翻訳批評
小尾芙佐訳ダニエル・キース著『アルジャーノンに花束を』
自分の知能指数(IQ)を覚えている人がはたしてどれだけいるだろうか。周囲の人たちに聞いてみたが、だれも知らない。IQのテストを受けた記憶すらない人が大部分だ。ただしこれは日本での話で、どうやらアメリカ人は違うようだ。日本人が血液型にこだわるのと同じぐらいに、いやそれ以上に知能指数にこだわる。子供のころに受けたテストのほのかな記憶に頼っていうなら、あんなもので知能がわかると考えるのは、血液型で性格がわかると考えるのと変わらないほどお笑い種ではないだろうか。
それはともかく、アメリカ人が書いたものには知能指数の話がよくでてくる。そのなかで、翻訳という観点で飛びきり面白いのが、ダニエル・キース著『アルジャーノンに花束を』だろう。知能指数が70以下の主人公、チャーリーが手術を受けて短期間に天才になり、そして短期間にもとに戻るSF物語だ。この物語を、主人公の「経過報告」の形で描いている。
翻訳という観点でこれが飛びきり面白いのは、主人公が使う言葉が変わっていくからだ。たとえば手術前の冒頭部分はこうなっている。
progris riport 1 martch 3
Dr Strauss says I shoud rite down what I think and remembir and every thing that happins to me from now on.けえかほおこく1 ? 3がつ3日
ストラウスはかせわぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼくのまわりでおこたことわぜんぶかいておきなさいといった。
スペル・チェッカーが悲鳴をあげそうな文章、幼稚な文章と思えるが、原文をよく読むと間違いだらけというわけではない。ただ、耳で聞いた通り、話す通りに書かれた文章だ。そして、訳文はまさにそうなっている。耳で聞いた通りに、話す通りに、大部分を仮名で表記し、ごく少数の漢字をまぜる。
これを出発点に、主人公が手術を受け、知能指数が飛躍し、学習を進めるとともに、文章は正確になり、複雑になり、語彙が増え、やがて、学者風の話し方や書き方をするようになる。訳文もその過程を忠実に再現する。読点などの符号を使うようになり、漢字が増え、語彙が増え、やがて学者風の文章になる。
たとえば「経過報告13」の6月10日の項に、翻訳という観点から二重に面白い挿話がある。訳文をあげておこう。
「ヒンズー語も日本語も読めない? そんな、まさか」手術を受けてわずか3か月のチャーリーは翻訳の役割を知らない。教授がヒンズー語も日本語もロシア語も中国語も古代東洋語も読めないことを知り、肝をつぶす。チャーリーにはまだまだ学ぶことがあったのだ。
「チャーリー、きみのような語学的才能をだれもがそなえているわけじゃないんだ」
「じゃあ、この方法に関するラハジャマティの反論や、この種のコントロールの妥当性に対するタニダの挑戦を、彼はどうやって論駁できるんですか? 彼はそれらについて知っているはず----」
「いいや……」とストラウスは考え込むように言った。「その論文は最近のものだろう。翻訳させるひまがなかったんだ」
だが、学ぶ時間はあまりなかった。知能が急速にもとに戻っていく。最後の「十一がつ21日」の項はこう終わる。
P.S. please if you get a chanse put some flowrs on Algernons grave in the bak yard.ついしん。どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。
翻訳は面白い。小尾芙佐訳の『アルジャーノンに花束を』を読むと、そう実感できるだろう。そのうえ、知能とは何か、学ぶとはどういうことなのかを考えさせてくれる物語でもある。この本が長年にわたって版を重ねているのは偶然ではない。
準備第2号(2002年7月)より