翻訳ベスト50候補




名訳

上田公子訳スコット・トゥロー著『推定無罪』
思いきった飛躍の妙

山岡 洋一
 
 書籍という媒体の特徴のひとつは、たぶん繰り返し読めることだろう。新聞は読み捨て、雑誌も読み捨て、インターネットも読み捨てだが、書籍は違う。読みおわったら書棚に入れて、何かのおりにまた読む。10回でも50回でも読む。読むたびに新しい発見がある。書籍にはこういう特徴がある。

 そう考えると、年に6万点も7万点も新刊が登場する出版界の現状はどこかおかしい。新刊しか扱わない書評もどこかおかしい。何十回でも読める本を紹介してこそ、新聞や雑誌の書評欄の意味がある。だから、『翻訳通信』では原則として新刊は紹介しない。出版後3年以上たって繰り返し読めることがはっきりした本、新古書店にもっていこうなどとは考えない本だけを取り上げたい。

 今回取り上げる『推定無罪』はまさにそういう本だ。初版発行は原著が1987年、邦訳が1988年だから、15年近くたっている。15年近くたって、いまでも読み返しているのだから、間違いなく紹介に値する本だといえる。

 まず、『推定無罪』は名作だ。著者が10年近い年月をかけて練り上げただけあって、法廷ミステリーの型を忠実に守ったうえ、人間を描き、社会を描いている。主人公の検事補が同僚の女性検事補を殺害した容疑で裁判にかけられる。型通りに無罪になり、これも型通りに最後に謎解きがあって、意外な人物が犯人だったことがわかる仕組みになっているが、その過程で人間と社会の醜さがあきらかになっていくのだ。

 翻訳物の場合、名作というだけでは不十分だ。名訳でなければ、どんな名作でも再読にたえない。名作の名訳でなければ、書棚という希少な資源を使う資格はない。新古書店に二束三文で売り払うか、古書店すら引き取らないようなら資源ゴミにするしかない。『推定無罪』はその点、文句なしの名訳だ。古書店行きにはならないし、もちろん資源ゴミにはならない。書棚に定位置を確保できる。

 そしてもうひとつ、タイトルがいい。原題はPresumed Innocentだから、訳せば「無罪推定」になる。これを思い切って「推定無罪」にしたのは、すばらしい判断だったと思う。この本が登場して以来、「推定無罪」という言葉も使われるようになった。ほとんど知られていなかった法律用語を、一般人の語彙にくわえたのだから、この本のタイトルはヒットだと思う。この言葉がでてくる部分を引用しよう。裁判長が陪審員候補に陪審員の心得を説明する場面である。
 

「……みなさん、あなたがたが推定しなければならないことを、もう一度言っておきます。いいですか、サビッチ氏は無罪である。裁判長のわたしがそう言っているのですよ。彼を無罪と推定すること。みなさんはそこに坐っているとき、あちらを見て、自分に言いきかせていただきたい。あそこにいるのは無罪の人間である、と」 (トゥロー著上田公子訳『推定無罪』文春文庫、下巻26〜27ページ)


 これが法律の世界の原則であり、常識である。有罪判決が確定するまでは、被疑者、被告人は無罪と推定される。アメリカで原則であり、日本でも原則である。だが、この常識はなかなか通用しない。新聞を読むと、疑われればそれでおしまい、有罪と推定されるかのように思える。はじめに有罪ありき。罪状は後からついてくる。そう考えられているようで、気持ちが悪くなることが少なくない。

 それはともかく、本題である上田の翻訳について論じていこう。『推定無罪』を繰り返し読むのは名作だからでもあるが、翻訳が目指すべき方向を示しているからでもある。上田は訳しているのではない。小説を書いているのだ。言葉のひとつひとつに命をかける小説家と変わらぬ神経を使って言葉を選択する。おそらく「何を書くか」を著者に任せて「どう書くか」だけに集中している分、並みの小説家以上に神経を使っている。たとえば第1章につぎのような部分がある。
 

……つい一年前には、レイモンド・ホーガンにはもう一度立候補するスタミナも興味もないと、一般に予想されていた。ところが、予備選挙の四か月前になって、彼は突如、再出馬を表明したのである。(前掲書上巻16ページ)

.... A year ago the wagering was that Raymond did not have the stamia or interest to run again, and he waited until four months before the primary to finally announce. (Scott Turow, Presumed Innocent, Penguin Books, 1988, p.11)


 原文を訳そうという姿勢からは、こういう文章は生まれてこない。たとえば「ところが」の部分の原文はandである。英語の先生が目をむきそうな訳ではないだろうか。だが、これを「そして」にすると、日本語にならなくなる。「予備選挙の四か月前になって、彼は突如」の部分は原文ではhe waited until four months before the primary to ... なのだ。原文を忠実に訳すべきだという考え方に従うなら、untilは「までに」でなければならない。たとえば、「〜予備選挙の四か月前になるまで待った」になる。

 こう訳せば、たしかに「忠実」そうな訳になる。だが、何に忠実なのか。原文の表面に忠実だともいえるが、ほんとうは、原文の表面を忠実に訳す訳し方として学校英語で教えられる方法に忠実であるにすぎない。著者がこんな間の抜けたことを書いたとは思えない。原文の表面ではなく、意味を伝えようとすれば、上田訳のようになるのだ。

 たいていの翻訳者は、「忠実に訳せ」という圧力に負ける。こう訳しておけば安全だろう (つまり、意訳だとか誤訳だとか文句をいわれることはないだろう) と思える訳にする。上田は思い切って飛躍する。飛躍しても、ひっくり返って捻挫したり、崖から落っこちたりすることがない。じつに安定した文章を書く。原文を読み込み、十分に理解しているから飛躍しても安全なのだ。

 この少し後にあるレイモンド・ホーガンの台詞をみてみよう。
 

「まったく四面楚歌もいいとこだ。一方にはニコのやつがいて、まるでおれが彼女を殺したみたいに騒ぎたてるし、マスコミと名のつく馬鹿野郎どもは、ひとり残らず寄ってたかって、われわれがいつ殺人犯をみつけるか、知りたがる。……」(前掲書17ページ)

  'It's as if I can't reach it.  I have Nico on one side making out like I'm the one who murdered her.  And every jackass in the world with press credentials wants to know when we're going to find the killer. ... (Ibid., p.12)


 訳そうという姿勢からは、「まったく四面楚歌もいいとこだ」「マスコミと名のつく馬鹿野郎ども」という表現は生まれてこない。「ひとり残らず寄ってたかって」はどうだろう。原文でこれにあたる部分を探していくと、everyという一語が見あたるだけだ。だが、上田の訳文をみてから原文をみると、これしかありえないと思えてくる。そう思えるほど、ぴったりの表現なのだ。原著者になりきり、日本語で小説を書こうとしているからこそ、こういう表現が出てくる。小説の文章になっている。

 小説の翻訳なのだから、小説の文章になっているのは当たり前ではないかと思えるかもしれない。だが、好きな海外作家の小説や、話題のベストセラー海外小説をもう一度、ゆっくりと読みなおしてみるといい。原著者の名前を消して、訳者が日本語で書いた小説だと思って読んでみる。そう思って読める訳書がどれほどあるだろうか。

 翻訳書ではなく、日本人が日本語で書いた本だと思って読んでみる。そうすると、翻訳だから仕方がないと思って我慢していた部分がかなりあるのに気づくはずだ。翻訳だからと我慢することはない。我慢するべきではない。日本語で書かれた小説だと考えて楽しく読める訳書があるのだから。

2002年9月号