翻訳批評
山岡洋一

翻 訳は、日本語だ
  − 土屋政雄訳カズオ・イシグロ著『日の名残り』


 最近、土屋政雄の翻訳について話す機会があった。『日の名残り』の「プロローグ」の 原文と訳文をあらかじめ読んでもらい、その楽しみ方を話していった。以下はそのときに話した内容、話すつもりで十分には伝えられなかった点をまとめたもの である。

 
 翻訳を職業にしている以上、当然といえば当然のことですが、すぐれた翻訳家が訳した本をよく読んでいます。何かのヒントが得られないかと考えて、原文と 訳文を見比べていくことも少なくありません。そうやって読んだ翻訳書は数百冊あります。そのなかで、これは名訳だと思えるものはそう多くないのですが、今 回紹介する土屋政雄訳の『日の名残り』は、文句なしの名訳、たぶん、ベスト5に入る名訳だと考えています。

 土屋訳の「プロローグ」を読んで、これが翻訳なのかと驚いた人が少なくないのではないでしょうか。翻訳というより、土屋政雄が日本語で書いた小説なので はないかと。そういう感想をもったのであれば、土屋政雄の翻訳の特徴を正確にとらえたのだと思います。翻訳の匂いがしない翻訳、すこし角度を変えて言い換 えるなら、翻訳とはこういうものだという常識をつくがえす翻訳、これが土屋訳の特徴なのです。こうもいえます。土屋政雄は訳しているのではない、原文を読 んで原著者になりきり、日本語で小説を書いているのだと。訳すのではなく、書く。これが土屋訳の特徴です。

 職業柄、翻訳書を読むときはたいてい、翻訳の質は高いか、どのようなスタイルや技法が使われているか、といったことを考えています。純粋に読書を楽しむ のではなく、分析し、研究する対象として読むという姿勢がいつもついてまわるわけです。ですが、『日の名残り』の場合は、数行読んだだけで、そういう賢し らな姿勢は吹き飛んでしまいます。『日の名残り』の世界に引き込まれ、魅力に酔いしれる。

 本を読みおわってしばらく経つと、こんどは、どういう方法を使えばこれほど素晴らしい翻訳ができるのか、猛烈に知りたくなります。翻訳書というものは原 著が出版されているわけですから、原著と訳書を比較しながら読んでいけば、翻訳家がどのような方法を使ったのかは、少なくともある程度まで分かる仕組みに なっています。出発点である原文と到着点である訳文とがあるわけですから、翻訳の方法や技法は秘密でも何でもなく、公開されているといえます。だから、一 度は吹き飛んでしまった分析と研究の姿勢を取り戻して、もう一度、読んでみようという意欲がわいてきます。

 以下ではそのような姿勢で読んだ結果を紹介していきます。

 本書の「プロローグ」は、「一九五六年七月、ダーリントン・ホールにて」という副題がついており、冒頭はこうなっています。

 ここ数日来、頭から離れなかった旅行の件が、どうやら、しだいに現実のものとなって いくようです。ファラディ様のあの立派なフォードをお借りして、私が一人旅をする−−もし実現すれば、私はイギリスで最もすばらしい田園風景の中を西へ向 かい、ひょっとしたら五、六日も、ダーリントン・ホールを離れることになるかもしれません。(土屋政雄訳カズオ・イシグロ著『日の名残り』ハヤカワepi 文庫、9ページ)

It seems increasingly likely that I really will undertake the expedition that has been preoccupying my imagination now for some days.  An expedition, I should say, which I will undertake alone, in the comfort of Mr Farraday's Ford; an expedition, as I foresee it, will take me through much of the finest countryside of England to the West Country, and keep me away from Darlington Hall for as much as five or six days. (Kazuo Ishiguro, The Remains of the Day, Vintage International, p. 3)

 わずかこれだけの文章で、読者を物語の世界に引き込むという点で、見事な文章ではないでしょうか。主人公の立場がはっきりし、物語の大筋も予想できるよ うです。それだけでなく、これだけをみても、土屋訳の特徴がじつによくあらわれていると思えます。自分ならこの原文をどう訳すかと考えてみると、特徴がよ く理解できるはずです。自分で訳そうとすると、たとえば、preoccupying my imaginationの部分でひっかかるはずです。どう訳せばいいのかと考えていくとき、たいていは、preoccupy の訳語をどうするか、imaginationの訳語をどうするかと考えるはずです。辞書を引いて、そこに書かれている訳語を組み合わせてみる。そう考えて いったとき、「頭から離れなかった」という訳が出てくるでしょうか。出てくるはずがないと断言しても、そう乱暴ではないのでないかと思います。

 はっきりしているのは、どういう訳語を使うべきかとは考えていないことです。どういう訳語なら文脈にぴったりかとも考えていないのです。適切な訳語、正 しい訳語、文脈に合った訳語などなどとは、考えていない。そもそも「訳語」を考えていては、こういう言葉は出てこないのだと思います。ではどうして、「頭 から離れなかった」という言葉が出てくるのか。「訳語」を考えるのではなく、「意味」を考えているからだと思います。それも単語の単位ではなく、もっと大 きな単位で、少なくともpreoccupying my imaginationという塊で、実際にはもっと大きい塊で、たとえばthat has been preoccupying my imagination now for some daysという塊で意味を考えているから、こういう言葉が出てくるのだと思います。

 同じことは、I really will undertake the expeditionを「旅行の件が……現実のものとなる」と表現し、in the comfort of Mr Farraday's Fordを「ファラディ様のあの立派なフォードをお借りして」と表現している点にもいえます。たとえば、in the comfort ofの訳に困って英和辞典を引いたとすると、comfortの項には「快適」とか「安楽」といった訳語しか出てきません。これらの訳語を見て、「あの立派 な」という表現が浮かんでくるとは考えにいくと思います。意味を理解したからこそ出てくる言葉だといえます。

  翻訳の技法という観点に立つと、「訳語」ではなく「意味」を考えるという点は、決定的に重要です。センテンスを単語の単位に分解し、それぞれに訳語をあて はめていくという訓練をわたしたちはみな、学校英語の英文和訳で受けています。この方法で訳すときに使える訳語が並んでいるのが、英和辞典です。ですか ら、翻訳にあたって訳に困ると、英和辞典を引いて訳語を探すという風に、わたしたちはみな、条件付けられているのです。ここから脱却しなければ、本当の翻 訳はできない。読者に感動を与えられる翻訳、読者にしっかりと意味を伝えられる翻訳はできない。土屋政雄訳『日の名残り』を読むと、最初の数行で、翻訳の 要諦ともいえるこの点を実感できるはずです。

 次の数行をみていきましょう。

 この旅行の話は、もともとファラディ様のまことにご親切な提案から始まったことで す。二週間ほど前、私が読書室で肖像画のほこりを払っていたときのことでした。脚立にのぼり、ちょうどウェザビー子爵の肖像画に向かっておりますと、ファ ラディ様が棚にもどす書物を数冊、腕に抱えて入ってこられました。私を認め、ちょうどよかったという表情で、「やっと決めたよ。八月九月は、五週間ほどア メリカへ帰ってくることにした」と告げられたあと、書物をテーブルに置き、長椅子に腰をおろし、脚を伸ばして私を見上げながら、こう言われたのです。(同 上、9〜10ページ)

The idea of such a journey came about, I should point out, from a most kind suggestion put to me by Mr Farraday himself one afternoon almost a fortnight ago, when I had been dusting the portraits in the library.  In fact, as I recall, I was up on the step-ladder dusting the prtrait of Viscount Wetherby when my employer had entered carrying a few volumes which he presumably wished returned to the shelves.  On seeing my person, he took the opportunity to inform me that he had just that moment finalized plans to return to the United States for a period of five weeks between August and September.  Having made this anouncement, my employer put his volumes down on a table, seated himself on the chaise-longue, and stretched out his legs.  It was then, gazing up me, that he said. (Ibid)

 ここでとくに目立つのは、原文では間接話法になっているファラディの言葉を直接話法にして訳していることでしょう。これも土屋訳の特徴のひとつですが、 原文の表面から自由自在に飛躍して、物語の世界を築いていきます。翻訳という観点からは、この種の飛躍は冒険です。失敗すれば、目も当てられない悲惨な訳 になりかねません。ですが、土屋訳は、原文が伝える意味を過不足なく日本語で伝えているし、いったんこの訳を読めば原文から他の訳が思いつけなくなるほ ど、物語の世界にぴったりです。土屋政雄が原著者になりきり、日本語で小説を書いているからなのでしょう。

 この部分にも、単語ごとに訳語を考えていく方法では思いつけるはずがない表現がいくつか使われています。たとえば、「ちょうどよかったという表情で」は どうでしょう。これにあたる原文は、he took the opportunityでしょう。試みに英和辞典のopportunityの項を引いてみると、take the opportunity to do sthに「機会をとらえて〜する」といった訳がついていますが、もちろん、「ちょうどよかったという表情で〜する」などとは書かれていません。土屋政雄が 英和辞典の訳語やその類語から適切な訳語を探すという方法をとっていないことが、この表現からも実感できるのではないでしょうか。

 この部分ではもうひとつ、「ファラディ様」という言葉にも注目したいと思います。原文を読むと、Mr Farraday以外に、my employerとheが使われています。これは英文では当然のことです。英文では同じ言葉を繰り返すのを嫌うので、別の言葉に言い換えたり、代名詞、関 係代名詞などを使ったりします。ここで、原文のmy employerにたとえば「私の雇い主」という訳語をあて、原文のheに「彼は」という訳語をあて、「私の雇い主が棚にもどす書物を数冊、腕に抱え て」、「彼は私を認め、ちょうどよかったという表情で」とするとどうなるでしょうか。もうそれだけで、いかにも翻訳だという印象になります。これが翻訳な のかと驚く人はいなくなるはずです。日本語で書くのであれば、そうは書かないからです。この点でも、土屋政雄は訳すのではなく、書く姿勢をとっていること が分かります。

 もちろん、英語の言い換えには情報を追加していくという機能もあります。最初にMr Farradayと書き、つぎにmy employerと書くことで、この人物がどういう立場なのかを明らかにしているのです。翻訳にあたっては、その点を考慮して「私の雇い主」と訳すべきだ という見方も成り立ちます。ですが、土屋政雄は原文のmy employerを無視したわけではありません。原文にあるこの情報をさまざまな表現で伝えています。たとえば、「ミスター・ファラディ」でも「ファラ ディ氏」でも「ファラディさん」でもなく、「ファラディ様」という表現を使っています。原文のMr Farradayには主人公との関係を示す情報がないので、まずはheではなくmy employerと言い換える必要があったのでしょうが、「ファラディー様」という表現にはこの情報がかなりの程度まで含まれています。土屋政雄は原文の Mr Farradayとその言い換えであるmy employerとを合わせて、さらに原文にある他のさまざまな情報も考慮したうえで、「ファラディ様」と書いたのであって、my employerという言い換えを無視したわけではないのです。

 もう一か所、10ページほど後ろの一節をみてみましょう。

 あとは、もう、ファラディ様に再度お伺いするしかないように思われました。もちろ ん、二週間前のご発言がその場の思いつきにすぎず、いまでは考えが変わっておられる可能性もあるわけですが、過去何カ月かの私の観察によれば、召使泣かせ の最たるもの、あの「気まぐれ」という悪癖は、ファラディ様にはありません。前回同様、私の自動車旅行に大賛成し、もしかしたら「ガソリン代はぼくがもつ よ」と繰り返してくださるかもしれません。少なくとも、そうでないと信じる理由は何もありません。(同上、22ページ)

  It semed in the end there was little else to do but actually to raise the matter again with Mr Farrady.  There was always the possibility, of course, that his suggestion of a fortnight ago may have been a whim of the moment, and he would no longer be approving of the idea.  But from my observation of Mr Farraday over these months, he is not one of those gentlemen prone to that most irritating of traits in an employer -- inconsistency.  There was no reason to believe he would not be as enthusiastic as before about my proposed motoring trip -- indeed, that he would not repeat his most kind offer to 'foot the bill for the gas'. (Ibid, p. 12)

 ここにも注目したい点がいくつもあります。たとえば、原文のThere was no reason to believeの部分を後ろにもっていって、「少なくとも、そうでないと信じる理由は何もありません」という独立した文にしています。この原文はいわば定 型句ですから、すぐにも使える技法だといえるしょう。「召使泣かせの最たるもの」という表現にも注目したいと思います。原文ではirritatingとい う言葉が使われています。英和辞典を引いて訳語を考えたのでは「いらいらさせられる」とか「怒らせる」とかの言葉しか出てこないはずです。この物語の雰囲 気をこわしてしまいかねません。「召使泣かせ」は原文の意味を過不足なく伝える見事な表現だと感嘆します。

 もうひとつ、この部分で感嘆するのは、「気まぐれ」です。原文はinconsistencyですから、英和辞典には「不一致」とか「不調和」、「矛盾」 といった訳語が並んでいるだけです。「気まぐれ」というのはこれらの訳語から思い切って飛躍しながら、原文の意味を見事に伝える表現ではないでしょうか。 また、inconsistencyの前にあるダッシュを見事に処理していることにも注目しておくべきでしょう。ダッシュにはいくつかの使い方があります が、ここでは強調のために使われています。土屋政雄は「召使泣かせの最たるもの、あの『気まぐれ』という悪癖」と表現して、まさに、「気まぐれ」を強調し ています。

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 以上のような例がどのページにもつぎつぎにあらわれてくるのをみていくと、翻訳の先輩から聞かされた教訓を思い出します。原文があるから翻訳は簡単だと 思っている間は、まだまだ嘴が黄色い、原文があるから翻訳は難しいと実感できるようになれば、少しは成長したというのです。質の高い日本語が書けるという のは、翻訳者であれば当然のことであり、原文がなければ、あるいは原文を無視してもいいのであれば、いくらでも書けるのだが、難しいのは原文に忠実である と同時に、日本語として完成度の高い文章を書くことなのだというわけです。

 最近では、「こなれた訳文」が翻訳の合言葉になっていますが、その結果、翻訳の大原則、基本中の基本が忘れられかねない状況にもなっていると懸念してい ます。「こなれた訳文」にすることを最優先にするのであれば、いちばん簡単な方法は、原文から離れることです。訳しにくい部分を削除するか、変えてしまえ ばいいのです。そのうえ、訳者か編集者が難しいと感じた部分(往々にして、肝心要の部分)を削ってしまえば、「読みやすく分かりやすい訳文」になります。 読者がそれを望んでいるというのであれば、こう申し上げておきましょう。誰でもそのように馬鹿にされるのを喜ぶはずがないと。

 こうした風潮があるので、土屋政雄訳があくまでも原文に忠実であることを十分に認識しておくべきでしょう。翻訳というより、日本語で書いた小説なのでは ないかと思わせる文章だし、原文から思い切って飛躍しているからこそ、このように美しい日本語になるのだろうという印象をもたれるかもしれません。です が、詳しくみていくと、飛躍しているのは、常識的な訳し方からであって、原文の意味はじつに忠実に伝えていることが分かるはずです。

 こうもいえます。土屋訳の特徴は、原文の表面から思い切って飛躍することによって、原文の意味を忠実に伝えていることだと。ここで「原文の表面」という のは要するに、幕末以降、150年にわたって、原文の忠実な訳し方として教えられてきた方法による訳です。たとえば、preoccupying my imaginationであれば、preoccupy は「先取する」や「占領する」など、myは「私の」、imaginationは「想像」や「想像力」などだと考えて、訳語を適切に組み合わせたものです。 われわれはこれが直訳だと教えられてきたわけですが、実際には、原文を直接に訳したものではなく、原文の表面を、表面だけを決まった方法でなぞろうとした にすぎません。土屋政雄はこの方法をとらず、原文の意味をつかんで、それを忠実に、そして直接に日本語で表現しています。英和辞典の訳語にも、翻訳の常識 にもとらわれず、原文の意味を直接に表現しているという点で、これこそが本物の直訳なのだといえると思います。

 土屋政雄の翻訳は訳語ではなく、意味を考えたものだといわれても、ピンとこないという意見もあるはずです。翻訳をするときに意味を考えるのは当たり前で はないかという意見です。幕末以来、150年間の英語教育と翻訳の伝統はきわめて根強いので、わたしたちは英文を読んだとき、個々の単語を目にして思い浮 かぶ言葉が、じつは訳語にすぎないのであって、意味ではないことになかなか気づけなくなっています。たとえば、inconsistencyという単語をみ たとき、「不一致」、「不調和」、「矛盾」といった言葉が頭に浮かぶはずですが、これは英和辞典に並んでいる訳語であって、この語の意味ではないのです。 意味はいってみれば、訳語よりもっと奥にあります。

 訳語と意味の関係は何とも厄介です。まず、訳語は幕末以来、150年にわたって数多くの先達が意味を考え、それを日本語の語であらわすとすればどうなる かを考えてきた成果です。ですから、英和辞典に並んでいる訳語はたいてい、意味を考えてそれを日本語で表現する作業をかなりの程度まで省略できるようにし てくれるという点で、じつに便利なものなのです。反面、便利なものにはたいてい、思わぬ落とし穴があります。英和辞典に並んでいる訳語の場合、あまりに便 利なために、意味を考え理解するという作業を必要であることすら、なかなか理解できなくなるという落とし穴があるのです。日本の英語教育はあらゆる単語の 訳語を知っているが意味を知らない皮肉屋ばかりを育てようとしてきたともいえます。

 また、便利な訳語があるために、出来合いの訳語以外の表現を考えるのがむずかしくなるという落とし穴もあります。辞書にある訳語以外の語を使うと非難さ れかねなかった時代が、つい最近まで続いていたほどですから。

 もうひとつの大きな問題は、原文を単語のレベルまで分解し、それぞれに訳語をつけ、組み合わせるという方法に限界があることです。わたしたちがたたき込 まれてきた英語学習法は150年ほど前、つまり19世紀後半に確立したものです。当時の原子論的な世界観を反映してこのような方法がとられているわけです が、これが正しい方法なのかどうか、じつはおおいに疑問があります。これは、『日の名残り』の冒頭にある「頭から離れなかった」という表現について触れた 点です。ふつうは、つまりどう訳すかを考えることなく英文を読むときは、preoccupy、my、imaginationという単語に分解してそれぞれ の意味を考え、組み合わせるという方法はとっていないように思います。単語の単位ではなく、もっと大きな単位で意味を考える。翻訳にあたっても、そういう 自然でふつうの方法をとって原文を読んでいけば、表現の幅が広がるはずです。

 訳語の呪縛から抜け出すにはどうすればいいのでしょうか。方法はいろいろありますが、そのひとつが、土屋政雄訳の『日の名残り』のような名訳を、原文と 比較しながらじっくりと味わうことです。自分ならどう訳すかを考えながら読んでいけば、思わぬ発見がどのページにもたくさんあるはずです。訳語の呪縛から 抜け出して、原文の意味を深く味わえるようになるでしょう。

 そして、土屋政雄の名訳を支えているのが、圧倒的な日本語力であることにも気づくはずです。翻訳というと、外国語を使う仕事だと思われていますが、実際 には何よりもまず、日本語を使う仕事なのです。

(2007年12月号)