『国富論』翻訳の悲惨 -- 第1編第2章の問題点
『国富論』既訳の問題点については、以前に第1編第1章を対象に論じたことがある。今回は視点を少し変えて、原文の論理性を既訳がどの点で伝えられていないのかを指摘していきたい。『国富論』のように経済を扱った古典を訳すとき、もっとも重要な点は原著の論理を日本語で伝えることだと思う。個々の言葉や歴史的な事実などの点でいかに正確に原文を訳していても、論理を伝えられないのであれば、翻訳としては失敗だと考える。そのような観点から、既訳の問題点を指摘していきたい。
なお、原著の論理を考えていく以上、本来なら、少なくとも段落の単位で原文と既訳を引用し、論理の構造を論じていくべきである。だが、『国富論』の段落はきわめて長く、全体を引用することはとてもできない。第2章は原文5ページが5段落に分かれているにすぎないのだ。可能であれば、既訳のうちいずれかを参照しながら以下を読むようお願いしたい。原文はサイトに掲載した。
参照した既訳 (括弧内は以下で用いた略称)
1. 水田洋監訳、杉山忠平訳『国富論』岩波文庫、2000年5月16日発行の第1刷 (杉山訳)
2. 水田洋監訳、杉山忠平訳『国富論』岩波文庫、2002年4月10日発行の第2刷 (水田訳) ? 1.の大幅改定版
3. 大河内一男監訳『国富論』中公文庫 (大河内訳)
4. 大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波文庫 (大内訳)
5. 竹内謙二訳『国富論』東大出版会 (竹内訳)原著第1編第2章 http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/koten/1-02.txt
章題をどう訳すか
第1編第1章は「分業(Of the Division of Labour)」と題されており、分業によって労働の生産性が飛躍的に上昇することが論じられている。第2章では、分業の起源が扱われている。原題はOf
the Principle which Gives Occasion to the Division of Labourである。
このprincipleはどう訳されているか。確認するまでもないが、既訳ではいずれも「原理」と訳されている。経済学の古典では、スチュアート、リカード、J.S.ミルらの主著の題名にprincipleという語が使われており、いずれも「原理」と訳すのが常識になっているからだ。
だが、「分業を生む原理について」(水田訳)という題を読んで、何がどう書かれているのかと考えながら第2章の本文を読むと、戸惑いを感じるかもしれない。本文に書かれているのは、動物と人間の違い、とくに犬と人間の違いなのだから。
このprincipleが「原理」なのかどうかは、疑問があると思える。竹内謙二は『誤訳?大学教授の頭の程』 (潮文社) で、第2章の本文中に2回使われているprincipleについて、「いつでも『主義』『原理』と思い込むのは学者の弊である」と指摘した。ただし、その竹内も第2章の題は「分業の起こる原理について」と訳している。
本文の内容をまとめたのが題だと考えるなら、「分業の起源」が最善の訳ではないだろうか。
とくに有名な文をどう訳しているか
『国富論』は原文約1000ページ、訳書が少なくとも3巻本になる大著だ。そのなかからアダム・スミスの考え方を示す言葉や文を抜き出せると考えるのは、危険なことだと思う。それでも、頻繁に引用される文があるのは事実だ。なかでもとくに有名な文が第2章にある。それがどう訳されているかをみていこう。
水田訳 われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである。
大河内訳 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく、かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。
大内訳 われわれが自分たちの食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の仁愛にではなく、かれら自身の利益に対するかれらの顧慮に期待してのことなのである。
竹内訳 吾々が食事をするのは、肉屋や酒屋やパン屋の恩恵によるのではなく、彼ら自ら自分の利益をはかるがためである。原文 It is not from the benevolence of the butcher, the brewer, or the baker, that we expect our dinner, but from their regard to their own interest.
既訳のいずれかが引用されていたとしよう。これで意味が分かるだろうか。論理が理解できるだろうか。正直にいって分からない。分からないどころか、支離滅裂という印象をもちかねない。
たとえば、「われわれが食事を期待するのは、」とあったとき、つぎに「腹が減っているからだ」とか「おばさんがいつも親切だからだ」とか書かれていれば、論理のつながりを読み取れる。ところが、「肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害にたいする配慮からである」と書かれている。文章を簡単にするために「肉屋」だけにしてこれを分解すると、こうなる。
A. われわれが食事を期待するのは、肉屋の慈悲心からではない。
B. われわれが食事を期待するのは、肉屋自身の利害にたいする配慮からである。
どちらも論理がつながらない文章だ。言いたいことは何となく分かるが、いかにも稚拙で、非論理的な文だと思える。大河内訳も同工異曲であり、やはり非論理的な文章だ。
水田洋も大河内一男もおそらく、この文章が非論理的だというと、原文にそう書いてあると指摘するだろう。たしかに原文をみると、そして学校で教えられる英文和訳の原則に基づいてこの原文を和訳すると、水田訳や大河内訳のようになる。原文のfromを「から」と訳す。原文のbenevolenceを「慈悲心」「博愛心」と訳す。英文和訳ならこれで満点だ。英文和訳の観点からは完璧に近いが、非論理的だと感じられる文章になっている。
ここに問題がある。非論理的なのはアダム・スミスの原文なのか、それとも英文和訳の原則なのかである。言い換えれば、非論理的なのは原著者なのか、訳者なのかだ。もちろんもうひとつ、読者が不勉強であったり、論理を理解する能力が不足していたりする可能性がある。だが、「われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋自身の利害にたいする肉屋の関心による」ではいかに支離滅裂ではないか。だから、読者の側の問題はここでは無視できるはずである。
翻訳という観点に立つなら、非論理的なのが原著者なのか訳者なのかは、簡単に解決がつく。
第1に翻訳を職業にしている者は、よほどの理由がないかぎり、論理を大切にする原著者が非論理的な文章を書くとは考えない。まして、頻繁に引用される有名な部分が非論理的だとは考えない。論理がつながらない訳文ができたとき、悪いのは原著者ではなく、自分のはずだと考える。
第2に、翻訳にあたっては品詞を自由に転換できるという原則がある。たとえば、竹内訳にある「彼ら自ら自分の利益をはかるがためである」の部分は、原文の名詞を動詞に転換して、文章がつながるようにした例である。これと同じ方法をとると、原著者が日本語で書けばこう書いたはずと思える訳文を簡単に作れる。たとえば以下のように訳せば、支離滅裂ではなくなるし、原文の意味を過不足なく伝えられるはずだ。
訳例 われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮してくれるからではなく、自分の利益を追求しているからである。
なぜ突然、友情論がでてくるのか
同じ段落の少し前の部分の訳文に、こういう一節がある。
竹内訳 文明社会では、人間は常住無数の人の協力と援助とを必要とするが、而も一方において、その終世を以てしても尚お僅々数人の交友を得るにさえ、足るか足りない位である。
水田訳 文明社会では、人はつねに多数の人びとの協力と援助を必要としているのに、一生をかけても何人かの人びとの友情を得るのにたりない。原文 In civilised society he stands at all times in need of the cooperation and assistance of great multitudes, while his whole life is scarce sufficient to gain the friendship of a few persons.
これだけ読むと、友情について論じているように思える。スミスは道徳哲学の教授だったから、ここで読者に友情の大切さを教えようとしているのだろうか。とくに竹内訳はこの前で段落を区切っているうえ、名言集に収録したいような文章なので、ますますそう思えてくる。
しかし、この段落の構造をみていくと、ここで友情論がでてくる理由はないように思える。この段落では、以下のように論じられている。
1. ものを交換しあう性質は人類に共通していて、動物にはないものだ。
2. 動物は交換を知らないが、相手に気に入られてものをもらう方法をとることがある。
3. たとえば愛玩犬は主人の目の前で芸をして、餌をもらおうとする。
4. だが、人間はこの方法をとろうとすると、時間がいくらあっても足りない。
次に引用部分があり、その後に人間と動物の違いとして、動物は成長すると独立し、仲間の助けを必要としなくなるが、人間は一生にわたって他人の支援を必要としていると論じられている。
このような論理の流れをみていくと、竹内訳も水田訳もいかにも唐突で脈絡がないと思える。こういうときには、どこかで訳者が論理をつかみきれていないことが多い。この場合にも、原文をじっくり読むと、論理の流れをつかめていないのではないかと思える部分が見つかる。
この文の前半でスミスは、犬などの動物と人間のどこが違うかを再確認している。愛玩犬ならたったひとりの主人に気に入られれば生きていけるが、人間はそうはいかない。人間は分業を行うので、とくに贅沢をしなくても、何千人、何万人もの人たちの労働の生産物を利用して生きている。これが前半部分だ。
この後に友情論なのかと思える部分があるわけだが、どこか奇妙だ。たぶん、いちばん奇妙なのが「数人の交友」「何人かの人びとの友情」だ。こう訳されている部分の原文はthe friendship of a few personsである。このa few personsを「数人」「何人か」だと考えるから奇妙になる。全体のなかの少数といっているにすぎない。何千人、何万人のなかでのa fewなのだ(ちなみに、英語のa fewは数を相対的に表現しており、2から5ないし6までを示すとはかぎらない)。
人間は犬と違って、だれかの労働の生産物を必要とするときに愛想を振りまいていくわけにはいかない。人間は何千人、何万人の人たちの力を借りなければ生きていけず、そのうち知り合えるのは少数にすぎないからだ。こう論じていると考えるべきなのだ。ここでスミスは友情について論じているわけではない。
読者の善意に頼る訳文
アダム・スミスはこの後、他人の善意に頼るより、他人の利己心に訴えた方が、他人の協力を得やすいと述べている。ここに前述の有名な文がある。
そう述べた後、他人の善意に頼ろうとする人がいないわけではないと論じて、乞食の例をだしている。スミスは用意周到なのだ。反論を予想して、説明を加えている。そして、乞食も、他人の善意だけに頼っているわけではなく、交換という方法を使っていると論じる。この部分の既訳をみてみよう。
水田訳 善意の人びとの慈善が乞食に生活資料のすべてを提供するのはたしかである。しかしこの原理が乞食の必要とする生活必需品をすべて最終的に与えるのではあるが、彼が必要とするときに必需品を与えるわけでも、与えうるわけでもない。
大内訳 なるほど、好意ある人々の慈善がかれに生存のための全資源を供給してはいる。けれども、たとえこういう原理がけっきょくはかれの必要とするいっさいの生活必需品をととのえてくれはするとしても、それはかれの必要とするとおりのものをととのえてくれるものでもなければ、またそうできるものでもない。原文 The charity of well-disposed people, indeed, supplies him with the whole fund of his subsistence. But though this principle ultimately provides him with all the necessaries of life which he has occasion for, it neither does nor can provide him with them as he has occasion for them.
これでスミスが何を言おうとしているのかが伝わるのだろうか。
まず、大内訳にでてくる「原理」は、竹内謙二が「いつでも『主義』『原理』と思い込むのは学者の弊である」と揶揄したものだ。水田洋はこれを読んだうえで、「原理」と訳している。しかも「この原理が……生活必需品をすべて最終的に与える」と訳している。意味不明の文章だ。
ちなみに大河内訳では、この部分は「たとえこのやり方で、かれの必要とする生活必需品のすべてが結局ととのえられるとしても」になっている。竹内の批判の効果があったとみえて、日本語としてまあまあ読める文章になっている。水田訳は大河内訳より20年以上も後の2002年4月の刊行だが、過去の訳や竹内の批判が活かされていないので、50年以上も昔のものではないかという印象を受ける。
もうひとつ、「生活資料」も竹内が揶揄した部分だ。「乞食の生活資料のすべて」とはいったい何なのか。たぶん、誰にも分からない。分かった振りをしてはいけない。理解不能の言葉が使われているのだから。だが、原文を読むと、何のことはない、the whole fund of subsistenceと書かれている。普通に読めば「お金」のことだ。だが、その後にお金や古着を恵んでもらう話がでているので、もう少し範囲を広げて、たとえば「生活の糧」とすればどうだろうか。
荷かつぎ人足と学者の間に才能の違いがそうあるわけではないと論じたアダム・スミスなら、こうした理解不能の言葉で素人を脅すようなやり方を好まなかったように思う。『国富論』の原文を読んでいると、そう感じる。普通の言葉で経済を論じている。もちろん、『国富論』は簡単ではないし、分かりやすくもない。これは経済がそう簡単にわかるものではないからであり、スミスは読者に忍耐強く、注意深く読むように懇願している。しかし、難解さを装って素人を脅すような方法はとっていない。この点は、『国富論』の翻訳に取り組むものが肝に銘じておくべきだと思う。
それはともかく、本論に戻ろう。訳語の問題はさておき、この部分の論理の流れが理解できる訳文になっているだろうか。乞食にとって、慈善に頼る方法で何が手に入り、何が手に入らないといっているのか。
原文を読むと、何のことはないという印象を受けるはずである。乞食はたしかに、親切な人の好意で生活の糧を得ている。だが、つきつめていけばこの方法で生活を支えているとしても、そのときどきに必要なものをすべて、物乞いだけで得ているわけではない。これがこの部分の趣旨である。原文にはそう書かれている。原文の意味を日本語で伝えることが目標であれば、既訳のようになるはずがないと思うのだが。
視点の問題
最後にもうひとつ、意味不明に近い訳文を取り上げ、どうすれば論旨が明快になるかを考えてみよう。
水田訳 そしてこのようにして、自分自身の労働の生産物のうちで自分が消費しきれない部分をすべて、他人の労働の生産物のうちで自分が必要とする部分と、確実に交換することができるのだということが、各人を特定の職業に専念するようにし、そしてその特定の仕事にたいして彼がもつあらゆる才能や資質を育成し完成するように、しむけるのである。原文 And thus the certainty of being able to exchange all that surplus part of the produce of his own labour, which is over and above his own consumption, for such parts of the produce of other men's labour as he may have occasion for, encourages every man to apply himself to a particular occupation, and to cultivate and bring to perfection whatever talent or genius he may possess for that particular species of business.
この部分を取り上げるのは、ほぼ同じ文章が何度もでてくるからだ。たとえば、第4章の冒頭部分はこうだ。
水田訳 いったん分業が完全に確立してしまうと、人が自分自身の労働の生産物で充足できるのは、彼の欲求のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。彼がその欲求の圧倒的大部分を充足するのは、彼自身の労働の生産物のうちで彼自身の消費を超える余剰部分を、他人の労働の生産物のうちで彼が必要とする部分と交換することによってである。原文 WHEN the division of labour has been once thoroughly established, it is but a very small part of a man's wants which the produce of his own labour can supply. He supplies the far greater part of them by exchanging that surplus part of the produce of his own labour, which is over and above his own consumption, for such parts of the produce of other men's labour as he has occasion for.
例によって訳語に問題があるために、いかにも読みづらい訳文になっている。だが、それ以上に論理の理解を妨げているのが、「自分」「彼」といった言葉を何度も使っている点だろう。原文にheとあれば「彼」と訳す。そうしなければ減点されるという脅迫観念にとらわれているかのようだ。
この問題は実は、視点を変える方法で簡単に解決する。英語で書かれた文章を翻訳する際には、視点の転換はごく初歩的な手法である。客観的な視点(つまり「神」の視点、上からの視点)で書かれた文章を主観的な視点(つまり、登場人物の視点)に転換することが多いが、ここでは逆の方向に転換するといい。つまり、「彼」の立場から見て、「自分」と「他人」の関係として表現されている原文を、多数の人たちの関係を客観的に描く文章として訳す方法をとる。このように視点を転換すると、複雑な構文が整理されて、すっきりした訳文になるはずである。例をあげておこう。
訳例 こうして、各人が自分で消費する以上のものを労働によって生産し、余った部分を交換して確実に必要を満たしあえることから、各人がそれぞれひとつの仕事に従事するようになる。そして、その仕事の能力や才能を伸ばし、完成させるようになる。
解説がなければ読めない訳文
以上のように既訳には、原文の論理の流れを伝えられない部分がいくつもあると思えるが、それを指摘していこうとすると、奇妙な錯覚に陥りそうになる。学生に向かって、『国富論』の意味を解説しているような気分になってくるのだ。なぜそんな気分になるかというと、学生のころ、水田洋らの世代の教授がまさにそうしていたからだ。
学生が読まなければならない古典の翻訳がある。訳したのはたいてい、各分野を代表する有名な教授だ。翻訳で読むと、一読どころか何回読んでも意味が分からない「難解な」文章だ。それを解説するのが大学教授の役割だった。だから、原文の論理構造を指摘しようとすると、経済学の学の先生になったかのような錯覚に陥る。
もちろん、ここではスミス経済学の学を論じようとしているのではない。原文に何が書いてあるのか、それを既訳で伝えられているのかを考えているだけだ。アダム・スミスの原文を読めば読み取れる論理の流れが、既訳からは読み取れないと指摘しているだけだ。アダム・スミスの原文は、解説がなくても読めるように懇切丁寧に書かれている。それを日本語で表現すればどうなるかを考えようとしているだけだ。
そもそも『国富論』を読むのは、経済学について学びたいからではない。経済に興味があり、経済について考えたいからである。アダム・スミスはまさにそういう読者に向けて書いている。読者に経済学についての予備知識を要求してはいない。当時は経済学という分野がないに等しかったのだから、当然である。『国富論』が分かりやすいとか読みやすいとか言いたいわけではない。『国富論』は二重の意味でむずかしい。第1に、対象になっている経済が簡単には理解できないほどむずかしいものだ。第2に、200年以上も前に書かれているので(日本でいえば、文化文政時代より前に書かれているので)、言葉にも背景知識にも違いがある。だが、少なくとも、既訳を読んだときに感じられるほど「難解な」わけではない。
水田らの世代の学者は、まず英文和訳の原則にしたがって意味不明の訳文を作り、つぎにその意味を解説する方法をとった。だから、訳文が意味不明だと批判されようが、論理が通らないと批判されようが、まったく動じなかった。意味が分からないのは当然で、分からない人は解説を読みなさいという姿勢をとってきた。竹内謙二の批判を水田洋が無視しているのは、そのためだ。
だが、いまでは原文を読める人が以前とは比較にならないほど増えている。たしかに『国富論』を原文で読むのはむずかしいが、既訳で読むよりはやさしいとも思える。これでは翻訳の意味がない。まして21世紀の新訳として出版する意味はない。
翻訳というからには少なくとも、原著者が伝えようとした意味を、解説がなくても読みとれるものになっていなければならない。原著者が日本語で書けばこう書いただろうと思える文章になっていなければならない。論理のつながりが読み取れない意味不明の訳文を書いて、解説を売りつけるようであってはならない。何も付け加えず、何も削除せず、原文を素直に訳していけば、解説なぞ不要の訳文ができるのだから。
(第2期第7号)