名訳
須藤朱美

小尾 芙佐訳『アルジャーノンに花束を』

     けえかほおこく1
ストラウスはかせわぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼくのまわりでおこたことわせんぶかいておきなさいといった。なぜだかわからないけれども それわ大せつなことでそれでぼくが使えるかどうかわかるのだそうです。

 ちいさな子供が書いた作文ではありません。今回ご紹介する翻訳書、小尾芙佐訳『アルジャーノンに花束を』の冒頭です。大人になっても幼子ほどの知能しか 持たない主人公チャーリーが、人体実験まがいのIQ向上手術を受けるのを発端とする物語。この作品にはいわゆる地の文というものはなく、テクストはすべて チャーリーの書く「経過報告書」の形式をとっています。

 この本を読みはじめて15分経ったか経たないかという頃でした。「あれ、この本ってノン・フィクションだったっけ」と思い、私は背表紙の説明書きと序文 を確かめました。著者は序文にこう記しています。

『アルジャーノンに花束を』は、虚構の物語であるけれども、これは、実在の人物の実話 にもとづいてかかれたものではないかという質問をしばしば受ける。(ダニエル・キイス著小尾芙佐訳『アルジャーノンに花束を』早川書房/ダニエル・キイス 文庫1 p6)

ひとが人間の領域を踏み越え、試験管のなかでヒトをつくる時代です。チャーリーの受けたIQ向上のための手術が実際の出来事のように感じられるのも無理は ありません。しかし本書のリアルさとは実現可能か否かを云々した次元の話ではなく、自分の身にふりかかったような感覚があるということなのです。

語弊を恐れながらもあえてざっくり言うならば、小尾訳『アルジャーノンに花束を』は文章の生みだす世界に破綻がないため、異常なほどのリアルさを持ってい ます。芥川の言葉を拝借して言いかえるならば、「本当らしい小説とは単に事件の発展に偶然性の少ないばかりではない。おそらくは人生におけるよりも偶然性 の少ない小説である」のです。

『アルジャーノンに花束を』は事件の発端こそ奇抜ですが、発展はきわめて偶然性の少ない物語です。偶然性が殊更に少ない、要するに「本当っぽいなあ」と思 えるのはこんなところです。

・チャーリーのIQ向上に伴う周囲の態度の変化。好人物が悪人になる場合、またその逆の場合、どちらも絶対的な人格の変化ではなく、ひとりの人間が持つ善 と悪の両要素がどう現れるかで善人に見えたり、悪人に見えたりする。

・幸せな場面もそうでない場面も、幸と不幸、一方の要素しか持たないのではなく、必ず両要素を併せ持っていること。幸、不幸の判断は当事者の考え方次第。

・チャーリーの知能指数と文体が正比例していること。視覚的、あるいは聴覚的な文体はやがて情緒的になり、分析的になったところでIQはピークを迎える。 その後、急カーブを描くようにIQと文体は元に戻っていく。

 周囲の変化と幸、不幸の判断、このふたつの臨場感は、巧妙に現実を写実した内容の面白さによります。一方、文体の変化が自然なのは、いくつかの文体を書 き分けられる筆者の筆力に支えられています。内容と文体が二人三脚をしながら絶え間なく変化していく、そこにこの作品の面白さがあります。逆を言えば、も し内容の変化と文体の変化が寸分でも違っていれば物語は急に現実味を失い、色あせてしまうことでしょう。日本語版、小尾訳『アルジャーノンに花束を』は原 書の持つリアルさを損なうことなく、日本の読者の感覚に合わせた文体で訳された名訳書です。

では文体の変化を味わいながら例を並べてみていくことにしましょう。

【@手術前の経過報告書】
    Dr Strauss said I had something that was very good.  He said I had a good motor-vation.  I never even knowed I had that.  I felt good when he said not everbody with an eye-Q of 68 had that thing like I had it. (原書ペーパーバック版p9)

ストラウスはかせはぼくがともていいものをもているといった。いいもーたーべーしょんをもっているといった。そんなものをもっているとわ知らなかった。あ いQが68の人間がみんなぼくがもっているようなものをもっているとわかぎらないといわれたときわいい気分だった。(p30)

【A手術後まもなくの経過報告書】
I said that all my friends are smart people and their good.  They like me and they never did anything that wasnt nice.  Then she got something in her eye and she had to run out to the ladys room. (p37)

    ぼくの友だちはみんな頭がいいしみんないい人ですよとぼくはいった。みんなぼくのことが好きでいじわるなんかしたことないですよ。するとキニ アン先生の目の中になにかたまってきて洗面所へ走っていかなければならなかった。(p76)


【BIQの最高時の経過報告書】
        They don’t like to admit that they don’t know. It’s paradoxical that an ordinary man like Nemur presumes to devote himself to making other people geniuses. (p153)

彼らはわからないということを認めたがらない。ニーマーのような凡庸な人間がおこがましくも人間を天才に仕立てることに熱中すると言うのは逆接めいてい る。(p251)

【C最後の経過報告書】
    I dont no why Im dumb agen or what I did rong.  Maybe its because I dint try hard enuf or just some body put the evel eye on me.  But if I try and practis very hard maybye Ill get a littel smarter and nowhat all the words are. (p310)

どうしてまたばかになてしまたかほくがなにかわりいことをしたかわからない。きっと僕がいっしょけんめやらなかったからかもしれない誰かがぼくにまじない をかけたからかもしれない。でももうちょとりこーになってことばもみなわかるよおになるだろうな。(p484)

 時間の経過に合わせて報告書を見ていくと、チャーリーの文体が放物線を描くように変化しているのがわかります。@の拙いながらもほほ笑ましい原文は助詞 のぎこちなさで表現されています。チャーリーが初めて耳にするmotivation、IQといった言葉は、子供が耳で聞いたままの音を文字にしたような可 愛らしい訳語があてられています。

 Aの例では自分の判断したことを言葉で表現するのに成功したチャーリーの様子がうかがえます。文章からは誤記が消え、成長の度合いが的確に表現されてい るのがわかります。その一方で洞察力の足りなさは幼い語彙で表現されています。この時期のチャーリーをAの文体は的確に表現しています。仮に前後に挙げた 例の文体で訳してみてもうまくはいかないでしょう。@では荷が重すぎ、Bでは温もりが伝わりません。

 Bの原文には衒学的で驕慢なチャーリーの姿があります。思い上がった知識人の書きそうなシニカルな文章を、小尾氏は辛辣な文体で訳しています。教授批判 のたった数行には、チャーリーの置かれている立場、知性のほど、斜に構えた姿勢など膨大な情報が詰まっています。文字にしていないことまで伝えうるのは、 小尾氏の採用した文体が内容にぴたりと一致しているからではないでしょうか。

 Cは退行の進んだチャーリーが書いた文章です。文体から判断するにIQは@とAの間くらいなのでしょうか。読んでいるとただ無性に切なくなる文体です。 いじらしい熱意が幼い言葉で綴られているだけに、一層の哀愁が胸を締めつけます。

 様々な文体を持つ4例には共通している点があります。それは原文に忠実に訳されていること。それでいて日本語として読んだ際、翻訳書にありがちなひきつ れ感がないこと。柳瀬尚紀氏の『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書)によると、翻訳の大家、二葉亭四迷は初期、カンマには句点を持って一字一句を損なわず に訳そうと骨折っていたそうです。ただしそれでは日本語の読み物として完成しえないことを悟り、文章の飛躍過多を恐れつつも、文体を日本語に引き寄せる方 針をとるに到ったらしいのです。これほど原文に忠実に訳しながら日本語として破綻がなく、読者を魅了する翻訳書があるのをあの世で四迷が知ったらどう思う でしょう。多少の嫉妬を禁じえずも、後人の成果にさぞやご満悦なのではないでしょうか。