芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』
「キングは刑務所に入っていたことがあるんでしょうか」。『グリーン・マイル』の原著を読んで、そう感想をもらした人がいる。そう感じるのも不思議とはいえない。死刑囚舎房の様子が脳裏に浮かび、匂いまでしてくるように思えるほど、細部の描写が現実的だからだ。スティーヴン・キングはストーリーテラーだとされているようだが、筋の面白さで読者を引きつけるタイプではないように思う。荒唐無稽な筋を現実的だと思わせてしまう細部描写の冴えが、キングの真骨頂なのではないかと。原著を読めば実感できるはずだ。
原著を読めば、というのは、大部分の訳書がキングのこの特徴を活かせていないと思うからだが、いくつか例外がある。たとえば、芝山幹郎訳の『ニードフル・シングス』(文藝春秋社)を読んでみるといい。活き活きした訳文に圧倒されるはずだ。「あんた、初めてじゃないね」と題された短い冒頭部分はこうはじまっている。
そうさ、初めてじゃないよ。まちがいない。前にもここへきたことがあるだろ。その顔、ちゃんとおぼえているぜ。
こっちへきな。握手ぐらいさせてくれよ。話があるんだ。あんたのこと、顔が見える前から気がついていた。歩き方でわかったのさ。でも、いい時季を選んだね。キヤッスルロックへ帰ってくるには申し分のない日じゃないか。な、最高だろ?……Sure you have. Sure. I never forget a face.
Come on over here, let me shake your hand! Tell you somethin: I recognized you by the way you walk even before I saw your face good. You couldn't have picked a better day to come back to Castle Rock. Ain't she a corker? ....
これだけ読めば、もう物語の世界に引き込まれる。キングの数々の小説の舞台になったキャッスルロックが壊滅する結末まで、一気に読むしかなくなる。読むのなら、翌日の仕事の心配をしなくてもいい休日前を選ぶべきだ。
最後にひとつ、蛇足がある。芝山幹郎は親友のひとりだ。仲間褒めではないかと思われるかもしれないが、そう思われる危険をおかしても紹介しておきたいほど優れた訳だと考えている。念のために。