辞書とコーパス


辞書について考える

死語の世界


 「辞書のなかにある単語はすべて死語であり、生きていない」と加島祥造はいう。死語が多いのではない。すべて、死語なのである。

 言葉は前後の言葉とつながっているから生きている。辞書に収めるために前後の言葉から切り離したとたん、言葉は死語になる。だから、辞書にある訳語を使うときには、前後関係のなかでその言葉を生かし直さなければならない。加島祥造はそう教えている。

 既存の英和辞典に不満たらたらの立場からいうと、問題はもっと深刻なように思えてならない。つまり、前後関係のなかで生かし直そうにも、生き返ってくれない訳語が多すぎ、古臭い訳語、的外れの訳語、間違った訳語が多すぎるのである。

 そうなる理由は、いくつもの英和辞典を年代順に並べていけば、あらかた想像がつく。英和辞典はたいてい、2種類の種本をもとにつくられているのである。

 第1の種本はいうまでもなく、英英辞典だ。英英辞典にある見出し語をそのまま並べて、下手な訳語をつけると、英和辞典になる。

 では、下手な訳語のネタがどこにあるのかというと、それは第2の種本、既存の英和辞典にある。加島の言葉を借りるなら、既存の英和辞典にある訳語は、すべて、死語なのだが、死語を参考にして(受け売りして)「新しい」辞書ができあがる仕組みになっているのである。

 辞書の編集者というのは、死語の世界をつくりあげて、それにひたりきっている人たちなのではないか。
 

 死語の世界にひたりきっていれば、当然、生きた英語、生きた日本語との接点がなくなる。現実との接点があれば、すぐに訂正されるはずの間違いが、いつまでも維持されていく。「新しい」はずの辞書で、数十年まえの辞書とおなじ誤りが堂々とまかりとおっている。

 こういうと、生意気をいうんじゃないとお叱りを受けそうな気がする。英和辞書の編纂にあたっては、えらい学者の先生が生きた英語の用例を大量に収集しているし、それに、アメリカやイギリスで収集されている用例を使っている。日本人が勝手につくった用例ではなく、ネイティブの実際の用例を集めている。だから、英和辞典の質はどんどん向上している。素人にはわからないだけだ……。

 素人の意見もいわせてもらえれば、だから問題なのだ。たしかに、「新しい」辞書には、新しい用例がある。生きた英語からとった用例がある。前後関係を切り離されているという意味では、死語になっているわけだが、それでも、水のなかに入れてやればすぐに生き返るミジンコのように、生命力が残っているものが多い。しかし問題はそこにはない。問題は日本語の方にあるのだ。

 生きた英語の用例を集めてあると自慢する先生方は、肝心なことがわかっておられないようだ。和英辞典なら、英語を書くのが目的だから、生きた英語の用例が大切だ。しかし、英和辞典は英語を読みとくためのものなので、大切なのは生きた日本語なのだ。前後関係のなかにおいてやれば、すぐに生命力をとりもどす日本語である。辞書を引いたものの想像力を刺激するいきいきした日本語である。いくら生きた英語の用例を集めても、それに死んだ日本語で訳をつけていては、なんの意味もない。
 

デット・テスト

 書店で「新しい」英和辞典が目につくと、いつも、ひょっとして……と思い、一語か二語を引いてみる。そういうときに引く言葉のひとつが、debtである。だから、これをデット・テストと呼ぶ。いまのところ、デット・テストに合格した英和辞典は見当たらない。

 この言葉はだれでもしっているように、「借金、負債、債務」を意味する(と英和辞典には書いてある)。

 しかし、これもだれでもしっているように、bad debtというのは、「不良債権」であって「不良債務」ではないし、debt investorは「債券投資家」だ。

 それに、debtと対になる言葉はequityである。借金と対になる言葉は貸金(loan)だし、負債と対になるのは資産(assets)だろうし、債務と対になるのは債権(claim, credit, receivablesなど)である。英和辞典にある訳語からは浮かんでこないが、debtと対になる言葉がequityであることは、だれでもしっている常識である。

 要するに、「生きた」英語に接しているものならだれでも、「debt=借金」とは考えていないはずなのだ。話のなかや、読んでいる文章でこの言葉にぶつかったとき、場面によって自然に、「債務」か「債権」のどちらかの類語に置き換えて理解しているはずだ。

 そう、場面によって自然に、「債務」か「債権」のどちらかに置き換えられる言葉、それがdebtである。もちろん、debtに近い言葉に、debitとかdebtorとかがあることからわかるように、「債務」になるケースの方が多い。しかし、「生きた」英語では、debtは「債務」にも「債権」にもなる。

 なんで反対の意味になるのかと、不思議に思うかもしれない。しかし、「債務」と「債権」が反対の意味になっているのは、この2つの言葉に共通点があるからだ。その共通部分を表す言葉は日本語にはないが、英語の場合にはdebtがそうなのである。

 「債務」とは、カネを借りている側からそのカネをみたときの言葉、「債権」とは、おなじカネを、貸している側からみたときの言葉である。そして、debtは、借りている側からみれば「債務」になり、貸している側からみれば「債権」になるカネのことを示している。

 繰り返しになるが、以上の点は、実は、生きた英語に接しているひとなら、だれでもしっていることなのだ。それほど常識的なことである。しかし、しっていることをすべて表現できるとはかぎらないのが人間だ。たとえば、bad debtという言葉が入っている文章を読んで、苦もなく「不良債権」のことだとわかっても、debtという言葉をひとつだけ取り出されて、意味を聞かれたら、「借金」とか「債務」とか答えるひとがほとんどだろう。

 なぜ、そう答えるのか。それは、一語だけ切り離された瞬間に、言葉が生命を失うからだ。生命を失った言葉を示されると、そのとたんに、辞書の編集者がつくりあげた死語の世界に迷い込む。生きた知識を忘れてしまうのだ。

 そして、ランダムハウスから経済・金融英和用語辞典まで、いくつもの辞書をみればわかるように、死語の世界では、debtは「借金、負債、債務」と訳すことになっている。「債権」や「債券」とは訳さない。これが死語の世界の常識である。
 

死語の世界の呪縛

 英和辞典のなかにある訳語はすべて死語であり、生きていないとしても、せめて、完全に生命力を失った訳語、間違った訳語、不適切な訳語をなくして、前後関係のなかにおけば、すぐに生命力をとりもどす訳語にしてほしいと思う。

 訳語が不適切なために被害を被る人たちがいる。ひとつはいうまでもなく、初心者である。生きた英語のなかから意味をくみとることはまだできないので、英和辞典に頼るしかない。そこに完全に生命力を失った死語しかならんでいないとなると、学習が非効率になる。

 もうひとつ、これは意外に思われるかもしれないが、被害を受けるグループがある。それは、翻訳者である。

 翻訳者なら、生きた英語を大量に吸収しているはずだから、被害を受けるわけがないと思われるかもしれない。しかし、翻訳という作業は、読むとか聞くとかの作業とはまったく違う。

 英文を読んでいるときには、英語という世界のなかで、意味をつかめていればいい。しかし、翻訳するとなるとそうはいかない。翻訳するにあたっては、英語の世界と日本語の世界の間をたえず往復する必要がある。そこで、原文を単語レベルにまで分解し、意味を考え、もう一度原文を組み立てなおして、文の意味を確定していくことが多い。単語レベルで意味を考えようとすると、どうしても辞書を引く機会が多くなる。読んでいるだけなら辞書に頼らない単語でも、翻訳のときには、たんねんに引いていく。

 たんねんに辞書を引かないようでは、まともな翻訳はできない。ところが、英和辞典を引いていると、死語の世界に引きずり込まれてしまうことが少なくない。

 たとえば、debtに「債務」と「債権」の両方の意味があるのは常識だといったが、実のところ、熟練した翻訳者でも、「債権」と訳すべきところに「債務」という訳語をあててしまったりする。

 なぜ、そうなるのか。辞書を引いたからだ。

 辞書を引いて訳語をみたとたんに、生きた英語、生きた日本語の常識をすっかり忘れてしまい、辞書編集者がつくりあげた架空の世界、死語の世界に引きずり込まれる。日本語もどきの訳語もどきを見せられるから、日本語の感覚も英語の感覚も狂ってしまう。

 翻訳は、英語の世界と日本語の世界の2つの世界があることだけで十分に複雑なのに、この2つの世界をつなぐ手助けをしてくれるはずの辞書が、死語の世界を持ち込んでくる。英語の世界から日本語の世界にワープしたつもりになっていたら、実は死語の世界に迷い込んでいたということになる。だから、辞書はこわい。

 ランダムハウスとかリーダーズとかは、なまじ権威があるだけに、ますますこわい。たとえば、ランダムハウスを引いて、「a good[a bad] debt 返済可能[不可能]な負債」という記述にぶつかったとき、わっはっはと笑えるだろうか。ランダムハウスには、「債権」という言葉は訳語にも用例にもまったくでていないが、この言葉を翻訳のなかで使えるだろうか。安全第一と考えて、「権威ある」辞書にでている訳語を使ってしまわないだろうか。

ゼロから英和辞典をつくる

 いくつもの出版社が競って英和辞典をつくっているのだから、既存の辞書を種本にするという安易な方法から脱却して、ゼロから新しい辞書をつくる試みが、ひとつぐらいはあってもよさそうなものだと思う。

 資金力がある出版社や、権威があり、暇があり、必要があればカネをどこからか引き出せるえらい先生がたには、そんな無謀なことは期待できないように思える。そこで、乃公出でずんば……というほど気負ってもいないが、新しい英和辞典の準備を始めている。

 あと2〜3年したら、『英和辞書にない訳語の辞典(仮称)』という小さな辞書ができるだろう。それから7〜8年で、『用例本位英和中辞典』(これも仮称)が完成するはずと思っている。

 乞うご期待。眉につばを付けるのを忘れないように。
 
『翻訳通信』第1期1995年6月号より

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