名訳
誠実な美女
村上博基訳『スマイリーと仲間たち』
ジョン・ル・カレのスマイリー3部作を原著で読むと、呆然としてしまう。重くて暗くて、ときとして難しい。オックスブリッジによるオックスブリッジのための小説、アメリカで数十万部も売れたというのはほとんど冗談だとしか思えない。最後まで読みとおした人がいったい何人いただろうか。
3部作の最後を飾る『スマイリーと仲間たち』が出版されたのは1980年1月というから、ちょうどレーガン候補がソ連の脅威に強硬姿勢でのぞむよう主張していたころだ。当時、ソ連は怖かった。ソ連という国自体があっけなく崩壊した後になってみれば、KGBの恐ろしさを背景としたスパイ小説など、誰が読むかと思えるかもしれない。だが、優れた小説は時代を超える。大衆小説だったものが古典になる。ル・カレのスマイリー3部作もそういう小説なのだと思う。
キルビー事件といっても、もうピンとくる人は少なくなったはずだ。だが、イギリスの情報機関といえば、大英帝国の栄光を支えた伝統ある組織だ。オックスブリッジの粋が集まる組織。その中枢にソ連の二重スパイが入り込んでいた。情報機関を崩壊させただけではない。大英帝国を支えていた強固な階級制度の権威を一挙に失墜させたのがキルビー事件というある種の悲劇であった(日本経済を支えてきた官僚制度の権威を一挙に失墜させたのは喜劇ですらなく、ノーパンしゃぶしゃぶ事件というお笑いだったのだが)。60年代以降、イギリスで花開いたスパイ小説のうちかなりの部分は、このキルビー事件を下敷きにしている。そのなかで最高傑作を選ぶとするとおそらく、ル・カレのスマイリー3部作、なかでもこの『スマイリーと仲間たち』ではないかと思う。
プロットとスピード、平易な文章で読ませるのがエンターテインメント小説の王道だとするなら、この小説は正反対の道を選んでいるともいえる。意地になっていると思えるほど細部の描写にこだわる。だから、重くて遅い。そして、重くて暗い現実をありのままに描くからこそ生まれる諧謔がある。
ル・カレはスマイリーという年老いた英雄を作りだすことによって、大英帝国の栄光を虚構の中で取り戻し、同時に、大英帝国の伝統を蘇らせる小説を書こうとしたのではないかと思える。イギリスは政治や軍事、情報、経済の世界ではたしかに栄光を失った。しかし、文学ではイギリスに優る国はないと言いたかったのではないか。そう思えるほど力の入った作品だ。
これほどの小説を誰が訳すのかと考えると、村上博基以外には見当たらない。ためしに、酒飲みながら、寿司食いながら、翻訳家の品定めをする場面を想像してみると、当代切っての翻訳家の候補にあがらぬはずがないのが、村上博基だ。
文章力がすごいなどといってはいけない。翻訳家なら、当然のことなのだから(まともに文章を書けない自称翻訳家が多すぎるのは困ったことだが)。注目すべきは、作品の性格によって、原著の文体によって、訳文の文体をさまざまに使い分けていることだ。ひとつの文体で名文を書ける人はいる。だが、いくつもの文体で名文が書ける人はそうはいない。まして、翻訳では。『女王陛下のユリシーズ号』、『勇魚』、『スマイリーと仲間たち』、『影の巡礼者』、『容赦なく』、『超音速漂流』を読み比べてみるといい。文体の幅の広さに驚嘆するはずだ。
前置きはこのくらいにして、『スマイリーと仲間たち』の翻訳をみてみよう。訳書はハヤカワ文庫版、原著はBantam
Book による。
一見関係のないふたつの出来事が、ミスター・ジョージ・スマイリーを、そのあやぶまれた引退生活からよびもどすことになった。最初の出来事の背景はパリ、季節はうだるような八月、例のごとくパリジャンが、灼けつく日ざしと、バスでくりこむ団体観光客に、街を明け渡すときであった。(7ページ)Two seemingly unconnected events heralded the summons of Mr. George Smiley from his dubious retirement. The first had for its background Paris, and for a season the boiling month of August, when Parisians by tradition abandon their city to the scalding sunshine and the bus-loads of packaged tourists. (p.1)
ジョージ・スマイリーを引退生活からひっぱりだしたふたつの事件のいまひとつは、最初の事件の数週間後、おなじ年の秋口に起きた。こんどはパリではなくて、かつてはいにしえの趣きと自由の気風をとどめていたハンザ同盟ゆかりの地、いまはおのが繁栄の喧騒に息も詰まらんばかりのハンブルグの町でだった。とはいえ、まだだれも水を抜いたりコンクリートで埋めたりしていないアルスター湖の、オレンジ色と金色の湖岸ほど、ゆく夏の壮麗さを見せるところはないのは、いぜんたしかである。もとよりジョージ・スマイリーは、そのものうい秋の壮麗を見ていたわけではない。・・ (38ページ)
The second of the two events that brought George Smiley from his retirement occurred a few weeks after the first, in an early autumn of the same year: not in Paris at all, but in the once ancient, free, and Hanseatic city of Hamburg, now almost pounded to death by the thunder of its own prosperity; yet it remains true that nowhere does the summer fade more aplendidly than along the gold and orange banks of the Alster, which nobody as yet has drained or filled with concrete. George Smiley, needless to say, had seen nothing of its languorous autumn splendour. (p. 25)
いや、ひどいものではない、ただ事実であるだけだ、とスマイリーは腹のなかでこたえた。彼は撃たれ、わたしはその死をこの目で見てきた。きみたちもそうすべきではないのか。 (62ページ)
No, it wasn't awful, it was the truth, thought Smiley. He was shot and I saw him dead. Perhaps you should do that too. (p. 44)
この訳文を原文と対照させて読むたびに思い出すのは、辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房)に紹介されている「不実の美女」という言葉だ。17世紀半ばのフランスで好まれたペロー・ダブランクールの翻訳について、メナージュという大学者が「私がトゥールでふかく愛した女を思い出させる。美しいが不実な女だった」と評したのが、この言葉の由来だという。「17世紀のフランスは不実の美女が栄華を誇った時代であった。この時代の翻訳の多くは読者に好まれることを第一とし、削除するのも付け加えるのもほとんど自由自在だったといってよい」と辻由美は論じている(同書108〜109ページ)。
翻訳では、原文への忠実さと訳文の美しさは両立しないというのが通り相場になっている。原文から思い切って離れれば、美しい訳文ができるかもしれない。だが、原文に忠実であろうとすると、醜く読みにくい文章になるのが普通だ。何も削除せず、何も付け加えない忠実な翻訳で美しい訳文を書くことは、辻由美流にいうなら「誠実な美女」になることは、翻訳家にとって不可能への挑戦だとされている。
ところが、ところがである。『スマイリーと仲間たち』で、村上博基はまさにこの不可能にかぎりなく近い翻訳を行っているのだ。まず訳文を読んでみる。小説はこうでなくてはと思える文章になっている。つぎに訳文と原文をじっくりと比較してみる。ほとんど逐語訳といってもいいほど、原文に密着していることに驚くはずだ。一語一句が丁寧に訳されている。どの語句がどの語句に訳されているかが、すべて分かるように訳されている。
もちろん、普通にいう意味での逐語訳ではない。英和辞典に書かれている訳語をそのまま使っているわけではないからだ。
たとえばby traditionは「例のごとく」と訳されることにはなっていない。だが、この句の意味をよくよく考えると、「例のごとく」がまさにぴったりの訳語であることが分かるはずだ(ちなみに、tradition = 「伝統」とするのは、学校英語の間違いのひとつだ)。
また、not in Paris at allが「こんどはパリではなく」と訳されており、やはり英和辞典にはない訳語が使われているが、この句の意味を考えれば、これしかないと思える訳である。
3つ目の引用では、thought Smileyを「〜、とスマイリーは腹のなかでこたえた」と訳している。英和辞典でthinkの項を引いても、「腹のなかでこたえる」という訳語が載っているはずもないが、この文脈でこの語がどのような意味で使われているかを考えれば、これ以外の訳語は考えにくいと思えるほどである。
このように、訳書のどの部分をみても、何も削除せず、何も付け加えない姿勢がはっきりしている。それでいて、美しい訳文になっている。まさに、「誠実な美女」ではないだろうか。
翻訳というと、読者のことを考えもせず、文法書か英文解釈の教科書が教える訳し方と英和辞典が示す訳語をそのまま使った「難解な」ものか、そうでなければ、「読者に好まれることを第一とし、削除するのも付け加えるのもほとんど自由自在」のものかしかないように思える。しかし、村上博基の訳文を読むと、「誠実で美しい」訳文がありうることが分かる。まさに名訳である。
(2003年2月号)