翻訳家の仕事
有賀裕子
キツツキと猫――翻訳をめぐる随想

 イソップ寓話のようなタイトルだが、べつに何かの教訓を込めているわけではなく、翻訳者としての日々の雑感をしたためようとしたところこのタイトルに落 ち着いた。ちなみに、キツツキと猫のほかにゴマフアザラシも登場する。
 最初に考えたのはもっと長いタイトルだった。近ごろは長いタイトルの本が売れているので、もしかしたら無意識のうちにそのトレンドに影響されているのだ ろうか……などと自分に問いかけながら、タイトルが長い場合は覚えやすい愛称があったほうがよいけれど、愛称は見つかりそうもないし……と空想がとめどな く広がったところで、「この文章はそもそも売るために書いているのではなかった」とはたと気づき、現実に戻ったのだった。

* * *

 時々翻訳の仕事について聞かれるのだが、何と答えていいかわからずいつも戸惑う。自分でも答えがわからないのだ。それらしい答えを用意することはできる 気もするが、どうも何かが違うように感じて落ち着かないためうまく答えられずにいる。たとえばこんなふうに。
Q「翻訳の仕事って面白い(好き)ですか」
A「……」
Q「なぜ翻訳の仕事をしようと思ったのですか」
A「……」
 まして、「翻訳って儲かるんですか?」などと聞かれようものなら、頭のなかに次から次へとクエスチョン・マークが浮かんできて、文字どおり首をひねって しまうのだ。幸いにもいまのところ、首のひねりすぎで怪我をしたことはないけれど。
 こんな調子だから翻訳について話したり書いたりした経験はほとんどないのだが、それはきっと、わたしにとって翻訳とはするものであって考える対象ではな いからだと思う。
身も蓋もない表現かもしれないが、「今日はあと何ページ」「今週はあと何ページ」「今月はあと何ページ」「終わりまであと何ページ」というように、ノルマ と睨めっこしながら、いまここにある原文を読んでキーボードを叩く作業、それがわたしにとっての翻訳である(もちろんこの合間には、辞書を引いたり、調べ ものをしたり、訳が決まらずにウンウン唸ったりしている)。
どの仕事もそうだろうが、この仕事も嬉しい時もあれば辛い時もある。しかしそれはさておき、花も嵐も踏み越えて、今日もコツコツ、明日もコツコツ、あさっ てもコツコツ、しあさってもコツコツ訳さなくてはならない。だから、仕事をしている時の自分を動物にたとえるとキツツキだと思っている。
コツコツしているあいだは樹木、いやパソコンに張りついているから、どちらかというと行動範囲が狭く、人と会う機会も多くはない。けれど、小さいころから 気に入った本ばかりを何度も読む偏愛癖があり、多読や速読とは無縁のわたしには、一冊の本と長く付き合うこの仕事が性に合っているのかもしれない。何し ろ、一冊分の訳稿を仕上げるまでに数百時間はかかるのだ。
翻訳は、このように地道に積み重ねていくタイプの仕事であるため、旬の表現に倣うなら「続ける力」「粘る力」が求められる。
だが、それ以上に大切なことがあるとわたしは考えている。コツコツをはじめる前に、つまり仕事を引き受ける前に、「自分に訳せるかどうか、訳せるとしたら どれくらいの期間がかかるか」をしっかり見極めることである。何百ページもの本の翻訳を引き受けた後でこの見極めを誤ったとわかった場合、スタミナのない わたしにとって挽回はほとんど不可能であるため、この見極めはとても大切である。納期までに無事に訳了できるかどうかは、8割方はこの見極めしだいで決ま ると思っている。
1ページのワード数はどれくらいか。読み慣れている分野かどうか。平均して一文は長いか短いか。文章に強いクセはないか。中身は抽象的か具体的か。調べな くてはならない事柄は多いか少ないか。調べものが多い場合、入手しやすい資料はどれくらいあるか……。これらの条件しだいでは、たとえ同じ分野の同じペー ジ数の本でも、訳出にかかる日数は大きく異なってくる。測ったわけではないが、直感的には優に5倍以上の開きがある。だから仕事の引き合いがあった時、 真っ先にするのは上に書いたような視点から原文を眺めることである。
「どれくらいの期間で訳了できるか」にこだわるのは、納期を守るためだけでなく、自分を守るためでもある。身体が資本だから、無理をして健康を損なっては 元も子もない。キーボードを叩かないかぎり、あるいはほかの方法で訳稿をつくらないかぎり、訳了には決して近づかないのだから、その作業を途切れさせるわ けにはいかない。このため、睡眠時間を削らずにできるかぎり一定のペースで仕事を進められるよう気をつけているのだ。
 健康管理は、いまのような景気の悪い時期には特に大切だと感じている。フリーランスの場合、どうしても「一度断ると次から仕事が来なくなるのではない か」という思いを抱きがちであるし、景気が悪いと焦りが生じたりもする。ところが幸か不幸か、出版翻訳に関するかぎり仕事の量や労力と収入は比例しない。 だから、自分のためにも、結果的に依頼元に迷惑をかけないためにも、無理をせずマイペースを貫くことを肝に銘じている。
 ところで、仕事の量と収入は比例しないと書いたが、わが家の場合、わたしの仕事量と比例するものがひとつある。食費である。いくら仕事のスケジュールを 綿密に立てたつもりでも、機械ではないから調子のよい日もあれば悪い日もあり、予定よりも少しペースが落ちた分を挽回する必要に迫られることは珍しくな い。そこでしわ寄せが行くのが食事のしたくだ。自分だけなら、忙しい時は残りものでもかまわないのだが、残りものが続くと家族の反乱に遭うから、家の近く で外食となる。外食が重なると、なぜか少し気が引けて「今日はわたしが払うから」などと言ってみたりする。よく考えると、わたしのサイフから出ようが、夫 のサイフから出ようが、家計からお金が出ていくことに違いはないのだが、ちょっとしたキモチの問題である。
 さて、こうして訳了まで数十日、あるいはそれ以上の期間、くる日もくる日もコツコツしているわけだが、几帳面な働き者かというとそうではない。実際、訳 了した時の解放感はひとしおである。「もう『納期に間に合うだろうか』と心配しなくていいんだ」と思うと、ゆっくりお茶を飲んでいるだけでとても幸せな気 分になる。まだ訳者校正や、場合によっては訳者あとがきが控えているとはいえ、ひとまず訳了したという安心感からか、日ごろ睡眠時間を削ることはほとんど ないにもかかわらず寝だめをしてみたりする。たとえるなら、エアロビクスの後に深呼吸やストレッチでクールダウンするようなものだろうか。「休むも相場」 という相場の格言を「休むも仕事」と都合よく言い換えて、ひたすらのんびりするのだ。
だから、コツコツしていない時のわたしは、動物にたとえると日だまりで昼寝をしている猫のつもりである。猫の手が必要な折には声をかけていただければと思 う。
 もっとも、この「吾輩は猫である」説については家族の理解が得られておらず、「猫ではなくゴマフアザラシではないか」と異論が出ている。どうやら、猫は イザという時はとても敏捷だが、わたしには敏捷さはないということらしい。たしかに、食べるのも、話すのも、歩くのも遅いと昔から言われている。それにし ても、ゴマフアザラシは身近な動物ではないため、どういう生態なのかよくわからないのだが、まんがのゴマちゃんキャラクターは好きなので、あのイメージ だったらいいな、と考えるようにしている。
 こんなふうに、キツツキのような日常と猫(アザラシ?)のような日常を繰り返しているうちに月日が流れていく。それがわたしの生活である。
こう書くと、とても変化の少ない仕事だという印象を生むかもしれないが、そうではない。原書に描かれた世界は時代も国や地域もまちまちだから、えてして身 近で起きる出来事とかけ離れている。かなり壮大な世界と日々向き合っているともいえる。波乱万丈なストーリー展開に手に汗握ったり、泣いたり笑ったり、し んみりしたり、ワクワクしたりしているあいだ、心のスクリーンにはさまざまな情景が去来する。原文を読んで情景を心のスクリーンに映し出し、キーボードを 叩くことによってそれを日本語で再現する――これもまた翻訳のひとつの定義かもしれない。毎日とても多くの情報が流れてはうたかたのように消えていくなか では、ひとつの作品ととことん付き合うこんな濃密な読書体験がいっそう愛おしく感じられなくもない。

*    * *

それでは、柄にもなく翻訳の醍醐味について書いたところで、日だまりでの昼寝に戻りたい。

猫の昼寝
 

*ここに記したのはあくまでもわたしというひとりの翻訳者の生態にすぎないため、翻訳家に会った時にキツツキや猫やアザラシを連想しないでいただければ幸 いです。
**アザラシの名誉のために書き添えるなら、アザラシは水の中では敏捷なようです。