古典新訳批評
今野哲男
安西 徹雄訳『リア王』/その演劇的な世界観
 
演劇と日常
 上演される演劇には、いわゆる「地の文」がない。つまり、描写と説明がない。上演台本になる戯曲には「ト書き」というものがあるけれど、これは、「アレ グロ」や「アンダンテ」といった音楽の世界でいう速度標語のようなもので、観客の立場からみれば、上演者(演奏者)に向けて書かれた、見えない但し書きで しかない。だから、演劇を観る観客は、役者がやり取りする台詞と、彼ら(彼女たち)が行う舞台上の様々な振舞いを通して、その作品世界に加わるほかに道が ない。そして、それしか参加方法がないところに、演劇がもつ、もっとも演劇的な力が潜んでいる。
 演劇の、ある意味で極めてシンプルなこの特色は、私たちが生活世界で日々経験している困難と、実はほとんど同じ構造をもっている。自分がこういえば相手 がどうするかとか、自分がああすれば相手はどういうかとか、日々の生活に劇的なスリルが生じるのは、コミュニケーションの場に、ディスコミュニケーション の可能性と、それに対する怖れが顔を出すときだが、その意味で、役者たちの所作以外に何ら見通しがないところで出発し、それを飛び越えたところに感興を見 出す演劇の世界は、表向きの内容や体裁がリアリスティックなものかどうかということにはかかわりなく、現実世界と異なる時空間に生じた、もう一つの現実だ といって差し支えない。そして、演劇と現実とのこの関係は、役者同士のやり取りが、劇的世界の成立に失敗した場合でさえも現実であることを免れないとい う、演劇独特の残酷な宿命によって、ますます補強されていくことになるのだ。
 従って、演劇翻訳の成否は、最終的に役者の肉体で表現されるしかない現実的なコミュニケーションを、台詞(ことば)の面で、予めどう構成していくかとい う点にかかっているといってよい。つまり、戯曲の翻訳は、ディスコミュニケーションの荒野でコミュニケーションを実現するという、極めて逆説的なメタ・コ ミュニケーションの世界を、時代に応じた台詞の連鎖のなかでどう実現していくかという、演劇本来の根源的な問題意識と、密接にかかわっていなければならな いのである。

戯曲のことば
 光文社古典新訳文庫の安西徹雄訳『リア王』の顕著な特長は、シェイクスピア研究者である訳者の安西氏が、机上の研究にとどまらず、「演劇集団<円>」の 演出家として演劇表現の限界と可能性を追い求め、数々の上演現場の困難を直視してきた経験を通じて、演劇本来の上演者と観客をつなぐメタ・テキスト的な世 界を看過せずに、その機微を過不足なく訳文に反映した点にあると思う。安西氏の訳文が、古典翻訳にありがちなスタティックな説明臭を免れていることはもち ろんだが、従来訳にあったような過剰な文学性や見当違いのアカデミックな匂い、そして必要以上に日常的であったりする難を逃れ、おそらく原作世界そのもの にある、古典的な悪意に満ちた、極めて骨太な人間観の再構築に成功しているのも、個々の台詞の連鎖に現れた人間的なやり取りの動的な現実感覚を、一呼吸一 アクセントに至るまでないがしろにしなかったことに起因しているのだと思う。
 たとえば、小説には心理描写や説明がある。これに対し、演劇にはこれに拮抗するさしたる要素がない。ナレーションや独白や経緯を語る台詞という変則的な 形で出現することはままあるにしても、演劇にとって大切なのは、何よりもまず、舞台上で生成する現実のアクションである。発話はそのアクションのもっとも 大事な構成要素の一つだから、台詞には、その意味で、実際の発話にあるはずの、他に働きかけるリアリティが欠かせない(そうでなければ訳者は演技者として 舞台の上で生きることができないし、観客も、生きた現実として舞台に参加することができない)。一方が話しかけ、他方がこれに反応する。煩瑣な説明を拒む そのやり取りのなかに、果たして現実のアクションと呼ぶに値する動的な力を付与できるかどうか。レトリカルな表現が頻出する古典戯曲においても、翻訳者に とっては、それが翻訳の成否を握る、何よりも大事な課題になるはずなのだ。
 安西訳が、種々の先行訳に比して圧倒的に優れていると思えるのも、実はこの点である。つまり、台詞が一つも説明に堕していない。異なる肉体と精神をもつ 複数の役者たちが、フィクションの次元と現実の次元が錯綜し、同時に容赦なく時間が経過していく舞台の上で、アクションとして発語できる台詞とはどんなも のか。氏が、翻訳にあたってもっとも心を砕いたのはおそらくその点だったと思うし、その試みは、とりあえず見事な成果を見せたといっていいのではなかろう か。