土屋政雄訳『日の名残り』
土屋政雄は『イギリス人の患者』(新潮社)の訳者後書きにこう書いている。
……翻訳がすすみ、作品の世界がしだいに日本語で形をととのえてくると、自分がいま翻訳しているのか創作しているのか、ときどきわからなくなることがある。いや、原作は目の前にあるし、私がそれを翻訳していることは間違いようのないことだから、この言い方は正確ではない。なんというか、これはもともと自分の作品ではなかったか、という気がしてくるのである。自分がいずれ日本語で書くべき作品だったのに、作者に先をこされた、という感じだろうか。……
読者を感動させる名訳がどのようにして生まれるのか、その条件のひとつを土屋政雄は見事に表現しているように思える。こう感じるとき、訳者は訳しているのではない。執筆しているのである。執筆がたまたま、翻訳の形態をとっているにすぎない。
念のために記しておくなら、もちろん、これが唯一の条件だというわけではない。『イギリス人の患者』は文句なしの名訳だが、これを訳しているとき、「まったくそういう感じがしなかった」と土屋政雄は書いているのだから。たぶん、もうひとつの条件として、原著者に対する無条件の敬意、原著の意味、内容、感情、主張などを読者に伝えたいという熱望があるのだろう。
カズオ・イシグロ著『日の名残り』(ハヤカワ文庫)では、土屋政雄はまさに「これはもともと自分の作品ではなかったか」と感じていたのだろう。乗り移ったような訳文で読者に訴えかけている。一人称で書かれた小説なので、乗り移る先が二重になっている。原著者になりきったうえで、さらに主人公である老執事になりきっているのだ。たとえば、「一日目−夜」の章に以下の文がある。
たしかに、執事の大半は、いろいろやってみても、結局、自分は駄目だったと悟らざるをえないのかもしれません。が、それはそれとして、生涯をかけて品格を追求することは、決して無意味だとは思われません。すでにそれをもっている偉大な執事、たとえばミスター・マーシャルにしても、長年にわたる自己啓発と経験の積み重ねで、それを身につけていったに違いないのです。ミスター・グレアムのような態度をとることは、職業的観点からしてあまりに敗北主義ではありますまいか。.... Now while I would accept that the majority of butlers may well discover ultimately that they do not have the capacity for it, I believe strongly that this 'dignity' is something one can meaningfully strive for throughout one's career. Those 'great' butlers like Mr Marsall who have it, I am sure, acquired it over many years of self-training and the careful absorbing of experience. In my view, then, it was rather defeatist from a vocational standpoint to adopt a stance like Mr Graham's. (Kazuo Ishiguro, The Remains of the Day, Vintage International, p. 33)
勝手な想像ではあるが、ここで土屋政雄は執事の人生に翻訳家としてのみずからの人生を重ね合わせているのではないだろうか。執事は地味な仕事だ。表に出ないのが執事。目立たないように舞台裏を整えるのが仕事だ。その執事が「生涯をかけて」偉大さを追求しているとは、たぶん、ほとんどだれも考えていない。そして翻訳も地味な仕事だ。裏方の仕事である。
試みに、引用文の「執事」を「翻訳家」に置き換えてみるといい。「ミスター・マーシャル」は、各人が尊敬する翻訳家に置き換えてみる。そう読むと、土屋政雄が「自分がいずれ日本語で書くべき作品だった」と感じていたことを実感できるかもしれない。名訳はひとつにはこのような共感から生まれるのだ。