名訳
須藤朱美
土屋
政雄訳『アンジェラの灰』
状況はもどかしいくらい破滅へと向かっているのに、底なしのユーモアにあふれた本。しかもこれがフィクションではなく自伝というのだから驚き
です。フランク・マコート作『アンジェラの灰』は大きな時代のうねりの中でゆらゆらと揺られながら懸命に生きる著者の子供時代を描いた作品です。カトリッ
ク対プロテスタントの反目、ヨーロッパの貧困、乾くことを知らないアイルランドの湿気。どれも地理や歴史の時間に教わるような事柄ですが、日本で暮らすわ
たしたちがとうてい肌では感じえない、極西アイルランドの実態を本書は伝えている気がします。
マコートの文章は簡潔で、心地よいリズム感があります。文は人なりという言葉が真実であるのなら、著者はきっと会話上手で気取りのない人物なのだろうと思
えます。ケルト民族の持つ軽快さが文章に影響し、ひとつの文体として昇華されたような印象を抱かせます。逆境の連続する切ない子供時代を綴った物語であり
ながら文体があっけらかんとしている、この特徴が本書のユーモアを支える柱となっています。切ない内容とユーモアにあふれた文体の同席、おそらくこの新鮮
さが読む者の心を揺さぶり、世界中の人々に新鮮な感動を呼んだのでしょう。
『アンジェラの灰』の面白さのひとつは内容と文体の合わさったところで生まれる効果にあると言えます。どちらが欠けてもこの本の魅力は限りなく奪われてし
まいます。そういった本ほど、翻訳の難しいものはありません。内容はともかくとして、文体をまったく同一なものにすることはひじょうに困難だからです。
またユーモアを訳すのは至難の業です。笑いを誘う文句というのはその言語の持つ文化背景を含んでおり、知識の終結だと学生時代にK教授から教わりました。
教授いわく、ペーパーバックを読んでいて涙を流せる日が来たら英文を読めるようになったと思っていい、声を出して笑えるようになったら君たちの細胞に英語
のDNAが宿ったと思っていい。
その例として教授は映画館でぱらぱらといる外国人の笑い声が聞こえるのに、観客の大多数を占める日本人がしらけているという場に居合わせたことはないかと
尋ねました。そう言われてわたしはアメリカのコメディ映画を観るときたまに起こる、あの妙に気まずい感じを思い出しました。イヤホンガイドを付けて、ロイ
ヤル・シェイクスピア・カンパニーの来日公演を観ていても、笑いどころではやはり笑えないといったことが少なくありません。外国人の豪快な笑い声を尻目に
自分の知性の欠如を実感しつつ、少しだけ観劇料を損した気分になります。だからこそ『アンジェラの灰』の日本語訳を原書の後に読む場合は、ある程度の失望
は免れないだろうという気がしていたのでした。
ところが名翻訳家、土屋政雄氏の手にかかるとこれまでの懸念はどこ吹く風。リムリックの街並みと少年たちの姿が鮮やかに眼前へ広がります。例を挙げてそ
の手腕を拝見しましょう。
The master says it’s
a glorious thing to die for the Faith and Dad says it’s a glorious
thing to die for Ireland and I wonder if there’s anyone in the world
who would like us to live. (原文ペーパーバック版p113)
信仰のために死ぬことは名誉だと先生がいい、アイルランドのために死ぬことは名誉だとパパがいう。なんだかぼくたちは生きてちゃいけないみたいな気がす
る。 (フランク・マコート著 土屋政雄訳『アンジェラの灰』新潮文庫 上巻p220)
土屋訳『アンジェラの灰』は前から素直に原文を追いかけて訳していることにより、原文の持つリズム感の消滅が最小限に止められています。ひとつめの
<並列のand>が結ぶ文においては、強調されているthe
masterとDadを後ろに移動させているものの、原文と見比べても一目瞭然の素直な訳文です。ところが次の<順接のand>以降、ユーモ
ラスで可愛らしいフランクの素朴な疑問は、視点をぐるりと変えて、原文とは異なる角度から描写されています。
この部分を素直に原著と同じ視点で訳すと、「それで僕は、世の中には僕たちに生きてほしいと思う人など果たして存在するのだろうかと疑わしく思うので
す」という具合になります。存在を表す<形式的表現there
is/are>、<代名詞anyone>、<関係代名詞who>といった、英語学習の初歩で教わる頻出表現が並んでいま
す。原文の読者にとってはすらすら読み進めていくことのできる文章です。さらりとした言いまわしゆえに、大人の理屈にはさまれた少年の納得のいかなさが苦
笑を誘います。しかしこの部分を前半と同じように素直に原著と同じ視点から訳していくと非常に冗漫で長たらしい文章になってしまい、「ハイ、ここは笑うと
ころですよ」とでも言うような、読者を馬鹿にしたような訳文ができあがります。また、日本語に馴染まない表現を無理やり力ずくで訳すと、少年の純真さまで
失われて、妙に小賢しい子供であるかのような訳文になってしまいます。こういうところに翻訳の難しさがあります。
土屋訳を原著とつき合わせると、前半とは異なる取り組み方でこの部分を訳出していることがわかります。しかしこう書いていなければ、日本の読者に対して
原文と同じ種類の笑いを喚起できないだろうと思える、等価の文章になっているのです。
次の例を見ていきましょう。
I know I don’t have to tell Mam
anything, that soon when the pubs close he’ll be home singing and
offering us a penny to die for Ireland and it will be different now
because it’s bad enough to drink the dole or the wages but a man that
drinks the money for a new baby is gone beyond the beyond as my mother
would say. (p186)
僕はママに何もいわない。いわなくても、ママにはわかる。やがてパブが閉まればパパは歌いながら帰ってくる。アイルランドのために死ぬと約束すれば、ペ
ニーをやるというだろう。でも、もういままでとは違う。失業手当や給料を飲んでしまうのも悪いけど、生まれたばかりの赤ちゃんのお金を飲んでしまうパパ
は、ママのいうとおり越えてはならないところを越えた。(上巻p375)
ここは七章の最終パラグラフであり、訳書上巻最後の文章です。このしっとりとした余韻は読者の神経をきゅっと絞るようなやりきれなさがあります。こんな
ふうに原文が情感に訴えるメランコリーな文章で綴られていると、土屋氏の訳文はそれまでのリズム重視の軽快な文体をぱさりと脱ぎ捨て、日本人の心に共鳴す
るたおやかな文体を露わにします。必然的に原著者とは視点が変わります。しかしこうしないと心に響く訳文にはどうやってもなりえないのです。
まず頭のI knowは消えています。続くI don’t have to tell Mam anythingのhave
toやanythingも表に文字としては表現されていません。「〜する必要のない」という紋切り型に訳されがちな<not have to
do>は「いわなくても、ママにはわかる」と表現され、大人顔負けに凛としたフランクの人物像がくっきりと浮かび上がります。またthat以下が独
立した次の文章になっているので、冗漫さをまったく感じさせません。この部分は頭で読むのではなく、目から入った文字をそのまま心臓で受け止めてくれとい
う訳者の想いが伝わってくるような気がします。もちろん原文も同じです。英語特有の言いまわしで難しい言い方はしていません。しかしそれを、ただ素直に日
本語へ訳したのではまわりくどくなります。そこで土屋訳では著者の思いを著者の視点で語るのではなく、日本語の観点に立って最もその想いが伝わる言葉で書
き表しています。
土屋訳は基本的には前から弾むように原書に沿って訳されています。それがリズム感と軽快さを生み、重苦しいテーマの苦々しさを払拭しつつ、原書の雰囲気を
存分に伝えています。ところがここぞと物語が読者の感情に訴えかける部分になると、理知的で控えめな姿勢を貫く訳者の仮面がはがれ、ぐっと日本語に引き寄
せた情熱的な文体に変化します。原文の言葉尻に振り回されて一貫性を失った文体の揺れではありません。原著者の文体を知り尽くしたうえで、あえて訳文の料
理の仕方を変えているのです。すると素材の味が存分に引き出されることになり、土屋訳『アンジェラの灰』の日本人読者はアイルランドの空気に包まれなが
ら、強く内に湧き起こる切ない気持ちで、胸の熱くなる体験をします。
土屋氏は前回ご紹介した『日の名残り』の訳者です。大英帝国を舞台にした気品あふれる文章への取り組み方とはまったく異なる訳出、文体で『アンジェラの
灰』は訳されています。翻訳者に必要なのは英語の読解力と日本語の筆力だとはよくいわれることです。しかし今回、土屋氏の2作品を熟読するにあたり、鋭い
鑑賞眼と豊かな感受性なくしては原著の面白さを伝える一流の翻訳者たりえないのではないかと思えてきました。いくつもの文体を縦横無尽に操るには読み、書
くという作業の間に「感じる」という手順を踏まなくてはならないのです。それをさらりとやってのける日本屈指の翻訳者だと、わたしは土屋氏を尊敬してやみ
ません。