名訳
須藤朱美
池 央耿訳『小説作法』
やや強引な考え方ですが、名訳には大きく分けるとふた通りあるように思います。ひとつは原著者が日本語で書くならこうなるだろうという翻
訳。そしてもうひとつは原著の読み手と同じイメージを日本人読者にも喚起させる翻訳。前者は原著者の筆のテンポや息継ぎの感覚を素直に反映させた、比較
的、直訳に近い訳文です。一方、後者は訳者の解釈したイメージを日本語に焼き直した、どちらかというと意訳的な訳文です。
巷にあふれる凡訳ならば直訳だ、意訳だで片付けても構わないでしょうが、優れた翻訳を直訳、意訳の一言で切り捨ててしまうのはあまりに舌足らずな気がし
ます。機械翻訳のように横の物を縦にしただけの直訳や、英文読解でつまずいて辻褄合せの文章を並べただけの意訳とは、歴然とした差があるからです。
名訳と凡訳との違いは、文体を使い分ける訳者の力量に拠るところが少なくありません。あきらかな傾向として、名翻訳家は上に挙げたふた通りの文体はもち
ろん、それらを踏まえた複数の文体を使いこなしています。そのため既訳書を見るといつも文体が同じということがありません。反対に凡訳者の仕事は筆遣いに
広がりがなく、文体に変化はみられません。
わたしは翻訳を純粋な創作活動ではないと考えています。それは翻訳者が文筆業のなかでもきわめて編集的観念でものを見ざるを得ない職業だと思っているか
らです。内容は既に目の前に用意されています。課された役割は内容を創造することではありません。原文で内容を理解し、誰に読んでもらうか、どう読んでも
らうかを原著者の立場で考えつつ、日本人の視点で文章を組み立てる技が翻訳者に求められているからです。
ひと通り見まわしてみたところ、優れた職業翻訳家は複数の文体を意図的に使い分けているように感じます。たとえば同じ原著者の同じテイストの作品だけを
永遠に訳しつづけるのであれば、もしかしたら文体はひとつきりで困らないのかもしれませんが、翻訳を生業とするからには、そういった状況はあまりに非現実
的です。たとえ作家や専門分野を狭め、作品を選んで仕事をする状況にあったとしても、日本での読者対象や内容の情報価値を考えた場合、翻訳はいつも同じ文
体で訳してさえいればよいというものではない気がするのです。
文体に限って言えば、作家はひとつ使いこなせれば成立しうる職業です。しかし訳者は現状からいって、また職業的専門性からいって、複数の文体を体得する
必要があります。優れた翻訳を職業として継続するには、自分の体得している文体の中から原著の持ち味をもっとも活かす文体を引っ張り出してこなくてはなり
ません。職業としての翻訳の難しさはこういうところにあります。
今回ご紹介するのはスティーヴン・キング著、池央耿訳の『小説作法』です。いわゆる普通の「文章読本」とは異なり、キングらしい読み物としての娯楽性に
富んだ指南書です。前半は「生い立ち」の章で著者の半生がユーモラスに綴られ、後半部ではキングの小説創作法が「文章とは何か」、「道具箱」、「小説作
法」という章立てで包み隠さず語られています。著者初のノンフィクションということもあり、前評判も実売も上々。ところが不思議なことにアマゾンなどで公
開される一般読者のレビューでは、翻訳に関してだけ辛口な評価を受けています。
しかしながら、この作品における池氏の翻訳は間違いなく抜群です。『小説作法』の面白さは池氏の翻訳と文体選びによって届けられるべき日本の読者に認知
されたと断言して憚りません。それは翻訳者としての文体選びがこれ以上ないほど作品の魅力とメッセージを引き出しているからです。
読者のレビューでは前半の自伝の部分は面白いが後半の文章指南についての評判がよろしくありません。「言いまわしが古くて読みにくい。キングの文体に合
わない」、「難解な漢字が多用され、ルビも振られていない。訳者と編集者の神経を疑う」、「無駄に難解な言葉が氾濫している」という批判が寄せられていま
す。ポジティブであれ、ネガティブであれ、仕事に反応が返ってくるというのはありがたいことですが、批判的な意見が多ければ、やはりどこか萎縮するのが人
の常でしょう。けれど池訳『小説作法』を読むたびに感じるのですが、池氏はこの反応を予測し、またどこか期待していたのではと思えてならないのです。
前置きが長くなりましたが、例を見ていきたいと思います。まずは自伝と文章術の部分をひとつずつ引用します。
【「生い立ち」より抜粋】
This is how it was for me,
that’s all―a disjointed growth process in which ambition, desire, luck,
and a little talent all played a part. Don’t bother trying to
read between the lines, and don’t look for a through-line.
(原文ペーパーバック版p4)
この本は、だから、私の場合はこうだったというだけの話である。野心、願望、運、それに、いくつかの素質が重なり合ったとりとめもない成長の記録でしか
ない。行間を読もうなどと思う必要はないし、一貫した筋と言うほどのものもない。(スティーヴン・キング著 池央耿訳『小説作法』アーティストハウス刊
p14)
【「文章とは何か」より抜粋】
What Writing Is
Telepathy, of course. It’s amusing when you stop to
think about it―for years people have argued about whether or not such a
thing exists, ....All the art depend upon telepathy to some degree, but
I believe that writing offers the purest distillation. Perhaps
I’m prejudiced, but even if I am we may as well stick with writing,
since it’s what we came here to think and talk about. (p95)
文章とは何か
もちろん、テレパシーである。考えてみれば、おかしなものだ。果たしてテレパシーなどというものが実存するか否か、古来、議論が喧しい。(中略)あらゆ
る分野の芸術がいくぶんかはテレパシーに依存しているが、なかんずく、文学はそのもっとも忠実な鏡映だと思う。これは私の偏見かもしれないが、だとして
も、ここでは話題を文学に限った方がいい。文学を考え、文章を論ずることが本書の主眼である。(117p)
前半、後半の翻訳を比較してまず目に留まるのは、鮮やかなまでの文体のコントラストです。原文にさほど変化はみられませんが、訳文ではあきらかに文体の
緊張感が違います。また語彙の難度にも圧倒的な差があります。言葉を発する視点においても、前半の訳文が読者と同じ目線での語り口になっているのに対し、
後半は読者に対面して演説しているような口調になっています。なぜ池氏は、一冊の本のなかで劇的なまでに文体を変えたのでしょうか。
まず「生い立ち」の章でキングは「一介の物書きが来し方を振り返っているだけで、作家への道を説くつもりは毛頭ない。人はみな多かれ少なかれ作家の素質を
具えている」と言い、すべての人に対して開かれた内容であることを示唆しています。ところが「文章とは何か」以下の章に対しては「甘口の話をするつもりは
ない。ものを書く動機は何でも構わないが、軽い気持で書くことだけは止めてもらいたい。いやしくも、ことは文章である。これを真面目に受け取る読者とは話
ができる。しかしそうではなく、またその気もない向きはこの先を読んでも無駄だから、本を閉じた方がいい」と警告めいた発言をしています。キングが読者に
要求するハードルをぐんと上げた瞬間です。引き返すくらいなら、今すぐ立ち去れ。時間の無駄だ。互いのためにならない。この部分に差しかかると、読んでい
てそうキングに言われているような気がします。まるで銃口を突きつけられながら、決意は確かかと凄まれているような気さえするのです。ノンフィクションで
ありながら、読み手は小説の端役でも担ったかのようなスリリングな展開に立ち会うのです。
「文章とは何か」の章以降、著者は赤裸々に創作法を明かしています。半生を綴った前半も包み隠さず書かれてはいますが、後半部分の明け透け感
とは比になりません。キングが相当の覚悟を決めて読者に対峙しているのが伝わってくる文章です。想像の域を脱しないのですが、おそらく池氏は翻訳するにあ
たり、キングの真剣味を確かな読者にだけ伝えたいと考えたのではないでしょうか。
書籍は誰にとっても平等に手にとることのできるメディアですが、活字は必ずしも平等に情報を伝えはしません。過去の時代を振り返ってもその事実は明確で
す。戦前、戦中の検閲の厳しい時代にお上の目を逃れておのが思想を万人に伝播しようと、作家たちが試みた歴史があります。有名なものでは漱石の『我輩は猫
である』がそうです。帝国大学の教授であった人間が権威に対して痛烈な批判をする、これは一大事です。社会が根底から揺さぶられかねません。しかしなが
ら、「なに、猫の話ですよ。お伽話の一種です。目くじら立てることじゃありませんよ」と言ってしまえばそれまでです。お上だって「まあ、確かに」と認めざ
るを得ませんし、読者だってお伽話だと思って読んでいる者には言葉の裏に隠れたメッセージをキャッチできないでしょう。それでも薄ぼんやりと猫の批判と同
じ思いを抱いていた人々にとっては、漱石の権威に対する警鐘が伝わるのです。
届ける対象を書き手が活字ひとつで選別する、池氏はおそらく翻訳でこういったことを試みたのではないでしょうか。そのために文体の亀裂による効果を利用
して、単純なページターニングのみを期待する読者を一蹴しているのです。意図していなければ、どんなにまずい訳者であろうともここまで不用意に文体が移行
することはありません。
池氏の解釈には前後半ともに、日本語に焼き直したいわゆる意訳的な傾向がありつつも、一方では語順をさほどいじらずにキングの言葉運びを忠実に再現する
直訳的な要素が盛り込まれています。直訳調、意訳調の長所と短所を熟知した上で両者の要素を配合し、目の前の原著を消化するのに最適な処方箋を編み出して
います。池氏の翻訳は前半後半ともに、その処方箋からぶれることがありません。しかし語彙や視点を調整することで文体に劇的な変化を起こしています。ある
一定の制約の中で最大の差異を感じさせる文体。対象読者を選り分ける効果を狙う池氏の翻訳は、キングの原著に引けを取らないトリックに満ちています。
では、もうひとつ例を挙げて池氏の訳文を詳しく見ていきたいと思います。
Description is what makes
the reader a sensory participant in the story. Good description
is a learned skill, one of the prime reason why you cannot succeed
unless you read a lot and write a lot. It’s not just a question
of how-to, you see; it’s also a question of how much to. Reading
will help you answer how much, and only reams of writing will help you
with the how. You can learn only by doing.
Description begins with visualization of what it is you
want the reader to experience. It ends with your translating what
you see in your mind into words on the page. It’s far from easy.(p171)
描写は、感覚に訴えることで読者を物語の世界に誘い込む手段である。巧みな描写は年季を必要とする。それ故に、よく読み、よく書かなくては、成功はおぼ
つかない。いかに描写するかもさることながら、どこまで描写するか、これがまた問題である。ただどこまでという、程度に関しては日頃からよく読んでいれば
検討がつくが、いかに描写するか、その技巧となると、量を書かなくては勘が掴めない。実地に学ぶしかないのである。
描写は読者に伝えたい情景を思い浮かべることにはじまって、その想像を文字で書き表すことに終る。どうしてなかなか、容易ではない。(p200)
池訳を眺めると、文字通り「思い浮かべた情景を文字で書き表している」ことが分かります。1文目を英文和訳すると「描写とは、読者を物語における感覚的
な参加者たらしめる何かだ」となります。まず気になるのが、先行詞を含む関係代名詞<what
makes+O+C>の訳です。原文が「what/ところの物・事・人」とぼんやりさせている部分をはっきりと「手段」と言い切っています。またwhat
内のmakeを用いた第4文型は池氏の解釈した情景の中で品詞が変わり、見事な日本語に焼き直されています。<one of the prime
reason why... >は関係代名詞the reason
whyに修飾表現が付加されたものですが、ここも恐れることなく「それ故に」の一言で訳しきっています。また< You can learn
only by
doing>という部分も「実地に学ぶしかない」と読者に混じり気のない簡潔なイメージだけを提供しています。そして第2パラグラフの訳文には、ま
さにこの原著に対する池氏の翻訳姿勢の表れであるような、気迫の込められた重みのある文章があてられています。翻訳に携わる人間であれば、この文章を読ん
でため息をもらさずにはいられないでしょう。
池氏の翻訳には原著者の思いを、求めている読者に届けようとする真摯さが詰まっています。だから原著の内容が読者の目に誠実に映るよう、言葉や文体を徹
底的に練磨しているように感じます。また池氏の訳された作品はつねに原著にはない、日本語版としての付加価値があるように思います。必ずしも狙った効果が
実現することはないのかもしれません。それはすべて名翻訳家、池央耿の考えに拠るところであり、こちらの憶測など、ただただ騒がしいガヤに過ぎません。そ
れでも『小説作法』のような艶やか文体を目の前で繰り広げられてしまうと、深読みかしら、憶測かしらと思いながらも池氏の策略をあれこれと考えずにはいら
れないのです。翻訳が芸術たるとすれば、こういったところに、その価値を求むるべきだと思わせてくれる一冊です。
2006年4月号