書かないが、「画面のプロパティ」を開いて、「設定」タブでモニターの配置を決める。これ
で2枚の画面を広々と使えるようになる。
DDwinとEPWING辞書
PC用の電子辞書検索ツールはPDICなどがメジャーだが、私は普段の仕事にはDDwinが手放せない。もう5年もアップデートされていない古いフリー
ウェアで、辞書によっては文字化けしたり、ほかにもこまかい不具合はいろいろとあるのだが、代わるものがない。ただ、便利に使うには最初の設定に一手間か
けた方がいい。
DDwinは、EPWING形式の辞書を検索するソフトである。長年アップデートされていないが、今でも無料でダウンロードは可能である。DDwinの
魅力は、なんといっても複数の辞書を串刺し検索できること、そしてマウスを使わずキーボードだけでいろいろな連続操作ができることだ。
EPWING形式の辞書は、CD-ROMなどの媒体で販売されている。どんな種類の辞書があるかは、AmazonでEPWINGをキーワードに検索して
みるとだいたいわかると思う(EPWINGコンソーシアムのサイトにもリストがあるが、情報が古い)。
CD-ROMは、ハードディスクにコピーして使う。CDROMなどのフォルダを作っておいて、その下に辞書ごとにフォルダを分けてデータをコピーしてお
くと便利だ。
DDwinをインストールしたら、まず「ファイル」→「辞書をサーチする」を選び、辞書データの入ったドライブとフォルダ階層の深さを指定する。これで
見つかった辞書名がメニューの下に並び、辞書を選んで検索できるようになる。Ctrlキーを押しながら複数の辞書を選んで串刺し検索もできるが、辞書グ
ループを設定しておくと使い勝手がよい。
辞書グループは「グループ」メニューから設定できるが、私はここにいくつかのグループを作り、「英和」には英和辞典3つ(新英和大辞典、リーダーズ+プ
ラス、英辞郎。英辞郎はフリーソフトでEPWING形式に変換できる)、「国語」には広辞苑、その他のグループに類義語辞典などを入れている。こうしてお
くと、グループごとに串刺し検索ができる。さらに、検索結果がどの辞書でヒットしたものか簡単に区別できるように、辞書ごとにカラーラベルを設定してい
る。
使う前に、「ツール」→「オプション」画面で設定を調整する。フォントなどこまかいところは個人の好みだが、ぜひ変更した方がよいと思う点がいくつかあ
る。
まず、「検索」タブの「検索ボタンで串刺し検索を行う」。これをチェックしないと、複数辞書の一括検索ができない。次に、「該当項目リストの並べ替え」
は「項目名順」に設定し、「全項目を自動表示する」をチェックする。さらに、オプション画面ではなくDDwinのウィンドウの左下にある「連続表示」を押
して「項目表示」に変えておく必要がある。この設定をしないと、紙の辞書と同じように関係ない続きの項目までだらだらと表示されて検索結果が見にくい。
「辞書バー」タブでは、「辞書ボタンを表示する」をチェックし、次の辞書名の長さを「0」文字に設定している。こうすると、画面左の見出し語リストのと
ころにカラーラベルだけが表示され、どれがどの辞書でヒットしたものかわかりやすい。辞書によって信頼性や特徴が異なるので、どの辞書でヒットした結果か
を確認することは必須である。
「その他」タブでは、「検索語入力ボックスにフォーカスがあっても方向キーで項目内容をスクロールする」をチェックする。こうしておくと、検索した後、
マウスを使わなくても↓キーを押すだけで検索結果を閲覧できる。また、検索直後にCtrl+Fキーを押すと、検索結果内を検索できる。たとえば、face
を検索してから結果内でdownを検索するなど、長い検索結果のなかから熟語や用例を探すときに重宝する。
検索するときは、グループを切り替えながら串刺し検索をするが、これもAlt+Gキーを押して数字を選べば、マウスを使わずに切り替えられる。
最後に、前方一致・後方一致検索について。DDwinは、デフォルトの設定だと自動的に前方一致検索を行うようになっている。これは好みでそのままでも
よいと思うが、私はオプションで前方一致検索を無効にして、検索語を入力するときに自分で指定している。たとえば、「about」と入力すれば完全一致検
索、「about*」と*を後ろにつけて入力すれば前方一致検索、「*about」と入力すれば後方一致検索ができる。ただし、辞書によっては後方一致検
索には対応していない。
ほかにもいろいろな使い方ができるが、興味をもった方はご自分で試してみていただければと思う。最新バージョンはDDwin32
2.66、Vectorなどのダウンロードサイトで入手できる。
一つ希望をいうと、翻訳中の自分のメモや訳例をなんらかの方法で取り込み、DDwinで一緒に検索できればありがたいと思っている。それもなるべく余分
な手間をかけず、リアルタイムに手軽に追加していければ言うことはない。PDICには自分の辞書を追加する手段があるので、応用できないかと考えている。
すでに実践している方、アイデアのある方がいらっしゃれば教えていただければ幸いです。
テキストエディタの色分け機能
これは15年前と変わっていない点だが、訳文の入力には可能なかぎりテキストエディタを使っている。マシンの性能が向上し、重さの点ではWordでもあ
まりストレスは感じなくなったが、不要な設定を切ってもなお余計な挙動をするのが気になるのと、テキストに比べるとなにかと融通がきかない。
ちょっとしたテキスト編集には秀丸も使うが、メインに使っているのはWZ
Editorである。WZもバージョンアップのたびに使い勝手が変わり、機能ばかり膨らんで設定しづらくなり、シンプルなエディタの良さを失ってしまっ
た。とはいえ、いくつか使い慣れた便利な機能があって手放せない。その一つが色分け機能である。ほかのテキストエディタやワープロにも似たような機能があ
るかもしれないので、参考までに。
WZ
Editorは書式情報のないテキストを編集するツールなので、基本的に文字を単色でベタ表示するだけである。しかし、「色分けスタイル」を設定しておく
と、条件に合った文字列に表示の上でだけ色をつけることができる。
たとえば、「 で始まり 」
で終わる範囲を紫色で表示する、という設定ができる。こうしておくと、かぎかっこで囲まれた範囲が紫で表示されるため、かっこの閉じ忘れを防ぐことができ
る。これは表示上だけのことで、印刷したときにはテキスト情報だけなので色分けはされない。
また、文のなかで保留した箇所、あとで直そうと思う箇所などには、★★とマークしておく。そして、★★という文字列があると、太字の赤で表示されるよう
にしている。こうしておくと目立つため、あとで探しやすいし、チェック漏れやマークの消し忘れを防ぐことができる。
ほかにも、客先へのコメントやレイアウト指示は橙色、章題などの見出しは青の太字で表示されるよう、マークと色分け設定を組み合わせている。
ちょっとしたコツにすぎないが、書籍などの長いものを訳すときには、こうして表示に変化をつけておくだけでもかなり見やすくなる。
Forvo
ここで一つ便利なウェブサイトの紹介を。
翻訳中は固有名詞の表記に悩むことがある。固有名詞発音辞典などもあるが、十分に網羅していないし、同じ綴りでも国や地域によって発音が異なる。
最近、Forvo (http://ja.forvo.com)
というサイトを見つけて利用している。固有名詞に限らないが、世界各国のさまざまな単語を、その土地の人が発音して音声ファイルで提供するというユーザー
参加型コミュニティである。
たとえば、Michaelという単語を検索すると、アメリカ、オーストラリア、香港、フランス、ドイツ、スウェーデンなど、各地のユーザーが録音した発
音を聞くことができる。ユーザーが録音したものなので、訛りや癖、録音環境の影響もあり鵜呑みにはできないが、数人分のサンプルがあれば十分参考になる。
語数はまだ十分とはいえず、サイトが重いという難もあるが、今後利用価値がありそうである。
Googleツールバーのボタン
調べ物が多い翻訳作業には、ウェブブラウザーの検索ツールバーが欠かせない。Googleツールバーはたいていの人がインストールしてい
ると思うので特に説明はしないが、カスタマイズまではしていない人もいると思うので、オプションボタンについて少し紹介したい。
なお、私はウェブブラウザーとしてFirefoxを使っているので、Firefox用のGoogleツールバーについて書くが、IE用でもほぼ同じはず
である。
Googleツールバーは、オプションの「ボタン」タブで、表示するボタンを選択できる。また、この画面で「追加」を選択し、アドオンのボタンを組み込
むことができる。
Googleツールバーの検索ボックスに語句を入力し、ただEnterキーを押せば通常検索ができるが、Enterキーのかわりにボタンを選んでクリッ
クすると、それぞれの専門検索エンジンで検索ができる。たとえば、 を選ぶとWikipediaで、を選ぶとAmazonで検索が
できる。地名を入れて をクリックすると地図が表示される。多少のことだが、時間の短縮になる。
上の図は実際に使っているボタンの一部だが、左から日本語ウィキペディア、英語Wikipedia、Amazon.co.jp、Googleブック、英
辞郎、Merriam-Webster、Google辞書、楽天
(商品検索に)、地図、画像検索、ニュース検索、カレンダー、ブログ、Googleドキュメント、Gmail……となっている。このなかで実際に頻繁に使
うのは3〜4個だが、特に地図検索は、プライベートではもちろん、ノンフィクションで海外の土地について調べるのにも重宝している。
最近は、GmailやGoogleドキュメントに何でも情報を放りこんでおいて検索して使う、という人もいるようである。私はこれらのツールを仕事には
ほとんど使っていないが、複数のPCで情報を共有できるので、人によっては便利に使えるだろう。最近、情報の蓄積や利用法は、簡単にアクセスできる場所に
生のままのデータを放りこみ、スマートな情報検索手段とアクセス制限を駆使して利用する、という方向に進んでいるようである。
電子書籍
今年は電子書籍をめぐる動きが盛んだが、日本ではまだ先行きがまったく見えない状況である。しかし、この先大きな変化があることは確実である。
私も今年から資料調査に電子書籍を使い始めた。Kindle for
PCをインストールし、洋書資料が必要なときにAmazon.comからダウンロードして使っているのだが、従来洋書の取り寄せにかかっていた送料と時間
を考えると、その便利さは感動的でさえある。保管場所をとらないのもうれしい。すでにAmazonのKindle
Storeにはかなりの点数が登録され、検索してヒットする本が増えてきた。
また、最近訳した本ではやや古い資料が多数必要だったのだが、Googleブックで参照できるものがいくつかあって助かった。在庫にコストがかからない
ぶん、簡単に絶版にならないのも電子ならではだ。
収益とコストの構造が確立しないまま手探りで進んでいる電子書籍市場だが、さまざまな可能性を孕んでいる。よく電子書籍が普及すれば本が売れなくなり出
版社がつぶれるとか著作者が食えなくなるとか言う人がいるが、紙と電子を対立構造でとらえるのは間違っていると思う。たしかに、紙の本の部数はこれから
減っていくだろうし、構造的な変化が起きることは確かだが、これから紙と電子が併存する時期が長く続くだろうという気がする。実際、新刊本についていえ
ば、Kindle
Storeでは同じ本が紙媒体と電子版の両方で、あまり変わらない価格で販売されている。消費者にとっては、ハードカバーやペーパーバックのほかに選択肢
が一つ増えたということだ。
また、日本人は本の厚みやページをめくる感触が好きだから電子書籍は売れないなどというのも間違いだ。ビニールレコードからCDへの移行期、音質の好み
の問題はよく話題になったが、そのほかに大判のジャケットが欲しいからレコードを選ぶと言っていた人がどれほどいたことか。私も本の感触は好きだが、それ
だけの理由で本を買うことはない。とはいえ、電子書籍が普及するかどうかは、コンテンツの充実ともう一つ、印刷並みの美しさと読みやすさを実現できるかど
うかにかかっている。アメリカでKindleが受け入れられているのも、これらの条件をそこそこ満たしているからだと思っている。電子書籍リーダーでメー
ルが読めるとかゲームができるとかいったことは、マニアのおもちゃとしては重要なポイントかもしれないが、電子書籍そのものの一般消費者への浸透には関わ
りのないことだ。ところが、日本では電子書籍の縦書き不要論なども出ているようで、私は唖然としている。
初期コストはともかく、軌道に乗れば確実に紙よりコストが抑えられるのだから、電子出版によって読者と著作者と出版者の誰にとっても利益になる持続可能
な構造を実現することはきっと可能だし、持続可能な方向へと移行することは必然ではないだろうか。そこへ至るまでの紆余曲折のなかで、自分が淘汰されない
ようにと気を引き締めている。
電子書籍について思うことはいろいろあるが、また十分に情報を追い、みずから体験してから、別の機会に詳しく書きたいと思う。