翻訳ベスト50候補

芝山幹郎訳『ニードフル・シングス』

 

宮田貴子


  これまでは、いわゆるマルチ・プロットの小説にはどうもなじめないと感じることが多かった。だが、『ニードフル・シングス』(芝山幹郎訳)を読んだときには、セリフや動作の描写を通じて、各登場人物がはっきりと浮かびあがってきた。

 原書と訳書を読み比べていたとき、とくに印象的だったのは次の箇所だった。
 

He was deeply and hopelessly in love with Miss Ratcliffe, and he waited all week for his special ed class to come around. The Tuesday schoolday seemed to last a thousand years, and he always spent the last tow hours of it with pleasant butterflies in his stomach. (14ページ、下から14行)

彼はミス・ラトクリフが大好きだった。やりきれないほどの思いで、心の底からこの先生に恋をしていた、といってよいくらいだ。つぎの補習授業までの一週間、彼は首を長くしてその日を待ちわびる。当日の火曜日は、一日が千年の長さだ。補習まであと二時間というころになると、ブライアンの胃のなかでは蝶々が楽しげにとびまわりはじめる。(上巻32ページ、1行)
 

 was ・・・ in love withについては、11歳の少年の気持ちにふさわしいように、最初に「大好きだった」と表現している。この表現がなくて「恋をしていた」だけだと、文脈にやや違和感を抱いたかもしれない。

 waitedは「首を長くしてその日を待ちわびる」とふくらまして訳している。一方で、seemedは「のようだ」といった表現を使わずに、比喩をあえて端的に訳出している。細かいことではあるが、自分で翻訳するとなると、とてもこのようには訳せないと思った。リズムのよい日本語で少年の気持ちが生き生きと伝わってくる。

『ニードフル・シングス』の原書は、上に紹介したように、英語自体はそれほど難しいものではないと思う。そうした英語がどんな日本語で表現されているかという点に注目して、原書と訳書をじっくり読み比べてみると、いくつもの発見があった。

翻訳ベスト50候補に戻る