名訳
 須藤朱美

芝山 幹郎訳『ニードフル・シングス』

 ある方が、こんなことをおっしゃっていました。「洋書を読める人が多くなったこの時代、情報を早く正確に取り入れるには原書を読めばよい。な らば翻訳書を世に出す理由はどこにあるのだろう。こたえは単純で、本を手に取る人に母国語で読みたいという欲求があるからだ。英語を読み、理解することの できる日本人はごまんといる。しかしその文章から一歩踏み出して、味わいながら読むことのできる日本人となるとそう多くはいないだろう」。

そういえばとうなずけるような読書体験が自分にもあったので、お話の意味がなんとなくわかるような気がしました。それから何日か経ったある日、本を読んで いると「わかるような気」がひとつの確信にかわりました。そのとき手にしていた本というのが、芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』です。原文と照らし合わ せて読んだときの衝撃をどう表現したらよいものでしょうか。ここはひとつ、わずらわしい御託をならべるまえに例を挙げて、その衝撃を存分に味わっていただ きましょう。

    She went to bed that Thursday night planning to go over to Nettie Cobb’s first thing Friday morning and Take Care of Things.  Her frequent wrangles sometimes simply faded away, but on those occasions when they came to a head, it was Wilma who picked the duelling ground and chose the weapons.  (原文ペーパーバック版p153)

あの木曜の夜、ウィルマは、翌朝一番にネッティ・コッブの家へ出かけてカタをつける計画を練りながらベッドに入った。ウィルマは、しょっちゅう人と口論を はじめてしまう人間だが、そうしたいさかいは、うやむやのうちに立ち消えになることがめずらしくない。しかし口論が昂じて双方の頭に血がのぼった場合、決 闘の場を指定し、闘いの武器を選ぶのはかならずウィルマのほうだった。 (スティーブン・キング著芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』文春文庫上巻 p284)

 英文和訳のテストならば、ひょっとして×がつくかもしれません。そう思えるほど芝山氏の訳文には原文の文構造がすこしも反映されていないのです。しかし じっくり読んでいくと、むしろ元の文構造を反映する必要などない見事な文章であることに驚き、息をのみます。原文がいわんとするイメージをナイフでざっく り切り取ってきたかのように訳文が再現しているからです。

 一文目は分詞構文を抱えた、しごく簡単な<S+V>の第1文型です。しかしいざ自分で訳してみようとすると、これがなかなか容易ではありません。直訳調 に訳せば、「金曜の朝にまずにネッディ・コッブの家に出向こうと計画しながら、彼女は木曜の夜ベッドに入った」とでもなりましょう。定期試験の回答ならば まずまず及第であるはず。しかしこの日本語は一読しただけで意味を伝える域までには達していません。明らかに読み手のもとに原文が置かれているのを想定し ている訳文です。こういった文章の本を丸一冊読まなければならないとしたら、読書はもう娯楽ではなく苦痛でしかありません。

芝山氏の訳文では<Friday morning>が「翌朝」と訳されています。たしかに日本語の小説であればこういう書き方をするのが普通でしょう。日本語で「木曜の夜」、「金曜の朝」 とあえて細かく書いてある場合は、そこになんらかの特別な意味が付加されているものです。事実を整理している場面であるとか、曜日を確認している場面でな ければ、まずこういった言いまわしが用いられることはありません。外国語をきちんとした日本語に訳すのが容易でないのはこういった言いまわしの差異による ところが少なくありません。しかしその垣根を飛び越えて、ぐいと日本語に引き寄せた訳文は、一般的に新人翻訳者には許されないといわれております。解釈を おもてに出すことは誤訳の危険性がそれだけ高まるからです。ベテランであっても相当の自信がなくてはできない大勝負なのだそうなのです。しかし芝山訳 『ニードフル・シングス』では母国語を真ん中にすえた思い切りのよい文章で、キングの言葉が訳されています。

 芝山訳を読んでいると、翻訳とは英語を読む仕事ではなく、日本語を書く仕事だということを実感します。無生物主語<Her frequent wrangles>は、「ウィルマはしょっちゅう人と口論をはじめてしまう人間だが」という言葉の運びになっています。また次の文章の<It was Wilma who…>の強調構文は「かならずウィルマだった」という副詞を用いた表現にかえられています。戦後以降、無生物主語は日本語の文章として急速に認知され てきました。とはいえ縦横無尽に使いまわせる慣用表現とまでは熟成されていません。強調構文の概念にいたっては日本語として成立していません。芝山訳で は、こういった日本語にならない要素を持つ英文が、日本語にしっくりと馴染む、時間の試練に耐え抜かれた表現にことごとく置き換えられています。言葉だけ でなく、文構造にまでメスが入れられているのです。文庫本上下巻で1300ページを超える長編小説が、一貫してこんなふうに訳されています。付け焼刃の翻 訳とは次元のことなる圧巻な文章。読む者はみなキングの世界にいざなわれ、気がつけば本を閉じることができなくなっています。

動詞の訳も独特です。<faded away>は「うやむやのうちに立ち消えになる>と表現されています。芝山訳を読んでいて思わず唸ってしまうのは、こういう豊かな表現を目の当たりにした ときです。<on those occasions when they came to a head>という副詞句は、「口論が昂じて双方の頭に血がのぼった場合」と訳されています。原文のシンプルな表現に比べ、訳文は訳者の解釈が反映された、 かなり踏み込んだものになっています。ここで喧嘩の話であることがきちんと印象づけられているため、読者はこの後に続く文章の誇張表現に対して違和感を持 たずに読みすすめていくことができます。この場面が原文どおりそっけなく訳されていたら、うしろに続く「決闘の場」や「闘いの武器」の意味が定まらず、違 和感が生じていたでしょう。訳者がきちんと解釈を打ち出すことで、読者が物語を楽しむことにのみ集中できるよう配慮された訳文です。

 では、もうひとつ例を挙げてみたいと思います。

    He’d hoped for some modulation of temperament overnight, but when Wilma got up the next morning, she was even angrier.  He wouldn’t have believed it possible, but it seemed it was.  The dark circle under her eyes ware a proclamation of the sleepless night she had spent. (原文ペーパーバック版p155)

   一晩寝れば癇癪もすこしはおさまるのではないか、とピートは淡い期待をかけた。しかし翌朝めざめたウィルマは、いっそう怒りをつのらせていた。そん なことがありうるなんてとても信じられなかったが、現実にそうだったのだから仕方がない。眼のまわりにできた黒い隈は、ウィルマがひと晩中まんじりともし なかったことを告げていた。 (上巻p289)

とかく「期待」の一言で片づけられがちな<hope>は「淡い期待をかけた」という表現になっています。名詞<some modulation of temperament>は「癇癪もすこしはおさまるのではないか>と述語のように訳され、さらりと心地よく読むことができます。名詞という動かぬ塊が動 詞に置き換えられているため、読者は意識の流れを遮断されることなく、素直に読みすすめることができるのです。<when>を用いた複文は「翌朝めざめた ウィルマは」と、副詞句を被修飾語である名詞として処理し、簡潔に仕上げています。比較級の<angrier>は「つのらせる」という和語で情感が演出さ れ、鼻につく英語臭があとかたもなく消えています。

<He wouldn’t have believe it possible, but it seemed it was.>は一見、平易な単語の連なりのようでいて、拒絶の助動詞、第5文型、文尾の省略を盛り込んだ難しい文章です。そんな原文が、読んでいておもわず ぷっと吹き出してしまうような日本語に昇華されています。

 <The dark circle>を主語にもつ文章も、これまで無生物主語を極力抑えたかいあって、ここぞとばかりに効果が際立ち、情景を喚起させる文章になっています。 <a proclamation of the sleepless night she had spent>の部分では、省略された関係代名詞が先行詞を修飾しています。日本語にはまず存在しない形容方法ですが、これ以外の訳はありえない、ぴたりと はまる日本語になっています。「まんじり」という表現を紡ぎだす研ぎ澄まされた語感にも、憧れを抱かずにはいられません。

 文構造がぐっと日本語に引き寄せられていること。描写がほろりと繊細であること。芝山訳『ニードフル・シングス』を原書と照らし合わせるとこのふたつの 点に気づきます。英語特有の言いまわしが、圧倒的な力技を成し遂げる翻訳者に濾過され、さりげない日本語に生まれかわっています。読者はその恩恵にあずか り、本を読む楽しさにどっぷりと浸かることができます。

日本語の持つ懐の広さが外国語を消化し、読書人に新鮮な感情を呼び起こします。芝山氏の訳された『ニードフル・シングス』はまさにそれを体現した一冊で す。舶来の書物を手にすることが容易となった時代に、海を越えてきた文化を母国語で味わうことができる。現代の翻訳書を読む者にとって、これ以上の贅沢は ありません。